忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

妻よがんばれ

2010年09月27日 | 如是日、如是時、如是想

妻は5月に現在の病院へ入院し、以来絶食が続いていた。
ところが8月の中頃から流動食が許されるようになり、これでやっと快方へと向かい始めたと喜んでいたのも束の間、8月末に40度の高熱を発して嘔吐し、再び絶食に戻った。
入院してから現在まで4ケ月余の間、短期間の流動食を除けば、妻の生命はほとんど点滴だけで維持されてきているいるのである。
65キロもあった妻の身体は、今は骨と皮だけの痛々しい姿に変わりはてている。
看護士が日に何度か身体の向きを変えてくれてはいるが、自力では寝返りすらうてないし、手足の筋肉が衰えてしまい、手も足もすでに自らの力では思うままにならなくなってしまってきている。くるぶしの関節は伸びたまま硬くなり、アキレス腱は瘤のように固まって縮んでしまっている。
麻痺性イレウスの治療のため入院したのだが、入院直後に肺炎を起こして高熱が続いた時期があった。抗生剤の投与で一旦落ちたように見えたが、再び高熱に見舞われるようになり、それからは抗生剤と高熱との追っかけっこが続いている。
今ではイレウスよりも肺炎菌との闘いの日々になってきている。
長びく絶食と抗生剤の投与で体力の低下と白血球の減少が著しく、菌への抵抗力が衰えて肺炎菌が全身へ廻り、今や敗血症を視野に入れなければならない状態である。
それでも、まだ意識はあって、私が行くと「来てくれたの」と嬉しそうにするが、それも段々と弱々しくなりつつある。
最寄りの駅から2キロ近い道を歩いて妻を見舞うのであるが、100年に1度の今年の猛暑で私の方もすっかり身体が消耗してしまった。完全看護の病院なのだから、すべて病院へお任かせしておけば良いのかも知れないが、それでも妻の安心する顔を見たさに、ついつい重い足を運ぶことになる。
たとえ見舞っても、悲しいかな、私に出来るのは、汗を拭ってやったり、延びた爪を切ってやったり、硬くなった関節やアキレス腱を揉みほぐしてやったりすることぐらいで、外には何もしてやれず、ただただベット脇に佇み、励ましてやるほか何の能もない。叶うことなら私が妻に入れ替わって病気を背負ってやりたいが、それも栓のない思いである。
楽しい思い出は少なく、辛いことや苦しいことばかり色々と山盛りあった妻とのこれまでだが、それでも妻は私の人生の唯一のパートナーなのである。
これまで何度も生命の瀬戸際に立たされながら、命を繋ぎ止めてきた妻である。どうか今一度頑張って欲しい。何とか今の危機を乗り越え、もう一度、せめて何日かなりとも、この我が家へ戻ってきて欲しい。
そう祈るのみである。


