朝鮮戦争(ちょうせんせんそう、1950年6月25日 - 1953年7月27日休戦)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で、朝鮮半島の主権を巡って、北朝鮮が軍事境界線を越えて侵攻したことによって勃発した国際戦争[1]。
全土が戦場となり荒廃した朝鮮半島は、開戦前と同様に南北二国に分断された状態のまま終結しておらず(休戦中)、随時、北朝鮮側による領空・領海侵犯を原因とした武力衝突が発生するなどしている。
第二次世界大戦末期、ソ連軍(赤軍)は満州と朝鮮半島北部に侵攻した。アメリカは、朝鮮半島全体がソビエト連邦(ソ連)の手に落ちることを恐れ、ソ連に対し朝鮮半島の南北分割占領を提案した。ソ連のヨシフ・スターリンはこの提案を受け入れ、朝鮮半島は北緯38度線を境に分割占領され、その後、北朝鮮、韓国に分かれて建国する。
北朝鮮の侵攻を受けた韓国側にはアメリカ合衆国軍を中心に、イギリスやオーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が、北朝鮮側には中国人民義勇軍(または「志願軍」。実際は中国人民解放軍)が加わり、ソ連が武器調達や訓練などの形で援助した。
なお、日本では朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)もしくは朝鮮動乱(ちょうせんどうらん)と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカやイギリスではKorean War (朝鮮戦争)、北朝鮮を支援した中華人民共和国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)と呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから「アコーディオン戦争」とも呼ばれる。
本項では、朝鮮半島の南北分断の境界線以南(韓国政府統治区域)を「南半部」、同以北(北朝鮮政府統治区域)を「北半部」と地域的に表記する。また、韓国および北朝鮮という政府(国家)そのものについて言及する場合は「韓国」「北朝鮮」を用いる。これは、大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とが、両国家とも建国以来現在に至るまで、「国境線を敷いて隣接し合った国家」の関係ではなく、あくまで「ともに同じ一つの領土を持ち、その中に存在する2つの政権(国家)」の関係にあるためである。
背景 米ソの半島分割占領
李承晩(左)
金日成(右)1945年8月14日に日本がポツダム宣言を受諾、連合国に降伏し第二次世界大戦が終結すると、日本は朝鮮半島の統治権をポツダム宣言に則り放棄することとなった。朝鮮半島は朝鮮総督府の下、独立準備委員を設立し、朝鮮半島の速やかな独立を計ったが、その後進駐してきたアメリカやソ連、イギリスを中心とする連合国軍により、その行動はポツダム宣言に違反するとされ、独立準備委員会は解散させられた。
日本の敗戦による「解放」は「与えられた解放」であった[2]。独立を目指す諸潮流のいずれも主導権を得るということもなく、自らの運動が解放に直結したという実感もなかった[3]。朝鮮人が自ら独立を勝ち取ることができなかったこと、独立運動の諸派が解放後の、それも数年間に激しく対立し続けたことは南北分断にも少なからず影響し、その後の朝鮮の運命を決定づけた[4]。
日本の統治下において、朝鮮半島内で独立運動を志向する諸潮流があったものの、それらを統一的に導ける組織は存在していなかった。朝鮮の独立を目指す組織は朝鮮半島内よりもむしろ国外にあり、亡命先での活動が主だった。大きく分けると中華民国上海の大韓民国臨時政府、中国共産党指導下にあった満州の東北抗日聯軍(抗日パルチザン)、朝鮮半島や中国における利権に敏感な、アメリカ国内における活動などが挙げられる。
朝鮮では1930年代までに多くの民族主義派が支配体制に組み込まれていった。最大の民族資本・湖南財閥は東亜日報紙面を通して抵抗姿勢を見せつつ恭順姿勢もとった。共産主義者は独立派としての立場を鮮明にし続けたが弾圧された。
朝鮮では、呂運亨らによって建国準備委員会が結成され、超党派による建国準備を目指した。これに釈放された政治犯たちが加入した。政治犯の多くは共産主義者であり朝鮮共産党の中核を担うメンバーも含まれていたため、建国準備委員会は左傾化していった。これに対抗する右派の中では宋鎮禹が湖南財閥をバックに代表的な存在になった。成立期間が短く、諸外国から一切承認されていないため、影響力は限定的であったが、建国準備委員会は当時の朝鮮において最も広く組織された団体だった。
建国準備委員会が実際に果たした役割については諸説ある。日本が朝鮮統治から撤退した後に行政機構として機能したとする見方もいれば、突然当事者とされたことに対応してできた組織であるとして、実際には朝鮮人民の意思を反映していなかった点を強調する見方もある。
建国準備委員会は9月6日に朝鮮人民共和国の成立を宣言したが、その後、建国準備委員会内部においても意見と足並みの乱れが目立った。アメリカに亡命していた李承晩は反共姿勢を鮮明にし、またアメリカ軍政が人民共和国を承認しない意思を早々に明らかにしたことが決定打となって、人民共和国は解消された。
