もんく [とある南端港街の住人になった人]

映画「A.I.」-無かった事にしよう

ロボット少年デイヴィッドを見ていると、日本の怪異小説「雨月物語」の中の「蛇性の婬」に出てくる蛇女を思い出します。
人間でない故に、つまり人間としての社会性や倫理観を欠く故に一途であります。デイヴィッドも蛇女もそこは似ています。その一途さに人は引き込まれてしまいまうのえしょう。


映画の話に戻らなければ...
このお話、あまり魅力的ではない「未来版ピノキオ」です。
と言うことでこれ以上書くのを止めます。この映画について世間ではいろいろ議論されたんじゃないかと思いますけれど。
ごめんね。

(結果:面白くない。無かったことにしよう。)


参考
SFオンライン52号映画レビュー



追加
これではあまりにも素気ないのでちょっと書いておこうと考え直しました。

人間と言う存在は何によって定義されるものなのでしょうか。
現在、我々が考える人間像はその肉体と精神が一体となっているものです。では私が死んでしまったらどうなってしまうのでしょうか。全く消えて無くなってしまうものなのでしょうか。そもそも、この肉体のどこにどう言った形で私は、その精神や意識、魂のようなものを宿していると言うのでしょう。

近年のスピリチュアルな考え方を持つ人々はこう言います。「魂や精神は宇宙に遍在する。従って人は死んでもその魂は生き続けるのだ」と。つまり、肉体は滅びてしまってもそれは肉体と言う船を降りたに過ぎず、人間は魂や精神のような存在として生き続けるとい言う事。一度生きた人間はその経験を精神に戻す事によって精神全体を進化させるのだ。

こう言った考え方は西洋人が東洋の思想(輪廻転生などのような考え方を有するものと思われますが)に触れることで出てきたものとも言われますし、また単に死んで無となる空しさから考え出されたものなのかは分かりません。しかしこう言った考え方がこの映画を作る程度の知識人の方々に浸透していると言うことは、これ以外の最近の映画作品と見ても明らかのようです。

脱線を元に戻しますが、
人間の肉体は滅びます。それは個人的な死、及び人類の滅びと言う意味でもいつかは訪れるものです。科学や技術が進歩すればやがて滅びない肉体が作られる事でしょう。滅びない肉体には滅びない感情や自意識も作られてインストールされる可能性があります。そう言った精神や魂とは違う肉体に近い部分はいつか作られるでしょう。

であるとすれば、人間と言う腐り易い物は滅び、後に残るのはその創作物であるロボットのような物である可能性はかなり高いのではないでしょうか。

ピノキオが人間になるのは御伽噺の中だけでしたが、御伽噺の登場人物は何時か死に絶え、ピノキオだけがその純粋な心のままに生き続けるとしたらこの映画のような結末を迎える可能性があると言う事かも知れません。それを肯定的に見るかそうでないかは分かりませんが。
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