長かった夏がようやく去り、せっかちに冷え込みがやって来た
秋の一日、妻の三回忌を営んだ。
心の病との辛い闘いに明け暮れた妻が、病院のベッドで朽ち
るように果てていったあの日の事が、まだ昨日の事のように
思えてならない。
無常迅速…
蓮如の「白骨のお文」を読むまでもなく、使い古され、聞きあき
たこんな言葉しか、今の私の思いを、
うまく言い当てる言葉を知らない。
ふり返えってみれば、
妻が重い心の病をかかえている。それをはっきりと知ったのは、
私が胃と脾臓を全摘して3年程が過ぎた頃の事である。
五臓六腑の二つを失った不便さは、健康な人にはとうてい想像
もつかないだろうし、言葉でそれを説明したところで、経験のない
人に理解をして貰うのは不可能である。
次から次へと襲ってくる医書にはない様々な後遺症状。
それに耐えることすら難儀な身体で、仕事もそれなりにこなして
いかなければならない。
弁護士の仕事は人が羨むほど、うまい仕事でもなければ、
これを誠実にこなしていく限り、傍が思うほどには実入りもよく
ない。
大企業の法務ばかりを受任する一部のブル弁はいざ知らず、
街の一弁護士として働く限り、関わり合う紛争は、人の争い事
の中でも、とりわけ利害や理非、そして感情までが複雑、多様
に絡み合い、解きほぐし困難なほど人間関係の縺れた事件が
ほとんどで、その裏には人間のどす黒い利欲や愛憎が消しが
たい炎となって燻っている。
貪・瞋・痴の三毒が生み出す人間業が描きなす闇曼荼羅のよ
うな争い事は、正義の、人権の、弱者保護の、等といった通り
一遍の綺麗事で片が着くのはほんの一握りで、そのほとんど
が正義も道理も解決に向けてほとんど無力なことが多い。
そんな事件に手間暇をかけないで、鬼平もどきの勘働きで
「落とし所」なるものを見つけだし、大鉈を振るい、力業で当事
者を抑え込み、手練手管を使って早々と事件を決着に持ち込み、
しこたま報酬を搾り取る。
その後はパンパンと汚れた手を払って知らぬ顔で紳士面を極め
こむ。そんな厚顔でも持ちあわせていない限り、家も建たなけれ
ば高級車を乗り回すことなんてとても出来ない。
そんな手荒なやり口が性に合わず、手間と時間をかけて誠実に
こつこつ仕事をこなすとなると、神経もすり減り、身体が幾つ
あっても足りない。
それが弁護士の仕事の現実なのだ。
事件が裁判沙汰にでもなれば、真実究明や理非、道理にかなう
裁判など絵空事で、総局の訴訟促進の意向や書面審理をやたら
と強要し、上層の顔色ばかりに神経を尖らせる裁判官がほとんど
の今の裁判所の現実では、諸人が得心する審理や判決など、
百の中、はたして幾つあるであろうか。
裁判官が、そのノルマを上げるためにした端折り審理の手荒な
判決で事件の決着を付けさせられ、後に残る当事者の不満の
尻ぬぐいは、すべて代理人の弁護士がさせられるのである。
妻が病の床に伏せるようになってから、それまで妻に任せきりに
していた子供の世話、家事、隣組との付き合いなど、すべて私の
肩にのしかかってきた。
妻の病気の性質や症状については、このブログにかつて書いた。
周期性の病気で、急性期がおとずれると、妻はほとんど眠らず、
動き回り、尿も便も垂れ流しの状態になる。
病院が入院を受け容れてくれるまでの幾晩か、私もゆっく床につく
ことなど不可能である。
眠らなくても明日の仕事の予定は待ってはくれない。
もう自分の健康のことなどかまっている
余地などなくなる。朝になれば、子供の弁当も作らなければならない。
買い物、夕食の準備、食事の世話、後始末。家事も子育ても、
やり始めると際限が無いのである。
二つの臓器がない私のポンコツの身体は、
いつも限界ギリギリの状態で命をかろうじて繋ぎ止める。
そんな日々が続くのである。
妻の入院が許されると、介護の辛さからは解かれるが、疲労と不安
