うもれ木の花さく事もなかりしに~
平等院「扇の芝」
平等院の表門を入り、境内を東へ少し歩くと観音堂がある。
そのお堂の裏にそれはある。
その形から「扇の芝」と呼ばれている。
源三位頼政の自刃の地だと伝えられている。
頼政は摂津源氏の統領で、保元、平治の乱で河内源氏が凋落し
たのに引き替え、自らは勝利者側で功を立て、治承2年に清和
源氏の末として初めて従三位に除せられている。75歳の時であ
る。以来源三位と呼ばれるようになった。
その頼政が以仁王を奉じて挙兵をしたのが治承4年4月、77歳
の時である。
以仁王は後白河法皇の第3皇子で、兄の高倉天皇を嗣いで皇
位を継承すべき地位にあった。
ところが治承2年、中宮時子が言仁親王を生み、清盛はすぐに
これを立太子させ、治承3年11月自ら兵を率いて福原から京に
入り、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、翌治承4年2月、高倉天
皇を退位させ、言仁親王を即位させた。安徳天皇である。
以仁王は即位への道を断たれた上、その所領まで没収された。
翌4月、王は諸国の源氏へ平家追討の令旨を発し三井寺へ入
った。
頼政はその追討の一将を命じられたのに、これに従わず自らの
館に火を放ち、嫡子の仲綱と共に兵を率いて三井寺に入り、王
を奉じて挙兵した。
ところが期待していた叡山はこれに同調せず、三井寺の衆議も
割れた。三井寺を追われた頼政は、5月25日、王を奉じて三井
寺を出て南都興福寺へ向ったが、宇治橋の辺りで平家の追討
軍と遭遇した。頼政は橋板を落として交戦したが(橋合戦)、平
家軍は宇治川を渡り、平等院に退いてた頼政に迫った。
頼政も防戦に努めたが、衆寡敵せずして敗れ、翌26日、この
地で切腹し自害を遂げた。
平家物語に、次のように書かれている。
「三位の入道 … 西に向かいて手を合わせ、高聲に十念唱へ
給ひて、最後の詞ぞあはれなる、
うもれ木の花さく事もなかりしに
身のなるはてぞ悲しかりける
これを最後の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯しざまに
貫かつぞ失せられける」
(巻四、十一「宮の御最後の事」)
頼政が以仁王を奉じて挙兵した理由は諸説あって定まらない。
摂津源氏の統領として多くの郎党、眷属をかかえ、平家専横の
世をひたすら隠忍自重し、処世に心をくだき、清盛からも信任を
得ていた頼政であるが、治承3年に出家して仏門に入り、嫡男
の仲綱にその代を譲っている。
その頼政が、以仁王を戴いて挙兵したのは、とても思いついて
事とは思えない。
平家の驕りに耐え忍んで生きてきた、その長い人生で、忘れる
ことなくずっと心の奥で暖めてきた「いつかは」という、源氏の
頭領としての強い意地と覚悟が有っての事ではなかろうか。
頼政は、かつて三井寺の歌合わせの席で次のような歌を詠んで
いる。
月清みしのぶる道ぞしのばれぬ
世に隠れてとなに思ひけむ
(頼政集)
平等院は源融が営んだ別荘を後に藤原道長が取得して自らの
別荘「宇治殿」とし、その子の頼通がこれを寺にしたものである。
国宝の鳳凰堂(阿弥陀堂)の中堂には定朝の手になる国宝の
阿弥陀仏が鎮座し、同じく国宝の雲中供養菩薩がその廻りを飛
翔する。
鳳凰堂は建物全体が国宝であると共に、その一部である天蓋、
壁扉画、屋根の鳳凰なども別個に国宝の指定を受けている。
頼政の墓所は最勝院の境内にある。
命日には今も法要が営まれるという。
ちなみに、以仁王はわずかな兵に護られて平等院を出て南都へ
と向かったが、間もなく平家軍の手で討たれている。木津川市内
の高倉神社の境内に王の墓と伝えられる陵墓がある。
平等院には見落としてはならないものが他にもある。
国宝の梵鐘である。
「音の三井寺」「銘の神護寺」と並ぶ「姿、形の平等院」と言わ
れる三名鐘の一つである。鐘の周囲に天人、唐獅子、唐草模
様などの装飾模様が鋳出されている。
写真のものはレプリカで本物は鳳翔館に置かれている。
高さ199㎝、口径123㎝、重さ2500㎏。
(ちなみに三井の鐘は、高さ208㎝、口径124.8㎝、
重さ2250㎏)
鳳翔館には梵鐘のほか鳳凰堂の52体の雲中供養菩薩像のうち
の26体を保存展示している。