親切さまざま

2010年09月04日 | 如是日、如是時、如是想

親切さまざま

数日前のことである。
病院へ妻を見舞った帰り道、少し足を延ばして天王寺の一心寺へお参りをした。
一心寺と言えばお骨仏の寺として名が知れており、亡くなった長男のお骨の一分を分骨して納骨させてもらっている。その菩提を弔うためのお参りである。
たいした道のりではなかろう。そう思って妻の病院から歩いてお寺へ向かったが、途中で道を間違えたりして、結局、一時間以上もてくてくと歩くはめになった。なにしろ36度を超える炎天下である。お寺に着いた時には全身汗だくで、足は棒になっていた。
お参りをすませ木陰でほっと一息つき、さあ帰ろうと仁王門をくぐろうとした。入るときには気づかなかったが、仁王門の両側には冷水ミストの設備が設けられており、そのミストを全身に浴びると、ひんやりとしてとても心地がよい。私はしばらくそのミストにくるまれて熱しきった身体を冷やしていた。その時である…、
仁王門に向かって参道を登ってきた二人連れの女性の一人が、つかつかと寄ってきて、
「少しものをお尋ねしてもいいですか?」
と話しかけてきた。三十代であろうか、上品な感じのご婦人である。
私はてっきりお寺のことを尋ねるのであろうと思い、
「はい、何でしょうか」
と気軽に応じた。
すると、女性は「私、いつも疑問に思っていることがあるのですが…」と、少し私の反応を窺うようにして、
「男の人はどうして日傘をささないのでしょうか?、日傘をさせばこの暑さ、随分と楽になりますが…」
と言うのである。
私はどう言葉を返して良いものか、返答に窮してしまった。
日傘と言えば女性のもので、紫外線をよけて日焼けを防ぐ道具。生まれてこの方、その程度の認識しか持ち合わせておらず、自分が日傘をさして歩く姿など想像したことすらないのである。
しかし、考え見ればもっともなご意見である。百年に一度と言われるこの今年の暑さである。炒るような太陽を肌に受けて歩くより、日傘でこれを遮って歩けば、日陰を選んで歩くようなもの、その違いは想像がつく。
女性から見れば、父親ほども年の離れた私が、暑さ疲れして冷水ミストを浴びる姿を見るに忍びなかったのであろう。ものを尋ねるふりをして婉曲に伝えようとしたその女性の心は、私に対する精一杯の思いやりだったにちがいない。
大変ありがたいことではあるが、かといってすぐ日傘を差す気ににもなれない。傘といえば片手に鞄、空いた手で雨傘という、あの雨の日の雨傘の鬱陶しさがすぐに思い返されてしまうのである。
結局、ご婦人の親切に碌な言葉も返せないまま、ただ「ありがとう」とだけ言って私はその場を離れた。

最近、電車に乗ると若い人から席を譲られる機会が増えた。自分ではまだまだ若いつもりでいるのだが、若い人から見れば捨てておけない老いの姿にみえるのであろう。その親切を大変有り難く思いながら、心のどこかに淋さと戸惑いがある。
人は幾つになっても席を譲る側でいたいのである。
老いはきっと背中から近づいてくるのであろう。当の本人には見えないが、彼を見る人からはそれがはっきりと分かるらしい。
そなことを考えながら自宅の駅で電車を降り、コンコースを経て階段を降りようとしたら、同じように階段降りようとする身体の不自由な男性が目に入った。半身が思うに任せないらしい。この駅の階段は勾配がかなり急で、しかも長い。杖に縋っての不自由な足でその階段はとても危険なように思えた。傍らで奥さんらしき人が介助しているのだが、その奥さんもかなりの齢である。私は気の毒に思い、つい「そこにエレベーターがありますよ」と声をかけてしまった。するとその奥さんが「分かってます。リハビリのためなのです」ときっぱりと言われた。
その言葉はすこしきつく響いたが、それはきっとリハビリに努める夫への心を鬼にしての励ましの言葉でもあったのであろう。
私は自分の軽率を恥じながら、親切は人の目に見えないところでするものだ、とつくづく思いながら家路についた。

