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もんく [とある南端港街の住人になった人]

被害者の苦痛には謝罪するが、基本のルール破りには無頓着

ジャニーズ事務所問題について特に興味は無かったが、長くかかっている事だけは知っていた。今日、会見があったとか。そしてニュースの見出しを見ると「あったと認めた」だった。

ああ、長く続いた割にまだそこか!と思う。まるで従軍慰安婦問題と同じだ。あっ、あっちはまだ「認めない」とか曖昧にしていたりするのだっけ?

ついでにあった事に対してどう言うのかだが、こんな意味の事が書かれていた。「被害を受けた方々に心身共に辛い思いをさせた事を申し訳なく思う」らしい。ふーん、なるほど。これも定番の言い方だ。だけれど、もし辛い思いをさせていなかったとしたら、それはOKなのか?と言う疑問が出てくる。

いつもこうした事件のあった後、相手が辛い思いをした事に対して謝罪が行われる。もちろん相手への謝罪はわかる。まあ、それはすべきだろう。でも、どうしてそこで終わりなのか? ここがいつも釈然としない点だ。性加害の何がいけないかについて誰もはっきりとは言わないし、追及しない。そしてわかっていないとしか思えない。

これは元を辿れば性教育がたぶん医学的なものと道徳的なものや社会通念的なものとしてのみ位置付けられているところに問題がある気がする。もうちょっとちゃんと言うと、それが人権教育の中に無いという事だと考える。つまり、その人が自分自身で決められるべきで、強制されたりするべきではないという考えが無い。もちろん子供の場合は教育期間なのでどうあってもダメだが。

そういうわけで被害者が辛い思いをした事に対して謝罪はするが、他人の人権を犯す行為をした事については何も無しになってしまうのだと考えられる。これは相手がどうあろうと無関係で、絶対的にNGな行為だったはずだ。そしてそれを知りながら見ぬふりをしていた周囲の者たちも会社もNG、つまり犯罪者であり犯罪組織として認められるはずだ。相手に謝罪で済む問題ではない。

というか、そうした根本のルール意識が曖昧なのが問題を隠蔽するし長引かせもするのだろう。噂があって、事実が有るにせよ無いにせよ、それが人権の問題と認識できれば事実として有無は関係無く何らかの手を打っていたはずで、被害者がようやく苦痛を訴えたところで謝罪となるのは人権意識に欠けるからだ。

まあ、そこが日本らしいと言えばらしい点だと言える。いつもそんなものだ。
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