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ユーモアあれこれ
落語が好きだから、 “ユーモア”について聞かれることが多い。皆さんはどうだろうか? 落語とユーモアが無関係だとは云わないが、一般の理解の仕方には大いなる誤解が存在するようだ。
先日も、旧友から《「駄洒落」、「滑稽」、「ユーモア」の差は何だろうか》と尋ねられて窮している。
フロイトは、ユーモアの典型例として……
《月曜日、絞首台に引かれて行く罪人が「ふん、今週も幸先がいいらしいぞ」》といったのを挙げている。
結核で死ぬことを運命づけられていた子規は、『死後』というタイトルで、ほとんど落語的な考察を続けている。棺が窮屈なのは厭だとか、土葬も火葬も厭だといって……
子規自画像 明治33年
《土葬も火葬もいかぬとして、それでは水葬はどうかといふと、この水といふやつは余り好きなやつで無い。第一余は泳ぎを知らぬのであるから水葬にせられた暁にはガブガブと水を飲みはしないかと先づそれが心配でならぬ》。
さらには、ミイラも気に入らぬと云う(明治34年「ホトトギス」:「死後」)。
子規の精神的姿勢は、フロイト流にいえば、ユーモアであろう。
フロイトは、誰かが他人に対してユーモア的な態度を見せる場合について……
《この人はその他人に対して「ある人が子供に対するような態度を採っている」》のだと云う。
《いってみれば、ユーモアとは、「ねえ、ちょっと見てごらん、これが世の中だ、随分危なっかしく見えるだろう、ところが、これを冗談で笑い飛ばすことは朝飯前の仕事なのだ」とでもいうものなのである》(フロイト『ユーモア』)。
ユーモアには「一種の威厳」があるらしい。