五山の送り火

2010年08月18日 | 如是日、如是時、如是想
   五山の送り火
 一昨日の夕刻のことである。大阪市内の病院に入院している妻を見舞い、汗みずくになって帰宅した。
このところ大阪は連日のように35度を超える猛暑である。
外が暮れなずむ頃になっても外気の温度はさほど下がらない。
締め切った家の中はさながらサウナである。
疲れ切ってやっとの思いで自宅にたどり着き、先ずは風呂へ入って全身の汗を流し、リビングで簡単な夕食を済ませた。
我が家の居間は西日が入る精か、冷房の効きが悪い。エアコンを強くして部屋の温度が下がるのを待って居間に移り、ソファに座ってほっと一息ついた。
テレビの電源を入れるとモニターの画面には今し赫々と燃え上がる如意ヶ岳の大文字の炎の影像が映し出されていた。
8月16日の夜、
その夜が京都五山の送り火の夜であることを、私はすっかり失念していたのである。
目の前の画面は、毎年、京都テレビが流す五山の送り火の実況中継の影像だったのである。
これまで忘れたことなどない五山の送り火の夜を、今年に限って、私はなぜかすっかり忘れてしまっていたのである。私はしばし食い入るようにテレビの画面に魅入っていた。
モニターに映し出される大文字の影像を見ているうち、私はこの3ヶ月ほどの間というもの、暗く閉ざされ鬱していた気分が少しずつ和らいでいき、暗く閉じられていた心の窓が解き放たれ、元気と希望のようなものが心に甦ってくるのをはっきりと感じた。
暗いどん詰まりの心の迷路にやっと出口が見えてきたのである。
私は精神の障害をかかえた妻を、何とあっても最後の最後まで看取ってやらなければならない。落ち込んでなどいられないし、ましてや妻より先に旅立つことなど出来ないのである。
しかし、私は躁鬱気質なのか、気分がとても落ち込むときがある。落ち込むといっても精々2日か3日のことで、やがて自然と出口が見えてくるのが常である。
ところが、この5月に、突然、原因不明の高熱を発して倒れた。2日ほどは熱のため動くことすら出来ず、ベッドに寝たきりの状態だった。少し熱が下がり、どうにか動けるようになってきたので、近くの病院へいき診察を受けた。色々と検査を受けたが発熱の原因は分からなかった。インフルエンザは新型、従来型ともワクチン接種を受けており季節外れのインフルエンザとも考えがたい。下痢も伴っていたが、食あたりするような物を食べた記憶もない。
もう二十年以上前に私は胃がんで胃と脾臓を全摘しており、それからというもの、睡眠中にしばしば腸からの逆流が起こり、食道や気管支の粘膜がやられ40度近い高熱を発することはしばしばである。
しかし、この時は日中にパソコンのキーを叩いているとき、全く不意に起こってきた発熱で、逆流が原因でないこともはっきりとしている。
念のため食道の内視鏡の検査を受けてみた。
胃の全摘によって噴門がなくなっているため、食道と腸との吻合部に常に炎症が伴い、最近はそれが潰瘍化していることが分かった。しかし、この吻合部の炎症は胃の手術いらい常時と言っていいほど起きていて、私の持病になっている。これまでそれが原因で発熱したことはない。
念のため腸の検査も受けたが発熱に繋がる原因は見つからなかった。
原因が分からないとなると益々不安な気持になる。3年ほど前から足裏のしびれ感があり、これが徐々にひどくなってきているように思えて神経内科でも検査を受けた。この方はどうやらビタミンB12の欠乏による末梢神経障害のようで、やはり高熱とは関係なかった。
私は段々と不安に襲われるようになった。それとともに心も塞いできた。一人で暮らしているので私が倒れて動けなくなったら面倒を見てくれる人はいない。
人は弱いものである。普段は人はどうもがいても必ず死ぬのだから、その時がくればじたばなどするまい、
そう割り切っていたはずなのに、いざその気配を感じるようになると、その覚悟が途端に怪しくなってくる。
ちょうどそんな時期に、精神科に入院していた妻が、麻痺性イレウスを発症し、大阪市内の一般病院へ緊急転院した。体調不良を押して1、2日おきに電車で妻の入院する病院へ通う日々が続いた。
