昨日の記事にトーキングヘッズのOnce in a Lifetimeの翻訳を入れておいた。和訳が無いか探してみたけれど、どうも納得の行くのが無くて自分でやった。歌詞なんか短いからそう手間でもない。
たぶん、多くの人が(プロじゃない翻訳の素人場合)命令形になっているのを歌詞だからって軽視して翻訳してしまっているようだった。「○○だ」でなく「○○しろ」って叫ぶように言うのって最近の日本の歌にあるかな?洋楽に入っているメッセージだとそう言うのがけっこう強いけどな。慣れてないから命令形だと思わないのかもしれない。よくわからないが。まあいいか。
この曲は強いメッセージソング。人生の中で人が得ている物、家とか車とかそんな物で自分の人生を象徴させるというのは多くの人がやっている事だけれども、自分自身の志向や力で得ているように考えがちだけれど、そんなものは世の中の大きな流れの中の目立たない一部に過ぎないと言えないか?結局、自分自身でどちらの方向へ行こうと言う意思よりも流れ優先していて流されているだけだろう。そこで何かしようったって、何かが起きたって何も変わらずにそのままこの先も同じ事をやり続けるだけだ。歌詞では水の中で水を運ぶという言い方をしている。
そして解決策や結論も出していない。
こうしようとか、こうあるべきとか、全く無くて、ある意味とても怖い歌詞ではある。
ところで、皆さん...
「人生無駄にしてますか〜〜〜!」
人生のある1点の時間は一度流れ去ってしまうともう二度と同じ時刻点はやって来ない。そこで何かしていても、していなくてももうそれで終わり。そんなのは皆、わかっているが、だけって言っても誰も何もしない。またはできない。て、終わり。さようなら。
ちょっと前にポテトサラダ騒ぎがあった。
ある主婦がお店でポテトサラダを買おうとしたら、別の人がそんなもの位自分で作れと言った。作れの話はそんなの買おうと作ろうと自由だろ。それに家庭の事情だってある、というところで落ち着いた。そしたらそれを後から混ぜっ返すのがまたいて、主婦なんて家にいてお金に換算すると生産性が低いのだから自分で作れと言う。
ポテトサラダを作る時間x時間単価を考えると買うな、作れと言う話になるらしい。
それで話は戻るけど、人生有効に使うって考えると、けっこうその方式で考える人がいると思う。でも、家でゆったりお茶を飲んでいる、何も生産しない時間を過ごす事は人生の有効活用に入るのか?入らないのか?と言う問題が、生産性より先に出てくるのではないか?
世の中の趨勢からすれば生産しているのがプラス、ポジティブ、そして消費している、ボーっとしているのがマイナス、ネガティブのようになっている。
どうなのだろうか?
自分はよくキャサリンさんに言うのだけれど、家で何もやる事無くて昼寝しているとか、ボーっとしているとか、きれいな夕日を見ているとか、美味しいお菓子とお茶を楽しんでいるとか、そう言うのは人生にとって良い事だと思っている。
生産的であるのが人生の目的って考えるのはおかしな事で、サバンナのライオンのようにお腹空かなけりゃ日陰で静かに佇んでいるのが生物として普通だし、そこに景色とか美味しいとかが入れば最高じゃないかと考える。自己実現とかポジティブとか言ってもね、LinkedInやTwitter見ればわかるけど、ポジティブの先にあるのが創造性ならとても良いけど、かなりの人が広告と人転がしになっていて、オイオイ最後はそこかよ、と思うわけ。
だからポテトサラダの話のように自分の時間をお金に換算するって、わからないではないが、ホントかよと思う。自分で自分を奴隷にしてるじゃないか、と。
↓ これ、署名拒否です。署名してたらアホでしょ。騙されるよ。
先日、マスコミがこども庁とこども家庭庁の名前の事で騒いで記事にしていた。それ読んでいると、そうだ、そうだ、こども庁にすべきだ!、みたいに思いがちなのはわかる。でも、気をつけるべきだ。
この署名、それを利用して与党がこども庁創設の支持集めてるだけだ。この署名の主催者はそもそも与党議員なわけで、これに署名するとこども庁の名前だけじゃなくてこども庁創設自体に賛成しているとして署名を利用されてしまう。
よく考えてみればだ、確かに今の与党も野党もこんな名前の省庁を作ろうと似たような事を言っているが、その議論の中身を我々はきちんと知らされているか?特に与党からはそんな説明は皆無で、勝手にどこかで決めている。料亭でか?
それに名前が何であっても中身が変えられるでもない。意味ないだろうし、署名する自体が害だ。拒否すべきだろう。いや、無視すべきだろう。