もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「火垂るの墓」「耳をすませば」

こんな作品を今頃見ている人も少ないだろう。

スタジオジブリはいったいどんな動機があって映画を作っているのだろう?
原作に制作費を渡されて期限に間に合うようにやっている請負仕事集団なのだろうか?

「火垂るの墓」、映像化すれば文字で描かれたものよりは多くの人の目に触れる。ただ、文字に記した作品には文字のみで伝えたいなりの背景や著者の人となりがどうしてもあり、それとストーリーが入り混じって一つのものになる。けれども映像ではそこを上手くやらないとサラリとやり過ごされてしまって伝わってくるものが少なくなる事がある。

映像では背景は単にカメラの視野に入る背景なのか、それとも主人公の視点を表現する絵であるのか文字よりも分かりにくいのである。アニメでは絵である登場人物がオーバーすぎる位に演技をすることもあれば単にストーリーを進めるためだけに動いていることもありで、主人公の心を読み取るのが難しい。

人が死んで泣く、食料が不足した状況の中で殺伐とした思いになる、それを見てどう感じ何をどうしようとするか。そうして気持ちや行いが戦争と言う状況の中で一般化されたものとして描かれるのか、それとも個人としてのものなのか、なかなか解釈し辛い。

これを見るほとんどの人が、そして子供が戦争を経験してはいないので作る方とのギャップが大きいのだろうと思われる。冒頭、主人公が死にかけている場面から始まるが、近くに同様に死を待つ、または死んだ者がやはり何人も映っている。この時、人の死は特別な事ではなかったと描かれる。

となれば、食料のために他人を欺いたり他人に冷たく当たったり、はたまた妹の死は個人としての死、そして悲しみかそれとも社会や戦争の背景であるのか。そう思えば、多分原作のストーリーに忠実に作るあまりに逆に多くのことを曖昧にしてしまったのだろうと思わざるを得ないのである。


「耳をすませば」
人が人に恋をする事に理由は要らないだろう。たとすればきっかけも何も他人にわかるものである必要はない。けれどもこれを映像化する中ではそれに共感できるかどうか、それは重大な問題である。見ているこちらに主人公の心を読み取ろうとさせるかどうかがかかっているのだから。

総じて言えば、途中の理解に苦しむファンタジーを混ぜなくとも、太った猫を電車に乗せなくとも普通の青春ドラマのようにしてこの話は成立するだろう。混ぜ合わされているのは単にファンタジーではなくて"年寄のおせっかいなファンタジー"であるから、それが奥行きになっていると言えなくは無いが、これがそんなに強くはない。

それが何か行き当たりばったり感を強調してしまっていて釈然としない。逆にそれが最初から宮崎作品として肯定的に見る者には"世界観"ではあるのだろうが、その前提条件無しで見られる物にはなっていない。
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