一般のイレウスと違い、麻痺性イレウスは抗精神病薬の副作用で自律神経そのものが冒され発症するものだけに、その治療もなかなか一筋縄ではいかないようだ。
妻の麻痺性イレウスは、私の知る限りこれまで4度あった。
私が知る限り、というのは精神病院、特に閉鎖病棟に入院する患者については、その時々の病状についての説明は、こちらが尋ねない限りないのが通常だからである。
私が知る4回のイレウスは、いずれも内科病院への転医が伴った関係で分かったものだが、幸いなことにこれまでは1ケ月ほどで回復し、元の病院へ戻されている。
ところが、今回ばかりは1ケ月たっても、2ケ月たつても腸の動きが戻って来ない。熱も上がったり、下がったりを繰り返し、食事が一切取れないまま電解質製剤と抗生剤の点滴だけで、3ケ月近くが経過した。見舞う度に、目に見えて衰弱していくベットの妻を見て、今度ばかりはもう駄目か、と心の中でひそかに別れの覚悟を決めた。
体調不良で思うようにならない身体で、死に一歩一歩近づきつつある妻を見舞うため、遠い病院へと見舞に通う行き帰りは心が破けるほどに辛らかった。
その妻が、4日ほど前からおかゆが食べられるようになった。私は心底ほっとした。重い精神疾患を患う身だけに、たとえここで持ち直しても、その先に人並みに幸せな日々など期待できそうにない妻ではあるが、当面している苦しみのトンネルを一つ抜け出せたことは、やはり嬉しかった。
一昨日の夕刻も妻の状態が、後戻りすることなく少しずつではあるが快方へと向かいつつあるあることを確認して帰宅しての五山の送り火のテレビ実況である。
私は三重県で生まれ、三重県で育った人間である。
それなのに、どうした縁からか高校の頃から五山の送り火にとても興味があった。興味があっても今のように気軽に京都まで行ける時代ではなかった。だから、高校時代も、東京に出てからもその炎をこの目で確認する機会はなかった。
私が初めてこの目で大文字の炎を見たのは、裁判所に入って大津の裁判所へ赴任した年の夏である。知人の好意で京都市内のビルの屋上から「大文字」「妙法」「舟形」「左大文字」の送り火を見せてもらった。
以来、五山の送り火の日の夜は何度も京都へ足を運んだ。いろんな場所でいろんな角度から大文字焼を見た。中でもあの如意ヶ岳の「大」の炎が何故か私の心をとらえて放れなくなった。
「泥洹の炎」と言う私の作品も、この如意ヶ岳の「大」の炎に込めた私の思いが生み出したストーリーである。
作品の中で幼稚園に進んだばかりの幼い洋一が「お父さんなぜ「大」なの?」「なぜ「大」の字を焚やすの?」と傍らに座る父幸典に投げかけたその問いは、実は私が私自身の心へなげかけた問だった。
我が子洋一の死、癌との闘い、妻への不信、そして離婚と、波風の多い人生の締めくくりの時期に、たった一人で取り残され、妻に離婚分与した神楽岡の自宅に奇しき縁で戻った幸典が、その年、自宅の窓から久しぶりに如意ヶ岳の山肌で燃え上がる「大」の炎を見た時、初めて我が子洋一が投げかけた「なぜ」の問いへの答を幸典はやっと見いだしたのである。それは煩悩に汚れた罪深い衆生を浄土菩提へと導く泥洹の炎だったのである。
癌の再発で死期を迎えた幸典は、この「泥洹の炎」に導かれて浄土へと旅だっていった(作品については、ホームページhttp://www9.plala.or.jp/ka1610zu/参照)。
作品の中の幸典のその「大」の炎への思いは、言うまでもなく、私自身のそれと重なっている。
毎年、8月16日の夜、京都五山で焚かれるあの炎を、単にお盆の一つの行事とか、京都の夏のイベントとか、思う心ばかりで眺めている限り、炎が消えてなくなれば「ああ終わった」で忘れてしまう単なる夏の風物詩に過ぎなくなる。
それも大文字の一つの楽しみ方なのかもしれない。しかし、それでは時代を越えて志ある人達が、生まれ変わり、死に変わりして、延々と守り継いできたあの「大」の炎へ込めた思いの丈は計れないであろう。欲得を洗いざらいかなぐり捨て、素裸の自分になりきってあの炎に向きあわない限り、あの燃え揚がる炎のほんとうのありがたさは分からないと思う。
私はあの「大」の炎に救われた一人である。

