『AI分岐点に立つ人類』涼風書林
ちょっと本から離れてしまうかもしれませんが、
今の時代ってココに無理あるなぁ、と考えてました。
人が心を動かしたから脳波が動くのであって、
脳波が動くから感動するんじゃない。
子どもが泣いた時、抱っこして泣き止むことも多いけど、
抱っこしたらいつでも泣き止むわけじゃないのです。
飢饉で食べるものがないのに庄屋がため込んでいるから
暴動を起こすんであって、
暴動が起こる時は必ず食べ物が足りないわけじゃない。
『自由の哲学』のどこかに書いてあったけど、
人が歩いたから地面に足跡がついたのであって、
足跡があるのは人が歩いた証拠じゃないのです。
ややこしいですか。
AIの世界では見えているところ、
画像認識で「笑ってる」と処理される事も、
嫌だけど我慢して笑顔でいることくらい、
誰にでもあることですよね。
見えているのは本当の中のほんの一部だと
誰にでもわかってるはずなのに。
見えている姿のその奥に、
いろんな気持ちがあるってわかってるはずやのに。
それでも、気持ちの動きは「気のせい」で片づけちゃって、
見えることがすべてじゃないことも、
原因と結果の順番も無視して、AIに答えを託すなんてな~。
世の中の変化が早くなって、答えを急ぎすぎて、
問いも出さずに、原因も考えずに、
答えを欲しがっているように思えてなりません。
それでいいならいいんですけど、私はイヤだなぁ。
ちょっと気分がすぐれなくて病院に行って、
先生に診察もされず、話を聞いてもらうこともなく、
抗うつ剤を処方されるようなもんですね。
それでいいんならいいんですけど、私はイヤだなぁ。
AIがいらないっていうんじゃないのよ。
西洋医学にも重なるんですけど、
自分の気持ちなんか関係なく、外科手術が必要な時には
西洋医学の発展に命を救っていただきたいし。
ただ、気持ちが体の不調に表れている時もあるし、
ただ、人であることを尊重されるだけで不調が消える事もある
そういう、当たり前のことを、
人として忘れないでいたいな、と思うのです。
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