一昨日「神の必要性」という記事を書いたが、反響があった。なんと、珍しく、というか、初めてキャサリンさんからあった。こんな事は今までに無かった事なので驚く。そして、その言葉の中に次へのヒントが出てきた。
夕食の後、お茶を淹れて飲んでいたら唐突にキャサリンさんがその事を話し始めた。「あの記事を読んでいてね・・・」と。
何年か前にキャサリンさんの姉のアグリッピナから連絡があり、母の介護はもう限界だと言ってきた。その為、マレーシアにいたキャサリンさんは日本に戻って母の介護引き継いだ。引き継いだは良いがその途端にアグリッピナは言葉を翻してやはり自分がやると言い出したのだった。
そしてキャサリンさんはアグリッピナからの圧力を受けてその後どうするかを再度考えなければならなくなった。単純に仕事を明け渡してしまうこともできないではなかったが、母は言葉がキツくその行動を厳しく制限しようとするアグリッピナよりキャサリンさんを望んでいたので決めるのは簡単ではなかった。
そこで話は最初に戻る。そのアグリッピナからの圧力の中、キャサリンさんはちょうど友人が通っていた教会(キリスト教らしい)に自分も行こうかと考えたと言う。いろいろ聞いてみると、簡単に言えば「何か自分に味方してくれるものが欲しかった」ということだった。
人は自分が良いと思ってしていることに対して他人から批判されたような場合に自信を無くしたり自分を疑ったりし始める。よくある事だ。悪意も落ち度も無くても他人から言われるとそうなる。その時に自分以外の誰かの力を必要だと考える。最大限に簡略化して言ってしまうと、眠くなったからカフェインを補給したいというのと似ている。
そこで考える。神様がそうした存在なら、つまり自信の無い者に自信を与えたり、曖昧な動機に裏付けを与えたりするものだとしたら・・・
うーん、経典をちゃんと読める者がこの世にどれだけいるだろうか? 教えを言葉通りに解釈するよりもカフェインの機能を余計に重視するという事は無いだろうか? キャサリンさんがアグリッピナと戦うために神に向かおうとした、それと同じ事をする者の方が経典を読んで学ぼうとする者よりよほど多いとしたら、今起きている事の説明になるのではないだろうか?