ある裁判

2010年06月25日 | 如是日、如是時、如是想

                                               ある裁判
 22日の夕刊に「裁判員、初の無罪判決」という記事が載っていた。記事によると、事件は被告人が覚せい剤取締法と関税法の違反の罪に問われたケースのようだ。
 裁判員制度が実施されたから、すでに一年が経過した。制度の是非についての意見は様々であり、それはこの制度が実際に動き出して一年が経った今も変わらない。
 概して、制度の運用にあたる裁判所や法務省の役人の側からはこれを積極的に評価する意見が多く、裁判員に選ばれる側、つまり裁判には日頃あまり関わりを持たない市民の側からは厳しい意見がむしろ多いように見受けられる。
 私は元々(制度が実施が決まる以前から)この制度そのものに批判的な意見を持っていた。それは私が法曹であることを辞め、一切の法律実務から絶縁することを決意したのちも変わらずこれまでに至った。
 刑事事件の一審だけに、それも限られた重刑にあたる罪にだけ、この制度が適用されたとて、それだけで裁判所や法務省がPRするほどに、実際の裁判実務全体のあり方に民意が生かされ、日本の刑事司法が良い方向に変わっていくなどとはとても思えず、むしろ初めて事件に接する裁判員が、証拠の示す事件の生々しさや、結果の重さにいたずらに引きずられ、裁判の重刑化を招いたり、裁判記録の読みこなしに不慣れな裁判員だけに、ともすれば感情面での印象から結論が急がれたりはすまいかという心配がどうしても先立ってしまう。
 それに、遅延しがちな裁判の弊害を改めるという大義名分のもとで、手抜き裁判というほかない、いわゆる「一件上がり」式の国民軽視の審理が定着しつつある今の裁判の現実や、裁判官の下す判決と市民感覚とのずれなどの根本的な問題を是正するするには、事務総局のあり方を含めた裁判所の組織そのものと、裁判官一人一人の意識の徹底的な洗い直しこそ先決であると考えてきたからである。
 ところが、夕食を食べながら冒頭に記載した夕刊の記事を読んで大変に興味をもった。その数時間後に、今度はその裁判を報じるテレビニュースが流され、その影像を見ていて私はとても驚いた。驚いたのはニュースの中身ではなく、ニュースの中で流された、裁判員としてその裁判にかかわった一人の女性のインタビューでの発言を聞いてである。その裁判員はレポーターの質問を受けて「少しでも疑わしいなと思える被告に刑を科すことなんて一人の市民としてはとても出来ませんもの」といった趣旨のことを、いかにも淡々と答えているではないか。
 私はこれまでの裁判員性度に対する自分の考え方が少し偏見に傾いていたのではないかと真剣に反省した。
 「疑わしきは罰せず」、これは近代の刑事裁判の鉄則である。刑事訴訟法の書籍をひもとけば、そこでまず説かれているのが刑事裁判のこの大原則なのである。これは神のみぞ知る事件の真相を、神ならぬ人間が、神を差し置いてその白黒を判断するという、人類の不遜な思い上がりに、人類が自らのぎりぎりの叡智を搾って生みだし、自らに厳しく課した永久不犯の戒めの鉄則なのである。
 ところが、誰でもが知っているはずの刑事裁判のこの鉄則を、一番軽視し、忘れてしまっているのが他ならぬ法の砦であるべき裁判所であり、裁判官という法律の職人なのである。
 私は、何も事件を無罪にするのが良いなどと言っているのではない。刑事訴訟の一番大切な基本理念が実際の裁判の場でどこまで貫かれているのかという問題なのである。
