もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「エディット・ピアフ~愛の讃歌~」 -ピアフは夢を見なかった。

成功した人の人生と言うとどうしても、苦労して苦労して這い上がって、そうしてようやっと成功の花を咲かすと言うようなイメージを持ってしまうものだと思う。星飛馬が巨人の星になるのを目指すと言った、大きな夢への苦労物語が美しい生き方として日本人にはインプリントされているからだ。

エディット・ピアフは一般人からみて成功者ではあるがそんなものとはまるで違う生き方をしている。彼女は夢を見なかったのだ。単に「歌っていれば愛される」、だから歌い続けたに過ぎないのだ。倒れないように自転車をこぎ続けるようなやり方で、ひたすら瞬間瞬間を歌に生きているだけだ。

それに比べて成功していない我々は、苦労や努力の先にこそ開ける未来があると考えている。だからコツコツ何かに取り組んだり、我慢し続けたりする。きっとその先に明るい未来があるだろうと。これだけやっているのだから何か良いことがあるだろうと。

そうしたやり方をポジティブなものと解釈するのは、巨人の星を正とする美学によるものであろう。だが、果たして「未来は良くなるだろう」と考えるのは本当にポジティブな考え方なのだろうか? 苦労したり我慢したりすればその先は良くなると思うのは、現在がダメと言うことであったり、今の自分が本当の自分でないと言う意味かも知れず、苦労が美しいのは実現しない言い訳の美化なのかも知れない。

そうしているうちに今と言う時間は価値の無いものになりはしないか。価値ある未来のための価値の無い今をずっと続けていくのだろうか。明るい未来に貢献しない時間、飯を食う時間、洗濯する時間、電車に揺られて通勤するような、どうしようも無い時間は多分訪れるだろう明るい未来の時間に比べてなんと価値のないものなのかと。


ピアフは夢を見ない。舞台で賞賛されてもさっさと賞賛者を振り切ってチンピラ男に金を渡しにいってしまう。未来の成功なぞどうでも良い。歌っていれば愛される、そして孤独を感じる事がないと言うだけなのだ。

餌をくれるからお手をする犬のようだ、と言われるかも知れない。けれど、我慢して明日を夢見ている人間と、この瞬間はどちらが幸福なのだろう。ピアフの過ごす時間はその全てに価値があったのではないか。

原題は「La Môme」、訳せば「子供」だそうだ。
子供のように将来を心配したり夢を見たりしない生き方、そう言う意味なのだろうか。
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