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もんく [とある南端港街の住人になった人]

何のために働くのか

読み始めてすぐ、ちょっと頭にくる。

今の状況、仕事に就いて早期に辞める人が多い状況。確かに以前とは違う。それは何故か、と考えた時に、教育が以前とは違ってしまっている。そして旧来の教育を受けた世代は引退しその子供達にいろいろな事を伝達する事ができなくなっている。

著者はなるほど古典に親しむ機会を得たし好んでそれを学んだ。そしてある意味成功と言えるものを手にした。少なくとも本に表して世に問うまでにはなっている。であれば、こうした事を言う資格は十分にあるだろう。若い者達よ、もっと古典を勉強し、人間について学び、寝食を忘れて仕事をし、世の中のために働きなさいと。

この言葉に従って得られる結果は何か? マクロ的には日本の繁栄であろう。つまりかつての日本の奇跡を指す。ではミクロ的にどうか? 日本の繁栄は個人の幸福への約束であるのか? 著者が想定する個人の成功、幸福は今現在でも多くの人々に今でも適用可能なものなのだろうか? 経営者、起業する人、社会的に影響力の大きな仕事をする人、したい人、そのあたりは著者と境遇が似ているから良いだろうが、それ以外の大多数の人々にそんなに大きな志が必要で古典を読んで、と何かしら立派な人であるべきなのか?

それは読まないよりは読んだ方が良いだろうし一定の道徳観がある方が良い。それは否定はしない。ただ、それだけ皆等質の日本人であるべきなのか、と言う事だ。中国の政治家が皆孔子を読んでいる。その教養が中国で政治を動かすほどになる条件だとしても、かの国は共産国である。ヨーロッパでもそうした教養もあるにはあるが、国民全員がと言う事でもない。

著者が求める理想像、それは日本人の等質性を前提にしたあの時代のそれに似ている。人はそれぞれ異なっているから感じ方も答えも異なる、などと言う言い訳をしたいわけではない。その等質を前提としたシステムに乗れない人々、実際にいる人々、その事実を置いておいて以前の日本はこうであってそれによって繁栄できたのだから、などと言って良いものかどうかは多いに疑問である。

繁栄の味代、多くの人は経済的利益を享受したが、それは個人の好き嫌い、個人の特質、個人の幸福をあきらめた代償だったと考える人もいるだろう。実際、日本で仕事をし生活をしていると、この国は共産国何が違うのかとさへ感じる事がある。

未だに国は不況で若者に仕事が無いと言うと、いきなり全員"正社員化"するべく政策を組む。それは果たして現実的であり、それが実現したとしても全員が等しく幸福感を感じられるものだろうか?そしてすぐに辞めてしまう傾向を教育のあり方なども述べているにせよ、個人個人の責任に最後は終着させている。統計上、多くが辞める傾向を示し、辞めないにしてもそこにいる事で幸福を感じられない人が多いのであれば、古典を読め寝食を忘れろ、それが解決策になるものなのだろうか。 そこに大きな違和感を本書から感じてしまうのだ。

何のために働くか、仕事を通じて世の中、多くの人々のために良きことをするため、それはわかる。が、戦前の精神にまで戻る事が果たして素晴らしい世の中を作ることになるかどうか、それは有り得ない。

リタイヤ後に離婚する選択をするアメリカ人の事が述べられていて、自己実現の結果がそれではあまりにも寂しいと言っているが、そうだろうか? 過去ばかり見ているのでなく、もう少し前を見て考えるのであれば、いろいろな事情もある中でどんな選択をしても、しなくてはならなかったにせよ、その人が幸せでいられるこれまでとは違う何かしら新しい方法論を構築していく事に目を向けるべきではないだろうか。

それを踏まえずしてこうすべき、古典に学ぶべきでは誰が納得すると言うのか、と言いたい。
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