五山の送り火
一昨日の夕刻のことである。大阪市内の病院に入院している妻を見舞い、汗みずくになって帰宅した。
このところ大阪は連日のように35度を超える猛暑である。
外が暮れなずむ頃になっても外気の温度はさほど下がらない。
締め切った家の中はさながらサウナである。
疲れ切ってやっとの思いで自宅にたどり着き、先ずは風呂へ入って全身の汗を流し、リビングで簡単な夕食を済ませた。
我が家の居間は西日が入る精か、冷房の効きが悪い。エアコンを強くして部屋の温度が下がるのを待って居間に移り、ソファに座ってほっと一息ついた。
テレビの電源を入れるとモニターの画面には今し赫々と燃え上がる如意ヶ岳の大文字の炎の影像が映し出されていた。
8月16日の夜、
その夜が京都五山の送り火の夜であることを、私はすっかり失念していたのである。
目の前の画面は、毎年、京都テレビが流す五山の送り火の実況中継の影像だったのである。
これまで忘れたことなどない五山の送り火の夜を、今年に限って、私はなぜかすっかり忘れてしまっていたのである。私はしばし食い入るようにテレビの画面に魅入っていた。
モニターに映し出される大文字の影像を見ているうち、私はこの3ヶ月ほどの間というもの、暗く閉ざされ鬱していた気分が少しずつ和らいでいき、暗く閉じられていた心の窓が解き放たれ、元気と希望のようなものが心に甦ってくるのをはっきりと感じた。
暗いどん詰まりの心の迷路にやっと出口が見えてきたのである。
私は精神の障害をかかえた妻を、何とあっても最後の最後まで看取ってやらなければならない。落ち込んでなどいられないし、ましてや妻より先に旅立つことなど出来ないのである。
しかし、私は躁鬱気質なのか、気分がとても落ち込むときがある。落ち込むといっても精々2日か3日のことで、やがて自然と出口が見えてくるのが常である。
ところが、この5月に、突然、原因不明の高熱を発して倒れた。2日ほどは熱のため動くことすら出来ず、ベッドに寝たきりの状態だった。少し熱が下がり、どうにか動けるようになってきたので、近くの病院へいき診察を受けた。色々と検査を受けたが発熱の原因は分からなかった。インフルエンザは新型、従来型ともワクチン接種を受けており季節外れのインフルエンザとも考えがたい。下痢も伴っていたが、食あたりするような物を食べた記憶もない。
もう二十年以上前に私は胃がんで胃と脾臓を全摘しており、それからというもの、睡眠中にしばしば腸からの逆流が起こり、食道や気管支の粘膜がやられ40度近い高熱を発することはしばしばである。
しかし、この時は日中にパソコンのキーを叩いているとき、全く不意に起こってきた発熱で、逆流が原因でないこともはっきりとしている。
念のため食道の内視鏡の検査を受けてみた。
胃の全摘によって噴門がなくなっているため、食道と腸との吻合部に常に炎症が伴い、最近はそれが潰瘍化していることが分かった。しかし、この吻合部の炎症は胃の手術いらい常時と言っていいほど起きていて、私の持病になっている。これまでそれが原因で発熱したことはない。
念のため腸の検査も受けたが発熱に繋がる原因は見つからなかった。
原因が分からないとなると益々不安な気持になる。3年ほど前から足裏のしびれ感があり、これが徐々にひどくなってきているように思えて神経内科でも検査を受けた。この方はどうやらビタミンB12の欠乏による末梢神経障害のようで、やはり高熱とは関係なかった。
私は段々と不安に襲われるようになった。それとともに心も塞いできた。一人で暮らしているので私が倒れて動けなくなったら面倒を見てくれる人はいない。
人は弱いものである。普段は人はどうもがいても必ず死ぬのだから、その時がくればじたばなどするまい、
そう割り切っていたはずなのに、いざその気配を感じるようになると、その覚悟が途端に怪しくなってくる。
ちょうどそんな時期に、精神科に入院していた妻が、麻痺性イレウスを発症し、大阪市内の一般病院へ緊急転院した。体調不良を押して1、2日おきに電車で妻の入院する病院へ通う日々が続いた。
