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福沢諭吉先生旧居と大隈重信候旧宅(生家) ・・再掲分
(写真:展示されている寄贈された一万円札第一号券)
福沢先生の旧居(大分県中津市)を見学した。その翌日に大隈重信候旧宅(佐賀市内)見学をした。
前者は正式には「福沢旧居」と称し、福沢資料館
を併設している。
後者は「大隈重信旧宅(生家)」と言い、大隈重信記念館が設置されている。
大隈重信旧宅(生家)」
名称は異なっても、実態は同じである。そこで少年期の勉学をしたのも同じである。
下司っぽい見方だが、福沢先生の旧居と候の旧宅を比較すると、問題にならないくらい先生の旧居がみすぼらしい。
大隈候の父親は大藩・鍋島藩の鉄砲組頭(砲術長)を務める四百石取りの武士であり、住んでいる家も三百石格の屋敷である。
それに対して下級武士であった先生の家は上掲の写真の如く貧相である。この家の隣にみすぼらしい土蔵があって、先生はこの土蔵の二階で勉学に励んだと説明にあった。
福沢資料館には、実に夥しい数の展示品があったが、(旧)一万円札の第一号券(冒頭の写真)が展示されていたのが興味深かった。日本銀行から中津市に寄贈されたもので、券面の番号は将にA 000001 B である。
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大隈記念館も展示品は似たようなものだが、ひとつ眼を惹いたものがあった。それは福沢先生の写真を飾った「福沢諭吉コーナー」の説明である。
福沢先生は1901年(明治34)に亡くなったが、その葬儀の受付で福沢家が大隈候(使者)の献花を「献花・供物の儀は固く辞退」と断ったのだそうだ。
使者も引き下がらなかった。「この花はカネを出して買ってきたものではない。大隈候が普段丹誠込めて育んだものであり、持参した花も候自らが鋏を取り、泣きながら摘み取ったものである」と。
福沢家は黙って受け取ったそうである。
06.05.07