
「落語の笑い」のパラドックス
冒頭の写真は林家三平
落語の笑いについて考えてみた。もちろん、愚者の論だ。だからグシャグシャ。
落語を聴く受けての側(観客)が笑うのは、「自分も同じことをする」と感じて笑う場合よりも、「登場人物の愚かさ」を笑う場合の方が圧倒的に多い。
よくある小咄に・・・『ご覧、あの人はチョット見たところ、ボーっとしているようだけど、ああいう人がイザとなると力を発揮するのだから・・と皆で頼りにしております。
ところが、イザってぇ時になると、これが余計ボーっとしてしまいましてナ』・・・というのがある。
この笑いには、「自分はそうではない」という観客側の確固たる自信、というよりも過信・錯覚が前提されている。
実は、自分のことを云われているのだと感づかせないところに、落語の凄さと素晴らしさがある。
つまり落語は観客に‘貴方は愚かなのですよ’とやさしく教えてくれる装置なのだ。だからといって、演者が賢いという意味ではない。
皮肉なことに、人びとはわざわざ銭を払って虚仮(こけ)にされて、悦んで帰ってくる…「落語の笑い」の持つパラドキシカルな側面ではないだろうか?