で昂った神経は、中々鎮まってはくれず、疲れた筈の身体も睡眠を
受け付けようとはしない。
その神経を宥め、眠りを迎えるには酒に頼るしかない。
胃のない身体に酒を流し込むと、酔いが瞬時に回り始める。
かくて、妻が入院した後のしばらくは酒の助けを借りて眠りにつく日が続く。
人はなぜ苦しみに耐えて生きなければならないのか?。
幸せって何だろう?。
そんな事を私が真剣に考えるようになったのはその頃からである。
それを救ってくれたのが仏教と、休日の古都歩きだった。
漢和辞典と解説書を片手に世親の阿毘達磨倶舎論を一字、
一句と読み進み、唯識哲学の本を漁り、禅書を持ち歩き、座禅
が朝の日課になった。
そうやって、幾ら本を読み、頭で仏教の教えや哲学を学んでみて
も、そこに悟りも、幸せもあるはずなどないし、素人座禅に出離も
投機も無縁である。
そこで見いだすのは、人の操る言葉の危うさと、先哲の大脳が
捻り出した難解な論理や哲学のみである。
言葉や論理を追いかけ回している限り、そこに救いも悟りもある
はずがない。
書を読み尽くした頃に、救いといい、悟りといい、幸せといい、
それらはすべて言葉や人の計らいをを超えた世界にしかないこと
を初めて知るのである。
リックを背負い地図と磁石を頼りに飛鳥、奈良、京都と手当たり
次第にを歩き回った。
無心で歩いている間は、日常の煩わしさから逃れ得ても、
幸せなど何処にも転がってはいないし、私の、
「なぜ…?」
への答えも返ってはこない。
帰宅すれば、子供が腹を空かせて待っている。
妻が退院してくれば、そこから再び介護の日々が始まる。
入退院を繰り返す毎に、妻の回復期が短かくなり、急性期が長
びくようになった。
それに比例して遅発性ヂスキネジア、パーキンソン症候群等の
抗精神病薬の副作用が深刻化していった。
人格レベルの低下も確実に進んでいく。
人間が少しずつ毀れていくのである。
高校、大学への子供の進学や就職の問題も深刻だった。
病に苦しむ母と、仕事に追われる父の家庭に生まれ育つ子供こそ
不幸である。
長男は閉じ籠もりがちになり、次男は家を嫌って飛び出して行った。
妻が病んで十数年が過ぎたとき、私の身体も心もボロボロになっ
ていた。
それまで若さと精神力でもちこたえていた二臟を欠いた私の
ポンコツの身体は、老化による衰えが急速に襲ってきた。
介護を取るか、仕事を取るかの二者択一に選択の余地などある
はずがない。
平成18年春、事務所を閉め、翌19年の春、弁護士を廃業した。
その翌年の6月、長男が自分の人生に早々と見切りをつけ、
自らその命を断った。
冷たくなった長男の身体の前の机には、先立つ不孝を詫びる
わずか数行の遺書、そして、パソコンの中に、
「積極的自死とも言える考えの下、自ら命を絶った人の遺稿です。
気が向いたら一度読んでみて…
お父さんには、受け入れかねる考え方かもしれないけど、
こういう価値観が存在するということを知るだけでも、
頭の肥やしにはなると思うから…」
と記されたメモ書きと、そのパソコンの傍らに、
須原一秀著、双葉社刊の「自死という生き方」
という一冊の本が置かれてあった。
大学を出てから仕事を幾つか変え、最後は情報処理の幾つかの
資格を取り、それで生計を立てたいと、自宅でパソコンに向い
詰めの生活だった。
しかし、文化系の長男には越えがたい壁があったようだ。
何度も将来について相談しようと話しかけたが、長男は無口な
私に増して無口で、何を語りかけても「心配いらへん」の一言が
返ってくるばかりだった。
友達とは飲む酒も、私と向かい合うと、口にしようともしなかった。
何一つ語らずの長男の心の奥は、仕事を辞めて老いが目立つ
父親と、病に伏せる母親が、長男であるだけに、重過ぎる負担と
映じていたのに違いない。
