行徳河岸の『常夜灯』 2012-05-10 05:14:26 | 旅・鉄道・グルメ… 行徳河岸の『常夜灯』 (冒頭の写真は・・行徳河岸の常夜灯) 市川市の行徳地区に「本行徳」という地名のところがある。この本行徳には、長い年月を経た立派な『常夜灯』が残されている。 少々長くなるが、本日はその曰く因縁故事来歴を一席申し上げます。 行徳には「旧江戸川」という固有名詞の川が流れている。対岸(北側)は東京都江戸川区である。旧江戸川ということは、元々こちらが本流だったということになる。 旧江戸川は、市川橋の下流辺りで江戸川本流から分岐する。旧江戸川を分岐した後の江戸川の流れ(分岐点から東京湾河口まで)は、厳密には「江戸川放水路」というべきであろう。 ★江戸川放水路を Google で見ると・・ 【江戸川放水路河口から三番瀬】 放水路河口から三番瀬の境目付近。 遠方は右手は新浦安。 中央遠方が東京湾。http://www5f.biglobe.ne.jp/~ku satsuyoitoko/HP/No.03-02(Housuiro).htm 噺変わって・・徳川家康は天正18(1590)年に江戸入府後、江戸の街作りと整備に鋭意着手した。 その中で最も重視し、最初に手を着けたのが行徳からの「塩の調達」であった。 当時、塩は重要な戦略的物資であった。そのため家康は江東地区に小名木川を開削することによって、江戸川地区の船堀川を辿って行徳に通じる水路の確保を行った。 つまり行徳の塩は、行徳河岸-(旧)江戸川-新川-小名木川-隅田川-日本橋川を経由して日本橋河岸西岸へ運搬されたのだ。 行徳河岸から日本橋小網町への船は「行徳船」と呼ばれ、運営権は独占的に「本行徳」に与えられた。一日に何回も往復したそうだ。 この水路は単に塩の運搬だけではなく、北日本地方からの「米」などの物資の運搬や人の往来に活用された。幕藩体制の戦略的役割を担っていたとも言える。 実際、この水路は江戸川水系から利根川水系と連絡し、江戸と北日本とを結びつけるうえで、非常に重要であった。その政治的・文化的役割は極めて大きかったという評価がなされている。 一方、この水路は「成田参詣」にも利用された。江戸から陸路の場合は、船橋で一泊して成田山新勝寺へ向かうというのは良く知られているが、水路も大いに利用されたらしい。 往事の殷賑を偲ぶ縁としては、200年近い風雪に耐えた常夜灯が、いまも旧行徳河岸に立っている。 市川市教育委員会の説明によれば、文化9(1812)年に日本橋界隈の成田参詣の講中が成田山新勝寺へ寄進したものだそうだ。 当時は随分賑わったそうだ。この地には、いまでも「塩焼」とか「本塩」という地名が残っているが、これなども当時の繁栄を示す名残だろう。 ●皆さんも、一度是非、行徳へ来て常夜灯を見てやって下さい。「爺や」が見ても、「嬢や」灯ですよ。 面白ブログが盛りだくさん「BLOG! TOWON」 #散歩 « 鶴の恩返し | トップ | 5月10日(木)のつぶやき »
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