人間の心は身体の中にある。宗教的な見方はここではちょっと置いておくとして、身体という物理的に定義できる物の中に心がある。でも、人間は心はとても自由でどこかに限界があるかもしれないが、身体がどうあれ何でも考えたり思ったりすることができる・・・と考えている。
それは本当か?
最近は高齢者が増えていたり医学的な知見が一般化しているので認知症のようなことがわかってきた。あれは結局、脳に余計なタンパク質が溜まるとかどこかが萎縮するとかそうした物理的な現象を伴うらしい。するとこれまで普通にできていたことができなくなるし、考えたりすることにも支障が出る。
するってえと何かい? やっぱ心てえのは身体の状態に依存するってことかい? なあ、熊さん。
認知症はちょっと極端な例だけれども、もっとカジュアルに脳の何かがどうにかなっているとしたら、生活は普通にできている人でも考えたりすることに何らかの癖(病的じゃない程度の偏り)が出るってこともあるのかな?と想像する。
我が妻のキャサリンさん、最近実姉のアグリッピナに似てきた。非常に似てきた。どういうことかというと、自分が考える正しい状態しか正しくないと考えるのだ。他人というのはなぜ「他」人なのかというと、自分とは少しかそれ以上違うからなわけで、全く同じ考えをするはずはない。宗教が違うとかそういう大きなことでなくて、風呂に入ってからお茶を飲もうか、お茶を飲んでから風呂にしようかみたいなどっちでもよいようなところに違いは出る。どっちが正しいということもないし明日になれば忘れてしまう程度の違いだ。
まあ、そういう感じなのだが、正しさの範囲が非常に狭いということ。
いつも言うけれど、人間はそうした自然に(ここでは身体)制限された思考から自分自身を自由にする為に、そしてその不愉快に逆らうように生きるものだ。道具としては教育であったり思考そのものであったりするけれど、何しろ動物のようにただ身体、つまり脳の構造とかに従って生きているものではないはず。不快を愉快に変える、不満を満足に変える、敵に見える者を味方に変える、問題を受け入れないようなことをすべく生きるのが人間の生き方だ。
ちょっとした修行は必要かもね。