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もんく [とある南端港街の住人になった人]

ノラリクラリと試験結果を見て考えてみる

今週は生産をせずに試験などをしている。

今は試験も他人に任せることにしている。
試験の結果なんかを見ると、
その人の技術を扱う者としてのレベルがちょっとわかってしまう。

で、ちょっと悲しい想い。


学校では実験なんかをすると、こうこうこうして、結果はこうなりました。
で、何が勉強できたかって言うと、
技能的な事だったり、データの取り扱いだったり。

そう言うわけで、多くの人(熟練していない人とか経験の浅い人)は、
「はい、こうなりました」
と言う感じで結果を持ってくる。
それはそれで間違っているわけじゃない。
やったことに関しては。

それで、彼は「これが客観的な事実です」
と言うような意味を込めて持ってくるのだと思う。


いや、待て待て、それは「こうなりました」じゃなくて、
「こうなっちゃいました」だろう


客観性と言うのは確かに重要なんだけれども、
それより重要なのは、本当は試験をやる人間側の意思の方。

この試験、こう言う風にやると結果はこうなるだろう、
こうなるはず、と思ってやる。
ならなかったら「なぜ?」と疑問を持つことができる。
もし、何も思わなくて何も想定しないで客観的とか言っていたら
試験の結果を評価できない。

間違いがあったのか、無かったのか、結果は合理的なのか、
それが無いと試験なんてする意味は無い。
もちろん自分が間違った想定をしていてもそれは可。

だって、試験の結果で自分の考えが否定されるから。



と、まあ、普段は作業員に厳しくも言わないし、
できるだけノラリクラリと仕事をするようにしているし、
他人にも常時一所懸命なんて望まない。

でも、こう言う時に、ピンを1本刺すように
ちゃんとポイントを押えるように仕事しないと
マズい。

特にマレーシアだといけない。
仕事、はいやりました、で終わってしまう。
放っておくと99.9%そうなる。
こんなんじゃ大学なんて出てきてる意味ないのだ。
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