 今もあるのかどうかは知らない。少なくとも私が裁判官に任官した当時は新任研鑽制度というものがあって、裁判官に任官し、初任地に赴任してしばらく経つと、研鑽のため東京地裁の各部へ配属され、その部の裁判長の下で左陪席として指導を受けるのである。制度の是非はしばらく置いて、私が今も忘れることの出来ないのは、研鑽で配属された部の裁判長が、まず私を諭して語った言葉である。正確な表現や言い回しは忘れたが、その裁判長は概ね次のような趣旨を私に話したのである。
 まだ不慣れな裁判官は法廷で検事が提出する証拠をいたずらに杓子定規に評価して結論を急ぎすぎる。刑事裁判で重要なのは、証拠の上面に現れていないその裏を読み取る力量である。とまあ、このような趣旨のことを私に諭したのである。
 受取ようによっては、たとえ有罪に結びつく証拠が揃っていても、その一つ一つを厳しく吟味していけば疑問の出てくる余地もあるので、それを鋭く見抜く力量が必要であるという趣旨にも取れる。それならばまさに卓見であろう。
 ところが、私がその裁判長から諭された話の中身の前後の流れと繋ぎ合わせてその下りを理解すると、その意味するところは逆だったのである。つまり、個々の裁判では検察側の証拠が有罪にするにはやや弱いと思える場合もあるが、提出された証拠だけにとらわれないで、その裏を読み抜く必要があるという趣旨をその裁判長は私に諭そうとしたのである。
 回りくどい説明はよそう。端的に言えば、刑事裁判は証拠に現れない証拠、喩えて言えば鬼平半科張のドラマでよく耳にする「勘働き」のようなものが大事だというのである。手っ取り早く言えば、刑事裁判は証拠にがんじがらめに縛られず勘働きを研ぎ澄ましてするものだと、その裁判長は私を諭したのである。
 それが新任判事補の教育に一番ふさわしい裁判所として事務総局が選んだ東京地裁の裁判長の要職にあり、かつ、ある大学で刑事訴訟の講師も勤めていた一人の裁判官の言葉だったのである。訴訟法が教えるとおりに裁判を考えていた私は飛び上がらんばかりに驚いた。
 もう疾うの昔に鬼籍に入られた人であるが、名前を出すのは控えよう。というより、名前を言ってみても無意味である。なぜなら、それはその裁判官一個人の問題ではなく、それが裁判実務にあたっていた同時の上層部裁判官の多くに共通した考えだったのだから。
 疑わしきは罰せずの大原則を云々するまでもなく、そんな姿勢で裁判に臨んでいる限り、誤判は後を絶たないだろうし、裁判に対する国民の信頼を得る日は終にくることはないであろう。
 裁判所という法の砦において、もうほとんど「死に体」になりかけている刑事訴訟の基本理念が、組織の強い桎梏の外にある一市民の中には活き活きと息づいているのを私はテレビのニュースで教えられたのである。
 話を戻すが、私には報道にあった裁判員裁判の事件の中身は詳しくは分からないし、審理の後で実際にどのような評議が裁判体の内部でなされたのかも分からない。しかし、テレビのインタビューに答えていたその女性裁判員は、先に述べた言葉のあとに、「法律の専門家(である裁判官)にはまた別の考え方があるのかも知れませんが…」と言葉を濁していたのがとりわけ印象に残っている。一市民にそうまで言わせざるを得ないのが今の裁判所という組織の実態であり、裁判官の意識なのである。
  今の裁判所で、裁判官が当事者や国民に背を向け、上の方を向いた審理や判決をすることの愚を、自らの自覚と努力で改めることが出来ないとすれば、やはり裁判員制度は日本の裁判にとって必要なのかもしれない。それも一定の重刑の罪にあたる事件だけでなく全事件に、そして一審だけではなく控訴審にも、そして民事の裁判にも取り入れるべきなのかも知れない。私はつくづくそう思った。
 裁判や裁判所のあり方を国民の裁判への参加(それはとりもなおさず国民の負担と犠牲である)によらなければ、あるべき姿に導いていけないということは、見方をかえれば、これはとてつもなく悲しい現実ではないのだろうか。