一方、北緯38度線(38度線)以北では日本の降伏によってソ連の進駐が予定よりも早く進み、「各地で自発的に生まれた」とされている人民委員会は10月にはソ連軍(赤軍)によって接収された。ソ連の進駐が速過ぎたため、38度線は降伏受諾線ではなく分割占領線となった。北部でも朝鮮人による独立運動の様々な潮流があったとされているが詳細は不明である。
朝鮮での足並みが揃っていない状況下、李承晩や、ソ連の支援を受けて重慶に亡命していた金日成を始めとする満洲抗日パルチザン出身者など、様々な亡命者が帰国した。これが決め手となって占領軍政下・南北朝鮮の政治情勢は大混乱に陥った。左右対立の激化は南北分断の一因にもなり、特にソウルで朝鮮人の意思を糾合することを一層困難にした。
その後、信託統治案を巡る左右対立に、イデオロギーの違いから対立を始めていた米ソの意向が反映され、アメリカ軍占領地域ではアメリカが推す李承晩を中心とした政権と李承晩の権力基盤が作られ、その他の潮流は排除された。ソ連軍政下でもスターリンが選んだ金日成がトップに据えられ、多数を占めていた国内の共産主義者は時間をかけて粛清されることになった。
信託統治案
テヘラン会議1945年12月には、ソ連の首都のモスクワでアメリカ、イギリス、ソ連の外相会議が開かれ(モスクワ三国外相会議)、日本の管理問題のほかに、朝鮮半島問題も議題に上った。
戦時中の1943年に行われたテヘラン会談では、イギリスのウィンストン・チャーチルとソ連のヨシフ・スターリン、アメリカのフランクリン・ルーズベルトの3者会談でルーズベルト大統領が「半島全域を40年は、新設する国際連合による信託統治するべきだ」と提案し、ヤルタ会談でも「20年から30年は信託統治するべき」と主張していた。
ルーズベルトは第二次世界大戦の終戦前に死去し、後継のトルーマンはモスクワ会談において、米英ソと中華民国による5年間の信託統治を提案して決定された(モスクワ協定)。独立国家の建設を準備するための米ソ共同委員会を設置したが、具体案において米ソの意見が激しく対立したため、やがて信託統治案は頓挫した。
米ソ対立
米ソ両国による冷戦の激化は朝鮮半島にも影響した。北半部では1946年2月8日に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後援を受けた北朝鮮臨時人民委員会を設立(翌年2月20日に北朝鮮人民委員会となる)、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家設立への道を歩み出した。このような北半部での共産国家設立の動きに対して、日本統治時代にアメリカに亡命し独立運動を繰り広げてきた李承晩は、南半部での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果1947年6月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北半部と南半部は別々の道を歩み始めることとなった。
金日成は、1948年3月には南半部(北緯38度線以南)への送電を停止(日本統治時代、山の多い北半部に水豊ダムなどの発電所が建設されており、南半部は電力を北半部に依存していた)して、南北の対立は決定的となった。李承晩は対抗し、朝鮮労働党を参加させない選挙を実施して、正式国家を成立させることを決断したが、済州島では南朝鮮労働党のゲリラが武装蜂起し、その鎮圧の過程で軍部隊の叛乱や島民の虐殺が発生した(済州島四・三事件、麗水・順天事件)。
分断の固定化と対立
南北の分離独立
ソウルで行われた韓国の国家成立記念式典1948年8月15日に、ソウルで李承晩が大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに対抗して自らも9月9日にソ連の後援を得て朝鮮民主主義人民共和国を成立させた。この結果、北緯38度線は単なる境界線ではなく、事実上の「国境」となった。
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949年6月には、アメリカ軍も軍政を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。それを受けて北朝鮮は「祖国統一民主主義戦線」を結成した。その後大韓民国では8月12日にジュネーブ条約に調印し[5]、11月に国家保安法が成立するなど、国家としての基盤作りが進んでいた。1949年12月24日に韓国軍は聞慶虐殺事件を引き起こし共産匪賊の仕業とした。
同じ頃、地続きの中国大陸では国共内戦の末、ソ連からの支援を受けて戦っていた毛沢東率いる中国共産党が勝利し、1949年10月1日に中華人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾に脱出し、その後も中華人民共和国との対立を続けた。なおアメリカは、蒋介石率いる中華民国の国民党政府を抗日戦争から国共内戦に至るまで熱心に支援していたが、内戦の後期になると勝機が見えないと踏んだ上、政府内の共産主義シンパやスパイの影響を受けて援助を縮小していた。
