もんく [マレーシアで働いて13年→2022猫を連れて日本]

映画「SEVEN」 -同じ側にいる

例えば、ニュースが遠い国のテロ事件について報道している。無差別に一般人が殺されている。

その時、それを実行した誰かについてどう判断するか。彼らは間違いを犯している、彼らのやり方は間違っていると判断するだろう。

その時点で自分が彼らと同じ側に立ったと感じる者は、多分誰もいない。


例えば、新聞が殺人事件の記事を載せている。普通に生活していただけの誰かが殺された。無邪気に遊んでいた子供が殺された。

それを読んだ時、怒りを感じる。無慈悲でバカで凶悪な犯人を想像する。政府や警察は治安維持に力を入れるべきだと思うだろう。

その他の日常に散見される愚かな行為、バカな言動、そうしたものを我々は判断する。そこ判断に深い思慮は無いが断固たるもで、それは多分周囲の人々が合意するであろう正義感による。


その判断は無関心を挟んであちらとこちらの対極にあるものだと認識される。正義と悪、正しさと間違い、賢明とバカのように。


判断と言うのはだいたいそこまでの考えでしかない。判断を下すと言うのはその判断によって何も変化させたりはしない。判断と言うのはその判断を下す自分がどの場所に立ってそれをしたかを自覚させることがない。判断には何らかの快感が付きまとう。

判断した時、その判断された相手と自分がぴったり背中合わせに同じ地点に立っていることを自覚できなくなる。殺人犯と刑事が同じところにいて、同じ事象、同じ罪に対して同じ判断を下していることを自覚しないようなものだ。


逆に言えば、こうして何かを判断している自分がその同じ罪を犯す人間であるとどうして自覚できないのだろう。人間の根本の罪は実はその事ではないだろうか。




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