妻の誕生日

2010年01月08日 | 如是日、如是時、如是想
 今日、1月8日は妻の62回目の誕生日である。
 妻が自宅で誕生日を迎えるのは何年ぶりであろうか。平成に入ってこの方、妻は頻繁に入退院を繰り返し、その年々の誕生日はほとんど病院で迎えてきた。
 その妻が、正月だけは自宅でゆっくり過ごしたいと、昨年の12月に嬉しそうに退院してきた。
 昨年の妻は2月に症状がやや好転して一度退院までこぎ着けたが、4月末に自宅の2階の階段から転げ落ち、腰椎の圧迫骨折の大怪我をした。そのことも原因して症状がまたも悪化し、以来、病院での生活が続いていた。夏頃には薬の副作用による麻痺性イレウスの症状が出て、大阪市内の一般病院へ転医した。「今度こそ駄目か」、一時はそう覚悟を決めなければならないまでの状態になった。
 幸いイレウスの症状は思ったより早く回復し、いつもの病院へ戻ってきた。しかし、イレウスの関係で抗精神病薬の投与を一時中止したことから悪性症候群を併発していて、それから約1ヶ月ほどは発熱と強い筋剛直の症状がつづいた。
 その症状がようやく治まり薬の投与が始まってからも精神状態は中々好転せず、面会してもほとんど会話らしい会話が交わせない状態がながながと続いた。
 それが12月を間近にした頃から、めざましく好転してきて、医師からもらった2泊3日の外泊も無難に過ごすことが出来た。
 本人はもうすっかり退院気分になり自分で退院の日を12月の10日と独り決めし、身の回りの品の整理をしてその日の来るのを心待ちにしていた。
 私はいささか心掛かりなところがあった。まだ安定しきらない今の時期に退院して、もはたして正月をうまく乗り切れるか。
 というのは、妻の病気は、一部の専門家が非定型精神病と呼んでいる、精神疾患の中でも特殊なタイプの病気だからである。この種の疾患は、WHOの国際疾病分類(ICD)や、アメリカ精神医学会の精神疾患の診断統計マニュアル(DSM)には独立した分類としては存在せず、強いて当てはめるとすれば、ICD?10のF23またはF25の中のいずれかに、またDSM?Ⅳ?TRでは、295.40または295.70のいずれかが、これに近いのではないかと思われる。
 しかし、妻がその急性期に示す症状は必ずしも一様ではなく、統合失調症圏に特徴的な被害妄想や感情、思考の障害ばかりでなく、むしろ鬱病に特徴的な症状(抑鬱、並びにそれに伴う貧困関連の妄想やコタール症候群)や、時として躁病圏に属すると思われる症状が多く見られ、要はその時々によって出てくる症状が様々に異なるのである。
 特徴的な点は、本人が示す病相の多様さばかりではなく、本人にしか分からない何らかの身体的、環境的要因を引き金にして急激にその症状が悪化していき、それが一定期間続くと、やがて自然にそれが寛解に向かうこと、本人は急性期に入る時点からそれが寛解するまでの記憶をほとんど残しておらず、退院が視野に入る時期まできて初めて「私なんで病院にいるの」と不思議そうに尋ねるような次第である。
 このように急性期の期間中に意識の障害がみられれることと、そして寛解後は急性期の痕跡をほとんど残さないまで回復する、つまりすっかり健康な時の状態に戻ってしまうことの2点が妻の疾患の特徴である。
 私が気がかりだといったのは、この病気は不定期の周期をもって再発を繰り返す性質があり、その周期が、妻の場合段々と短くなりつつあるからである。
 はたして何時まで良い状態が続いてくれるのか、退院を迎える毎にそれが一番心掛かりなのである。
 それでも、良い状態のまま大晦日を迎え、妻は「お節をつくる」と何年ぶりかで台所に立ち、独りで三段のお重に詰め切れないほどのお節を作った。もともと料理下手な妻なので、出来上がったお節の味は今一であったが、妻の作るお節など滅多に食べられないので、大晦日にやってきた次男夫婦も、「美味しい、おいしい」と食べてくれ、三段のお重をすっかり空にして正月の二日に奈良の自宅へ帰っていった。
 次男夫婦が去って淋しくなった精か、それとも張り詰めていた気持ちが急にゆるんだか、その夜から眠れなくなり、妻の状態はまた悪化へと向いはじめた。
 昨夜も、「明日は何の日か分かるか」と尋ねてみたが、本人からは何の反応もない。妻の意識はもう雲の中のようである。
 自宅で誕生日のお祝いをしてやる機会は滅多にないので何かしてやりたい。そう思うのだが、お祝いの品物を与えても喜ぶ妻ではない。甘い物好きの妻にとってはケーキが一番嬉しいだろうが、太りすぎの妻には禁物である。抗精神病薬は副作用が付きもので、錐体外路症状(パーキンソン症候群、その他)や悪性症候群のほか、自律神経系にも様々な良くない症状をもたらす。
 過食による肥満もその一つであり、もともと小柄でやせ形であった妻が、今では70キロ近くの肥満体になっている。衣類は3Lでないと間に合わない。この肥満は本人にとっても辛いであろうが、介護する側にとっては最も手強い。
 53キロの私が、妻の体を動かそうとしてもビクともしない。
 色々考えたが、結局、寿司でお祝いしてやることにした。寿司ならカロリーもそう高くないし、本人も好きである。いつもは蕎麦で済ます昼食に寿司を用意し、「誕生日おめでとう」と言うと、本人は初めて自分の誕生日に気づいた様子である。しかし、それほど嬉しそうでもない。
 無理もない。誕生日も62回目となれば、妻ならずとも嬉しいものではないだろう。還暦を過ぎれば誕生日など、忘れたままの方が却って幸せなのかもしれない。
 久々に自宅で迎える妻の誕生日。それを喜んだのは、結局、私だけなのだ。