ガザ・パレスチナと共に生きる 白杖記

◆ひかるの呟き◆11/29

https://news.yahoo.co.jp/articles/54961c0a52d2dc04368f73da9c64e00c8ffb0d23

をクリックし、映像が見える方には見てほしい。ヌセイラトでのイスラエル軍によるミサイル攻撃の様子がとらえられている。私はよく見えないのだが、この映像を見た友人が、周りのビルは壊されてないと教えてくれた。この映像からいろいろと考えさせられた。
この攻撃で10人が殺されたとあった。映像の無効で10人のパレスチナ人が殺されているのだ。名前も。性別も、年齢も。何をしていたのかも何もわからない。
だが、ついさっきまでは確かに生きていた。レバノン停戦を喜び、ガザも停戦になってほしいと願っていたかもしれない。お年寄りは自分が生き延びることよりも、子供や孫たちに自分の食べ物を譲っていたかもしれない。確かに生きていたのだ。この10人の人生が強制的に終わらされた。イスラエル軍のミサイルで。ただただガザに生まれたそれだけの理由で。パレスチナ人というそれだけの理由で。
イスラエルの攻撃はいわゆる絨毯爆撃ではないようだ。ミサイルが破壊した住宅ビルの隣りの住宅は無事なのかもしれない。だが、イスラエルはガザ北部で包囲しているガザ市、ジャバリア、米トラヒヤ地区では戦車が一軒一軒の家を、住宅のビルを破壊し続けている。
イスラエルはテロリストだと決めつけたら、その決めつけられた人の家をブルトーザーで破壊してきた。それをイスラエルの法律で決めている。イスラエルではそれは合法なのだ。ガザ北部三地区の住宅を戦車とブルトーザーで破壊しているのも法律にのっとているのだ。ガザの人々が住む家を破壊し、更地にし、新たな入植地として獲物を分け合うのだろう。
かつての戦争での残虐行為はできるだけ秘密裏に行われた。歴史的には残虐行為はなかったことにされてきた。だが今は違う。世界中の人がその残虐行為を目撃しているのだ。日本の私でもその残虐行為を」知っている。
歴史的残虐行為を許してきたことの一つの要因に、無関心が指摘されてきた。今は違う。関心をもっているのだ。関心を持っているだけではない。ガザの停戦を実現するために、ささやかな行動もしている自分の目の前で、この残虐行為が行われているのだ。関心を持つだけでは止められないのだ。
人類の発展に貢献するような行動や業績を上げた人たちもたくさんいる。それがこのガザ虐殺の前では無力なのだ。関心を持っているだけではだめ、人類の発展に貢献することだけではだめなのだろう。
いや、できることはあると自分に言い聞かせている。関心を持ち、人類の発展に貢献してきたような知恵と行動をもってすればできると言い聞かせている。停戦を実現するためにできることはあるはずだ。絶対にある。

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