長男を失ってから、妻の病状は急激に悪化していった。
その年の12月初旬、退院を許された妻が、自宅で過ごせたのは
わずか1ヶ月ほどで、初春気分もまだ抜けないその翌年、つまり
一昨年の1月の半ば、悲しそうに、また病院へと戻っていった。
その年の桜の頃、妻の少し調子が少し良くなり、しきりに退院を
希望したが、自立支援施設への入所を進める病院の意向を汲ん
で、その方向で調整を進めていた。
その矢先、妻に麻痺性イレウスの症状が出て、大阪市内の病院
へ緊急転院した。
「家に帰りたい」
面会に行くと、そればかり言い続けていた妻は、一度もその希望
がかなえられないまま、その年の11月、病院のベッドから永久に
帰らずの旅へと発っていった。
悪性症候群、麻痺性イレウスと、抗精神病薬の不適切な投与が
招く、その種の重篤な副作用を、幾度となく経験してきた妻の身体
は、ありとあらゆる抗生剤の使用の経歴が、それへの耐性をしっ
かりと根付がせていて、長期入院による体力、免疫力が極度に
低下した妻への、軽い肺炎菌の感染すら、担当の医師としては、
施すべき術を見いだせなかったのである。
死に至るまで食事も取れず、寝返りすら自らの力では出来ない
状態での点滴づくめの6ヶ月である。
意識はしっかりとしていただけに、辛くないはずがない、
痛くない訳がない。
なのに、それを問えば、
「痛くない、辛くない」
と答えるばかり。
そんな妻の姿が、ただただ心に痛かった。
命のギリギリまで衰えた妻の左半身には、経験したことのない
帯状ヘルペスが発症し、左半身は点々と帯状に黒ずみ、
潰瘍化してきていた。
足の関節は曲がったまま固まり始めていた。
鼻からも、口腔からも出血し、尿に血が混じり始めた。
肺炎菌に犯されて全身が炎症を発していた。
重篤な敗血症で回復の見込みはない、と医師はから覚悟を求め
られた。その3日後、妻は朽ちるように息を引き取った。
電車の窓から妻が世話になった病院の明かりを目にすると、
今もその頃の妻の苦しむ姿が思い出されて、心が痛む。
病苦と闘い続けた妻が、穏やかな死顔で旅立っていってくれたこと
が、私にとって唯一の救いだった。
医書によると、臨終の間際、人の脳内にはエンドルフィンとかいう
神経ホルモンが分泌され、苦痛が寛和されて人は穏やかな死に
導かれる、と書かれている。
死んだことのない私には、それが事実かどうかは知らない。でも、
私にとって、その真否など問題ではない。
私にとってほんとうに大事な事はもっと外にある。
生きる日々の煩いに心を病み、20年余も苦しみぬいたあげく、
腐ちる如くに果てていく妻が、その死の床で最後に見せた穏やか
な死顔こそ、自らの魂が心、口、意の我の世界を離れ、
今旅立とうとしている遠い紫雲たなびく世界こそ、人の煩いや
迷いの営みが何一つなく、真の安らぎのある至楽の世界である
真実を、その枕辺で覗き見た、安堵の笑みであったに違いないと
思うからである。
病んで鑞面化し、表情を失っていた妻の死顔に、やわらかい
笑みを見てとった時、私はそう確信したのである。
それを知ったとき、それと同時に、それまで私が追い求めていた
「なぜ…?」
の疑問への答えも、しっかりとそこに与えられていたのである。
言葉という、人のあみ出した意思疎通の道具は、
実に難儀な代物である。
人の心やその思いが、すべて以心伝心で伝わるなら、人の世の
いざこざや争い事は、その多くがなくなるであろう。悟りを得た
聖人であれば、神通力を得て相手のすべてが為心伝心で、
そこに何の咎も過ちも生ずることはないであろうけれど、
悲しいかな凡人は、言葉なくして何も伝えることができない。
ところが、残念なことに、言葉という道具は真実を伝えられない
ばかりか、真実に触れることも、迫ることも出来ないのである。
