女として大阪で暮らす。(朝鮮婆ではないよ)

自然を愛する人です。
そして動物を愛する人です。
植物も大好きです。
ニコ生すき、日本の糞ばばですよ。

天国って、面白いの?!(6)

2011-01-23 | 日記
愛する”まさまさ”はそのころ、コメンティターをしておりました。
なれない仕事に、つらい日々だったに違いありません。

チンチラの私は、そのすばらしい顔がくもるのをみるたびに、心が痛みました。
つらいいじめのようなものがあったに、ちがいありません。

”まさまさ”は、”ごろごろ”とよく飲んでいたようです。
そのころの、”ごろごろ”は、よくお芝居にのめりこんでいたようです。

”にゃ曲”は、そのころ”ごろごろ”のおりきのかたといきましたね。
”ごろごろ”は、マップのなかでは、浮いた存在でしたね。

右利きで、テンパーで、流し目の男前とよばれておりました。
わたしも、どちらも、すきでしたが、”まさまさ”のかわいらしさに、のめりこんでいたのです。

不思議ないしは、”まさまさ”にとどいたようでした。
たぶん、その”まさまさ”は、よくお忍びである町まできておりました。

チンチラ猫の私は、それはもう、まいにち、テレビにかじりつき、たまに猫の姿を、
わすれるほど、夢中でした。

女はきれいになるときがあるのです。
人妻なら、30代半ばに、はかないけれど、美しいときめきがあります。
その揺らぎの中に、いる人間のように、私も輝いておりました。

チンチラ猫でありながら、人間界では人の妻なのにです。
思い出してもはずかしいのですが、恋をしたのでございます。

いまのちりゆく美しさとは違う何かに、出会う年齢は、30代です。
日常の一こまに、隠された耐えていき抜く美しさは、はかりしれないものです。

美しいものを愛するのも、壊してしまうのも、同じ行為なのです。
猫の私は、考えました。

そうです。会いたいいちどだけでも、あっていいたい?!
人は、恋をするのは、必然で、偶然の代物ではないと。
それは、運命の糸がかならずまっすぐではないと、証明されるかのように。

常識では考えられない、ことは人をすきになることです。
かなわない恋ほど、激しくもえて、せつなく人を美しいものに変えてしまうのです。

人のものとは、これほどに美しく、奪いがたく愛してしまうものなのです。
かなわない恋のほうが、素敵なものかもしれません。

現実に好きな人と生活してしまうと、嫌いになってしまうものなのです。
わずらわしいのと、相手に対して、ときめきがない。
どうでもいい。

そんな生活より、奪いがたい逢瀬のひと時のほうが、どんなにすてきなものか。
私は、いまでも、そう思います。

かごの鳥のじぶんよりも、不幸な自分のほうが、すきなのは、いつでも自由にとびまわり、
くるしんだり、喜んだりするうちに、美しくなるからです。

つづく。

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