もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「2001年宇宙の旅」-仮説(引き裂かれた人類史において)

「人間が猿から進化した動物にすぎないなんて!」
キリスト教世界では進化論を否定的に見る者は多い。学校で進化論を教える場面は必ずあるが、それと人間の存在とは結び付けて考えたくは無いかも知れない。

日本人から見れば「そんなご都合主義な」と言いたいところだが、彼らにとっては深刻な問題だ。自分が動物園にいる猿と親戚であるのか、それとも神が彼らの姿に似せて創った神聖なる生き物であるのか。

猿はその本能に従って食べたい時に食べ、排泄し、繁殖している。人間はその猿と同等のものなのか。それとも理性を持ち、考え、道徳的に繁栄できる存在のどちらであろうか。



「そもそも、我々はどこから来てどこに行くものなのか?」
1960年代、まさにこの映画が作られた年代にクローズアップされたこの命題に対する、この映画は一つの仮説の提案である。



キリスト教の人々は、科学が進み人類の成り立ちが解明されてくるに従って進化論とキリスト教的世界観との間で引き裂かれる。しかし科学はウソをつかない。だからと言って全てが解明されたわけではない。猿が現在の人間のような形に進化すると言う考えはミステリー、ミラクルとしか言い様が無いほどのものだ。

では、その間を埋める「何か」があるのではと考えた時にこの映画のような事、つまり人間から見れば神のような存在である宇宙の意思またはある存在を仮定したらどうか。

もしそのような存在があるのであれば、その存在のスケールは人間が感じるそれとは大きく異なるだろう。猿から人間を作り、そして未来(人間から見れば長い時間の後であるが、彼らからすればそうでも無いかもしれない時間の後)にもさらに人間を進化させる可能性だってある。そこに我々の未来を重ねて見るならば、我々今後どこへ行くべきなのかと言う問いへの答えが見つかるのかもしれない。ここれはあくまでも「かも知れない」に留まるのであるが。



何で今ごろこんな古い映画を?
名作として有名で、この映画が好きと言う人が多い割りにまともに評価されているのを読んだ事が無いと言う不思議な作品ですね。残念ながらこの映画のような2001年は来なかったけれど、その代わりに「アイズ・ワイド・シャット」が来て、それで答えが出たって事のように思います。

「いくら考えてもわかりませんでした。人間は常に今すべき事をするものであります。今日の幸せのために生きるのです。どこから来てどこへ...この問いの先にあったのはさらにもっと根本の問い <幸せとは?> でありました。」

参考
「2001年宇宙の旅」ホームページ-HAYAKAWA
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