アメリカの誤算
韓国に到着したマッカーサーを迎える李1950年1月12日、アメリカのトルーマン政権のディーン・アチソン国務長官が、「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言し(「アチソンライン」)、韓国のみを含めなかった(これは、アメリカの国防政策において「太平洋の制海権だけは絶対に渡さない」という意味であったが、朝鮮半島は地政学上、大陸と海の境界線に位置している関係や、長く日本の統治下にあったこともあって、判断が難しい地域でもある)。金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南半部(韓国)放棄」と受け取った。
アメリカは同月、韓国との間で米韓軍事協定を結んだが、これは李承晩の強い反日感情(李は上海臨時政府時代に日本の憲兵隊に逮捕され、その際拷問を受けたが、後に釈放され渡米している)に由来する、日本に対する報復および敵視政策(竹島領有宣言など)、国家統一を目的とした「北進」の主張を押さえ込むものであり、「韓国の軍事力の大部分はアメリカが請け負い、韓国軍が重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ぐために僅かな兵力しか許さない」という内容であった。アメリカは韓国による日本に対する報復や、北朝鮮に対する攻撃を警戒していたが、北朝鮮の南進については楽観的で、在韓アメリカ軍は規模、質ともに不十分であった。
さらに、極東地域のアメリカ軍を統括していた連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーは占領下に置いた日本の統治に専念しており、1945年8月に着任して以降、朝鮮半島に足を運んだのは1回のみだった[6]。
スターリンによる侵攻容認
これらの状況の変化を受け、同年3月にソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、金日成の働きかけ(内容としては、電報の内容を故意に解釈し、「毛沢東が南進に積極的である」とスターリンに示したり、また逆に「スターリンが積極的である」と毛沢東に示したりしたというもの)もあり、スターリンは毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。
これを受けて、同年5月に中華人民共和国を訪問した金日成は、「北朝鮮による南半部への侵攻を中華人民共和国が援助する」という約束を取り付けた。中華人民共和国については北朝鮮を当初から積極的に支援したという見解があるが、実際はソ連の軍事支援が予想より小規模な事がわかったことにより、中華人民共和国内では侵攻支援への消極的意見が主流だったという。また、直前になってから侵攻計画を知らされた事に不満の声もあった。
南北の軍事バランス
北朝鮮軍のイリューシン
開戦直前の南北の軍事バランスは、北が有利であった。韓国軍は歩兵師団8個を基幹として総兵力10万6000を有していたが、部内に多数潜入していたスパイの粛清、また独立以来頻発していた北朝鮮によるゲリラ攻撃の討伐に労力を割かれ、訓練は不足気味であった。また、米韓軍事協定によって重装備が全く施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、航空機22機(それも練習機)を有するのみであった。
これに対し、朝鮮人民軍は完全編成の歩兵師団8個、未充足の歩兵師団2個、戦車旅団1個および独立戦車連隊1個の正規部隊と警備旅団5個を含み総兵力19万8000、さらにソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンIl-10やアントノフAn-2などのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、1949年夏より、中国人民解放軍で実戦経験(国共内戦)を積んだ朝鮮系中国人部隊が編入され始めており、これによって優れた練度が維持されていた。
また、戦闘単位当たりの火力にも差があり、韓国軍師団と北朝鮮軍師団が1分間に投射できる弾量比については、1:10で北朝鮮軍師団の圧倒的優位であった上に、双方の主力砲の射程に関しても、北朝鮮砲兵の11,710m(ソ連製122mm榴弾砲M1938)に対して韓国軍砲兵は6,525m(アメリカ製105mm榴弾砲M3)と劣っていた。
戦争の経過 北朝鮮の奇襲攻撃
朝鮮半島を南北に移動する戦線
破壊されたソウル市内の建物1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。なお、中華人民共和国では現在に至るまで「アメリカ合衆国による北朝鮮への軍事進攻によって戦争が始まった」と学校で教えられている[7]。
このことを予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は衝撃を受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、「韓国側が先制攻撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府にさえ公式に否定されている。