普段、人はその事をあまり意識しないが、実は、人がその五感の
直感でかすかに捉えた対象の真実の姿は、そこに意識が働き、
それが言葉に置き換えられるとき、もう真実は失われ、
そこに残るのは、置きかえられた言葉そのものがイメージする
五感の知った真実の虚像にすぎない。
人が赤く輝くバラを見て、赤い、輝く、バラの花などと、それを言葉
に置き換えたとき、相手に伝わるのは「赤い」「輝く」「バラの花」と
いった言葉という道具が象徴する言葉のイメージであって、
伝える人の五感が捉えた対象の姿、形そのものではない。
イメージ化した情報は伝達者が捉えた真実とは似て非なる人の
意識の働きが創り出す妄像なのである。
一事が万事で、伝え手が言葉で伝えようとする人の赤裸の心も、
それが言葉に置き換えられ、聞き手に伝わるとき、それは置き
換えられた言葉のイメージに、さらに聞き手の意識が加工を施し
歪曲された伝え手の心の状態に過ぎず、それは相手の赤裸な
心とは似て非なる聞き手の妄像の世界でしかない。
そこには齟齬と誤解が必然的に入り込むし、そこに聞き手の感情
が持ち込まれると、憎しみも恨みも湧いてくる。
もともと、言葉は、それ自体が多様な意味を含むのが通常で、
伝える側が使った言葉を、受け取り側がどのような意味に理解
するかについて、何の担保もないのである。
こうしたことは、伝送ゲームのもたらす結果を思い起こせば、説明
を加えるまでもなく明らかである。
耳で伝える言葉ばかりか、外界にある万物は人の五感がこれを表象し、
それを言葉に置き換えるとき、既にそこに人の意識の働きで加工され、
歪められ、言葉になったとき、それはすでに真実から遠く離れてし
まっているのである。
「分別」と呼ばれ、人の良識と世間が誤解している、意識の働きは、
常にこうした齟齬や誤解の上にたって、貪、瞋、痴の合切袋である
人の意識の中で行われるのである。
だから、人の分別こそ、その偽らざる実像は、それを巡らせれば
巡らす程、真実を遠く離れ、愛や憎しみ、怒りや恨みといつた人
の煩悩を限りなく再生する迷いの源泉なのである。
だからこそ釈迦は「我を去り無為に至れ」と説き、
孔子は「巧言令色、鮮矣仁」と戒めたのである。
言霊信仰といって、言葉には魂が宿ると説かれ、神道、
とりわけ復古神道はその言霊への信仰が
その教えの柱となっている。
他国でも言葉に対する信仰は色々な形で存在する。
人と神との対話が、言葉を仲立ちしてなされるのである限り、
その言葉に魂が宿らなければ、
神という存在そのものが危うくなってしまう。
万葉にも、「磯城島(しきしま)の日本(やまと)の国は言霊の
幸うくにぞ…」と詠まれ、万葉、古今以降の和歌の道は言葉の
花が咲き乱れる芸術の世界である。
それほどすばらしいはずの言葉が、反面、どれだけ人を傷つけ、
社会に禍をもたらすかは、仏教の戒律の多くが言葉とそれに伴う
人の行いに向けられていることからも明らかである。
具足戒といい、梵網戒といい、大乗の五戒、十戒も、人の言葉に
対する戒律が必ずそこに含まれているのである。
人の心の病は、その多くが社会という人の集まりの中での、
人と人との言葉を介する意思疎通の行き違いや、言葉の暴力が
その引き金になるのである。
言葉とそれが引き起こす人の心、意、識の迷いの働きが、
どれだけ社会を乱し、紛争を誘い、人を傷つけ、人と人とが殺し
合う歴史の過ちを繰りかえしてきたことか。
悲しいかな社会の営みは、言葉を抜きにはなり立たない。
私が生業としてきた法曹の世界も、その外ではなく、人の操る
言葉と、六法という人の「分別」の集大成の規矩の中で、
人の争い事の始末つける職人の集団なのである。
もともと人が人を裁くことなど本来は不可能なのだし、
神ならぬ只の人が真実を見つけ出すこともとうてい出来ない
相談なのである。
