昨日来た火災共済の解約書類を郵送した。あとは会費の返却を待つばかり。
今朝、6時にピンポンが鳴る。
お隣さんだった。お隣さんがおこわを作って持ってきてくれたが、どうやらちょっと混乱しているよう。前からちょっとそんな傾向があるなとは感じていたのだけれど、ある事がきっかけで混乱の度合いが高くなってしまったらしい。それでお宅に伺ったら旦那さんが仲に入ってくれて一件落着となった。
最近は仕事場でも精神のバランスを崩してしまう人が多いとニュースでは言っているのであまり驚きはしない。そもそもどこからどこまでが正常でどこから異常というのも無いらしいし、まあ、仕方ない事だ。それでどうにかやっていかれるのであればそれで良いと考える。気にする事でもないが、もし助けが必要になればその時点で考えれば良い事だ。
その時点で、とは冷たい言い方かもしれないが、それによって自分の気分や気持ちがどうこうという部分に焦点を当ててしまうとそれに飲み込まれてしまう危険が大きい。以前にある人が何かの問題(社会や自分の身の回り)が起きた時に「怒るのは当然」のように言っていた。世の中の多くの人はそうしていろいろな事に怒りを感じて生きているが、それは自分自身を行っては帰って来られない袋小路に放り込んでしまうという事を認識していないからだ。人は一度口に出した事を自分自身の一貫性を維持する作用によって引っ込める事が難しい。簡単に言えば「私は間違っていたから意見を変えました」と言えないのだ。特に他人の前で言ったり、怒りの感情と共にそれを表現してしまった場合にはだ。
そもそもそんな事に捉われている事自体が、自分自身の事に一所懸命でない、自分自身にもっと大切なすべき事、考える事が無いからだ。そんな事よりも大切なのは「幸せでいよう」とちゃんと決意してその為の行動をする事だ。毎日のどうしようもない事に忙殺されたりちょっとした心理的妨害に気持ちをトラップされている暇など誰の人生にも無いのだから。
死んだ母はまさにトラップされていたと言える。誰かに何か言われたとか、誰かにどう見られるとか、身体のどこがちょっと痛いとか、庭の端に草が生えていてみっともなとか、どうでも良いような事ばかり気にしていながらその生活のほとんどの時間はテレビの前で無駄に消費していた。健康に良いと宣伝されるサプリやドリンクを買わされているくせに自ら運動して痛みを緩和するでもなかった。自分から袋小路に隠れていたような最期だった。