一般のイレウスと違い、麻痺性イレウスは抗精神病薬の副作用で自律神経そのものが冒され発症するものだけに、その治療もなかなか一筋縄ではいかないようだ。
妻の麻痺性イレウスは、私の知る限りこれまで4度あった。
私が知る限り、というのは精神病院、特に閉鎖病棟に入院する患者については、その時々の病状についての説明は、こちらが尋ねない限りないのが通常だからである。
私が知る4回のイレウスは、いずれも内科病院への転医が伴った関係で分かったものだが、幸いなことにこれまでは1ケ月ほどで回復し、元の病院へ戻されている。
ところが、今回ばかりは1ケ月たっても、2ケ月たつても腸の動きが戻って来ない。熱も上がったり、下がったりを繰り返し、食事が一切取れないまま電解質製剤と抗生剤の点滴だけで、3ケ月近くが経過した。見舞う度に、目に見えて衰弱していくベットの妻を見て、今度ばかりはもう駄目か、と心の中でひそかに別れの覚悟を決めた。
体調不良で思うようにならない身体で、死に一歩一歩近づきつつある妻を見舞うため、遠い病院へと見舞に通う行き帰りは心が破けるほどに辛らかった。
その妻が、4日ほど前からおかゆが食べられるようになった。私は心底ほっとした。重い精神疾患を患う身だけに、たとえここで持ち直しても、その先に人並みに幸せな日々など期待できそうにない妻ではあるが、当面している苦しみのトンネルを一つ抜け出せたことは、やはり嬉しかった。
一昨日の夕刻も妻の状態が、後戻りすることなく少しずつではあるが快方へと向かいつつあるあることを確認して帰宅しての五山の送り火のテレビ実況である。
私は三重県で生まれ、三重県で育った人間である。
それなのに、どうした縁からか高校の頃から五山の送り火にとても興味があった。興味があっても今のように気軽に京都まで行ける時代ではなかった。だから、高校時代も、東京に出てからもその炎をこの目で確認する機会はなかった。
私が初めてこの目で大文字の炎を見たのは、裁判所に入って大津の裁判所へ赴任した年の夏である。知人の好意で京都市内のビルの屋上から「大文字」「妙法」「舟形」「左大文字」の送り火を見せてもらった。
以来、五山の送り火の日の夜は何度も京都へ足を運んだ。いろんな場所でいろんな角度から大文字焼を見た。中でもあの如意ヶ岳の「大」の炎が何故か私の心をとらえて放れなくなった。
「泥洹の炎」と言う私の作品も、この如意ヶ岳の「大」の炎に込めた私の思いが生み出したストーリーである。
作品の中で幼稚園に進んだばかりの幼い洋一が「お父さんなぜ「大」なの?」「なぜ「大」の字を焚やすの?」と傍らに座る父幸典に投げかけたその問いは、実は私が私自身の心へなげかけた問だった。
我が子洋一の死、癌との闘い、妻への不信、そして離婚と、波風の多い人生の締めくくりの時期に、たった一人で取り残され、妻に離婚分与した神楽岡の自宅に奇しき縁で戻った幸典が、その年、自宅の窓から久しぶりに如意ヶ岳の山肌で燃え上がる「大」の炎を見た時、初めて我が子洋一が投げかけた「なぜ」の問いへの答を幸典はやっと見いだしたのである。それは煩悩に汚れた罪深い衆生を浄土菩提へと導く泥洹の炎だったのである。
癌の再発で死期を迎えた幸典は、この「泥洹の炎」に導かれて浄土へと旅だっていった(作品については、ホームページ
http://www9.plala.or.jp/ka1610zu/参照)。
作品の中の幸典のその「大」の炎への思いは、言うまでもなく、私自身のそれと重なっている。
毎年、8月16日の夜、京都五山で焚かれるあの炎を、単にお盆の一つの行事とか、京都の夏のイベントとか、思う心ばかりで眺めている限り、炎が消えてなくなれば「ああ終わった」で忘れてしまう単なる夏の風物詩に過ぎなくなる。
それも大文字の一つの楽しみ方なのかもしれない。しかし、それでは時代を越えて志ある人達が、生まれ変わり、死に変わりして、延々と守り継いできたあの「大」の炎へ込めた思いの丈は計れないであろう。欲得を洗いざらいかなぐり捨て、素裸の自分になりきってあの炎に向きあわない限り、あの燃え揚がる炎のほんとうのありがたさは分からないと思う。
私はあの「大」の炎に救われた一人である。