だから、神、仏の次元から見れば、人が行う裁判など、
痴迷いの茶番にしか映らないに違いない。
しかし、人しか人を裁けない現実が、約束事として裁判という
仕組みや、法という、それが従うべき規矩を創り出したのである。
だからこそ、それに携わる人間は、謙虚な上に謙虚であれ、
と求められているのである。
真実を知ることの出来ない人が、人を裁く危うさから、少しでも
その過ちを減らそうとする人の叡智が考え出した法以前の裁判の鉄則、
「疑わしきは罰せず」にせよ、「適正手続」にせよ、その不滅のはず
の鉄則を、一番先に忘れ去り、訴訟の迅速を急くあまり、手続の
簡略化、過度の書面審理化による粗略な裁判が今の法廷で
大手を振ってまかり通ってはいないだろうか。
四諦八正道を解いた釈迦の悟りの知慧も、とどのつまり、
涅槃妙心、実相無相、微妙の法門の奥義ばかりは、
言葉を超えた「拈華微笑(ねんげみしょう)」でしか伝えられ
なかったではないか。
達磨は「若識心寂滅、無一道念処、是名正覚」と
説かなかったか。
慧能の説いた頓悟の曹渓禅も、「教外別伝、不立文字、
直指人心、見性成仏」ではなかったか。
道元は「心意識の運転をやめ、念想感の測量(じきりょう)を
止めよ」と説かなかったか。
金剛般若経の説く「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうご
しん)」も、明恵の説く「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」も、
鈴木大拙が説く「超我の我」も、
その言わんとするところは一つである。
念仏往生を説いた法然も、欠伸(あくび)混じりに南無阿弥陀仏さえ
称えれば極楽往生が叶うなどと何処にも説いてはいない。
「ただ一向に」念仏を申せば救われる、つまり、
「すべてをなげうって弥陀の本願にすがれ」、
そうすれば人は救われると説いているのである。
どの経典も、どの先哲も、我を棄て去り、人の言葉や計らいを超えた、
その先にこそ、真の安らぎも、究極の救いも、用意されているのだと説く
ことに違いはないのである。
なのに、巷ではもとより、政治の場でも、マスコミ報道の中でさえ、
言葉の奥の真実を求めようとせず、いたずらに人の言葉の片言隻句を
取って廻っての有害無益な議論に花を咲かせていないだろうか。
人の成長は自我の確立の課程である。自我の確立は、
人が生きる上で必要不可欠な人の生の営みでもある。
しかし、人は己の中で自我が確立すると、その心はさらなる自我の
高みへの成長を止め、貪、瞋、痴の迷いの知恵ばかり求めて頭を
肥え太らせ、超我の高みを知ろうとしない。
妻が庭に植えたツワブキは、
今年も黄色い花をつけ、
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妻が最も愛したムラサキシキブも、
実の紫を日ごとに濃く染めてきている。
主を失つても、花々は、
季節のおとないとともに、おのずと開花し実を結ぶ。
花の生命は自然の中にしっかりと溶けこみ、その恵みを花や実と
なって結び、季節を過ぎれば、花は散り実は落ちて、受けた恵みを
自然に戻し、次の季節まで眠りに就く。
そこは人の言葉や計らいを超えた自然の悠久で豊かな営みの
世界である。
人は人の死によって無常を悟り、その迅速さを悲しむ。
しかし、死が無常だと感ずるのも、それをはかないと感じるのも、
自然の悠久さ、その豊かさを知るからである。
なのに、貪、瞋、痴の迷いの知恵に肥え太った人の自我は、
その自然まで我がものであるかの如く思いなし、それに魔の手を加え
ようとしていないだろうか。
三回忌を迎えた今、妻は、先に旅だった長男と共に、その自然の
豊かさの中へ帰って、そこで安らかな眠りについているのである。