
「末広」か「末広亭」か?
(写真㊤:「末広(亭)」跡地に現在建っているビル 中央の白い大きなビル)
ここで問題になっているのは、新宿の寄席「末広亭」のことではない。
1945(昭和45)年に廃業した人形町の寄席の正式名称は、「末広」か「末広亭」だったのか? どちらが正しいのか…というのが冒頭に提起した問題。
以下三枚の地図と画像の元のページ http://www.mensyou.co.jp/rekisiguide.htm
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末広亭の跡地に建った「次田東京支店ビル」(昭和46年5月竣工)も㊦の写真のようにやがて壊されて、今では別のビルが建っている。「読売インフォーメーションサービス」という表示のあるビルだ。冒頭の写真である。

右側の白いビルが末広亭跡に建てられた「次田東京支店ビル」、で既に解体工事の為仮囲いがしてある。昭和46年5月竣工の銘が見える。このビルも一生を終わるのだ。このビルの右角に「末広跡」の碑が設置されている。(http://ginjo.fc2web.com/46tensai/suehiro.htm)

左隣の「うぶけや」
これくらい人によって呼び方が違うものはない。「末広」が正しいという人もいれば、「末広亭」が正しいという人もいる。廃業した寄席の建物は既に壊され、今は新しいビルになってしまって跡形もない。
ややこしくて悩ましい問題だ。いろいろ調べてみたが、調べれば調べるほど、判らなくなってしまう。この問題は三つに分かれるようだ。
①「末広亭」と記述したもの:非常に多く、落語通と呼ばれる人にも多い。無数にあるが、ひとつだけ挙げておきたい。
『明治文化史』第十巻 趣味娯楽編 (昭和30年8月30日) 第六章 行遊・行楽 「二 寄席」の項にも、《…明治二十五年六月一日の東京屈指の席名と出演者の顔ぶれをみるに、日本橋伊勢本に朝太夫・広作、人形町末広亭はフローン・柳橋、宮松亭は駒之助・素行、両国立花席はひるは円喬・円生・談志、夜は燕枝・加賀太夫(新内)、福本は伯鶴、神田白梅亭は円喬・橘之助(俗曲)、川竹亭はブラック・遊三、鈴本亭は円生・橘之助、浅草花川戸の東橋亭はひる綾之助、夜小政、また本郷の若竹は小勝が出ていた…》とある。
②「末広」と「末広亭」の両方の記述が混在しているもの:東京の国立演芸場の展示には、この寄席に関する資料がいくつか展示されている。しかし展示資料の記述はバラバラである。またそれに関して演芸場の格別の説明はない。両方の違いを黙認?した格好だ。
③「末広」としたもの:(社)落語協会や出版社をはじめとしたジャーナリズム関係者には「末広」表記が多い。
(例)落語協会
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以上、①②③諸説紛々だが、決定的なのは、現在の「読売インフォーメーションサービス・ビル」の道路に面した右隅に「寄席 人形町 末広跡」という碑が埋め込まれていることだ。 |
正式な名称は「人形町 末広」と断定してよさそうだ。しかし①~③で見た通り、「人形町 末広亭」という呼び方も多くの人に使われていたことは間違いない。新宿の末広亭に引っ張られて「亭」を付けて呼ぶようになってしまったのか。
とくに土地(ところ)の人びとが「人形町 末広亭」と呼んでいたことは、重い事実だ。一概に間違いだとは言えないような気がする。皆さんはどう思いますか?
06.09.27
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