前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみであり、農繁期だったこともあって、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があり、軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲後6時間経ってからであった。さらに、韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車であるT-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。ただしその一方、開戦の翌々日には、春川市を攻撃していた北朝鮮軍がその半数の兵力しかない韓国軍の反撃によって潰滅状態になるなど、韓国軍の応戦体制も整いつつあった。
連合国軍総司令官のマッカーサーが、当時連合国による占領下の日本で奇襲攻撃を知ったのは25日午前5時数分過ぎで、ミズーリ州にいたトルーマン大統領も24日午後10時に報告を受け、国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還した。
しかしトルーマン大統領の関心は、専ら冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いており、マッカーサーも日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。トルーマン大統領はアメリカ人の韓国からの退去と、マッカーサーに韓国軍への武器弾薬の補給命令、海軍第七艦隊の中華民国への出動を命じたが、即座の軍事介入には踏み切らなかった。
国連の弾劾決議
6月27日に開催された安保理は、北朝鮮を侵略者と認定、“その行動を非難し、軍事行動の停止と軍の撤退を求める”「北朝鮮弾劾決議」を賛成9:反対0の全会一致で採択した。拒否権を持ち北朝鮮を擁護する立場にあったソ連は、この年の1月から中華人民共和国の中国共産党政府の国際連合による認証問題に抗議し、理事会を欠席していた。
決議の後、ソ連代表のヤコフ・マリクは国連事務総長のトリグブ・リーに出席を促されたが、スターリンからボイコットを命じられているマリクは拒否した。スターリンは70歳を超えており、すでに正常な判断ができなくなっていると周囲は気付いていたが、粛清を恐れて誰も彼に逆らえなかったという。これを教訓に、11月に「平和のための結集決議」(国連総会決議377号)が制定された。
韓国軍の敗退
国連軍の艦艇に避難する韓国の避難民南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な戦いを続けていたが、6月27日に李承晩大統領による保導連盟員や南朝鮮労働党関係者の処刑命令がだされた(保導連盟事件)[8]。同日、韓国政府はソウルを放棄し、水原に遷都。6月28日、ソウルは韓国軍による漢江人道橋爆破事件や北朝鮮の攻撃により市民に多くの犠牲者を出した末に陥落した。この時、命令系統が混乱した韓国軍は漢江にかかる橋を避難民ごと爆破した。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により韓国軍の士気も下がり、全滅が現実のものと感じられる状況になった。
韓国軍の敗因には、経験と装備の不足がある。北朝鮮軍は中国共産党軍やソ連軍に属していた朝鮮族部隊をそのまま北朝鮮軍師団に改編したものが殆どで練度が高かったのに対し、韓国軍は建国後に新たに編成された師団のみで、将校の多くは日本軍出身者であったが、各部隊毎の訓練が完了していなかった。
また、来るべき戦争に備えて訓練、準備を行っていた北朝鮮軍は、装備や戦術がソ連流に統一されていたのに対して、韓国軍は戦術が日本流のものとアメリカ流のものが混在し、装備はアメリカ軍から供給された比較的新しい物が中心であったが、米韓軍事協定の制約により、重火器はわずかしか支給されず戦車は1輌も存在しなかった。また、航空機も、第二次世界大戦時に使用されていた旧式のアメリカ製戦闘機が少数あるのみだった。その結果、陸軍はまたたく間に潰滅し敗走を続け、貧弱な空軍も緒戦における北朝鮮軍のイリューシンIl-10攻撃機などによる空襲で撃破されていった。
ところが、韓国軍が総崩れの中、北朝鮮軍は突然南進を停止、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカ軍にとって貴重な時間を作ることになったが、現在でもなぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている(「予想以上の戦線の伸びに補給が行き届かなくなった」、「北朝鮮軍の大勝を知って南側の住民が武装蜂起する事を期待していた」という一説もあるが、明確な根拠はない)。
☆無理な3代セシュウの問題が、北朝鮮はどう動くが、日本はどう対応するのか?!
日本には、在日朝鮮、韓国が住んでいるので、どう思うのか?!
韓国の冷静な対応に、期待するしかないのだろうか?!