忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

瓶原(みかのはら)(4)

2012年10月16日 | 歴史を歩く

   みかの原の秋、点景

瓶原へは、JR大和路線の加茂駅から歩く。
駅前周辺には古い町並みがあり、かつての賑わいは偲ばれるが、
今は人の姿はまばらである。
恭仁大橋を北に渡ると、そこはもう純然たる農村の風景である。

    

 今は稔りの秋、

    
     
そして、稲の取り入れの季節である。

     

土地が泉川に向かい緩やかに傾斜しているため、棚田状に田は
隣り合う田と少しづつ段差ができる。

   

稲の収穫はここでもコンバインにに頼る。
人手がないのである。
稲藁は稲架がけせず、そのまま切り刻まれ、籾殻と共に田にまかれる。

   

撒かれた稲わらは乾燥を待って野焼し、収穫の余慶は田に戻される。
都市の周辺の農村では、もうほとんど見ることがてきなくなった
野焼の風景が、ここにはまだ残っている。
   
   

人も家もまばらで、

   

都会の雑踏は、ここには無縁である。
集落の裏には、

   
   
豊かな里山が広がる。

瓶原は、かつて、そこが奈良の都であった、と教えられても、
なお信じがたいほど緑なす自然の中である。


瓶原(みかのはら)(3)

2012年10月15日 | 歴史を歩く

   聖武の祈り~海住山寺

瓶原の北詰まり、三上山の山懐に抱かれるようにして、
その寺は建っている。
恭仁京跡から坂道を上ること、かなりの道のりである。
上るにほどにその勾配は険しくなる。

   

聖武天皇の発願により建てられたと伝えられる。
恭仁京遷都に先立つことと6年、天平7年(735)のことである。
伝によると、聖武天皇が大毘盧遮那仏(大仏)の完成を祈願するため、
この寺を建立したという。
しかし、聖武が大仏建立を発願するのは、もう少し時代が下る。

山門を入ると、境内の正面に木々に囲まれて本堂が建っている。
 
   

国宝の五重塔は鎌倉初期のもので、小ぶりだが一層目の屋根に
裳階が付き、中心部に心柱のない珍しい構造の塔なのだそうだ。

       

境内は人の姿もまばらで、山の霊気につつまれ、ただ静かである。

   

その静かな境内の一画にひっそりと建つ文殊堂、

   

そして本坊。

   

聖武は何を祈願して、この山中に寺を建てたのか。

専制の世紀に花開いた天平の御世、そこで万機を許される唯一人、
万乗の位に身を置きながら、人の世の誰もがそうであるように、
天皇聖武もまた、心の苦患(くげん)から自由ではなかった。

政治の中枢にある臣が互いに権力への欲を相争う政治の乱れに、
頼りに足る臣もなく、律令の理想も遠のくばかりで、
なす術も知らず、ただ虚しく玉座に身をさらす、その苦しみは、
心を病んだ母の宮子が、三宝に縋ることで軽癒を得たように、
自らも、また、三宝の奴となって、
ひたすら仏の加護にすがるほか、
逃れる途はなかったのではなかろうか。

 今、参道の高みから見下ろす瓶原は、

    
   
秋の稔りを讃えるのみで、
1300年の昔を何一つ語ろうとしない。

      


瓶原(みかのはら)(2)

2012年10月14日 | 歴史を歩く

   みかの原わきて流るる泉川

    みかの原わきてながるるいずみ川
              いつ見きとてか恋しかるらん
                              -中納言兼輔-
                             (新古今集巻十一、恋歌一)

鈴鹿山系から流れ落ちる水を集め、伊賀盆地を西へ流れ下ってきた
木津川は、ここ南山城の瓶原の地に入ると泉川と呼ばれる。
和歌に多く詠まれた歴史の川である。

     

 「みかの原わきてながるる…」
と、上記和歌に詠まれたように、泉川は瓶原の地を南北に二分
するようにして、東から西へと流れる。
 「わきてながるる…」、は土地を分けるようにして流れる、
の意であるが、そこには「水が湧いて流れるように清んだ川」
の意も重なる。
今もなお泉川の水は清んできれいである。

    

今の地図に瓶原の地名はなく、現在の地理でいえば、
木津川市加茂町の、四囲を山でかこまれ、
その中心部を、かつて泉川と呼ばれた木津川が流れ、
恭仁大橋が、その南北の地を結んでいる地域をさす。

    

四季をとおして水面に山影が映え、詩情を誘う。
和歌に多く詠まれる所以である。

    

秋のこの季節、川岸には野焼きの煙がたなびく。

        

とりわけ、たそがれの一時は、立ち去るのが惜しいほど川は静かで美しい。

    


瓶原(みかのはら)(1)

2012年10月13日 | 歴史を歩く

   うたかたの都~恭仁京

    今つくる久邇の都は山河の
     さやけき見ればうべ知らすべし
             -大伴家持-
                 (万葉集巻16-1037)

  

大伴家持がそう詠んだ久邇の都は、聖武天皇が、天平12年末から
造営に取りかかった大養徳恭仁大宮(おおやまとくにおおおみや)で、
恭仁京と呼ばれる、かつての奈良の都である。

  

光明立后を巡っての長屋王と藤原氏一族の確執と、王の自刃、
貴賤老若の命を次々と奪い、容易に終息をみない天然痘の
猛威、そして筑紫で起きた藤原広嗣の反乱と、うち続く政治、
社会の混乱に心を痛めた聖武は、広嗣の乱の最中に平城の
都を逃れ、伊勢、美濃、近江を転々と彷徨ったあげく、祖母の
元明天皇が、かつて離宮を営んだ瓶原(みかのはら)を新都の
地と思い定め、大養徳恭仁大宮(おおやまとくにおおみや)の
造営に取りかかった。

  

新都の地となった瓶原(みかのはら)は、
大伴家持が
  …山川のさやけき見れば…
と詠んだごとく、
四囲を山にかこまれ、緑豊かな小盆地の中を水清き泉川が
流れる風光の地で、疲れた心を癒すにはこの上ない土地では
あるものの、土地はあまりにも狭隘で、諸国往還の幹路から
も遠い山間の僻地で、政治には至って不向きな地であった。

    

不比等の没後、政治の柱となるはずてあった不比等の4人の男子が、
天然痘でことごく命を失い、代わって台頭した橘諸兄が、政治の実権
をにぎる中、新都の造立は急かれたが、その事業が未だ完成をみない
間に、聖武は信楽の宮での大仏造立の夢に心を奪われ、
恭仁大宮の建設は中断された。

不比等の第3世代である藤原南家の仲麻呂と諸兄とが政治の実権を
巡って相争う中で、聖武は、またしても信楽の宮の造営を中途であきらめ、
天平16年2月、難波宮へと遷都した。
しかし、聖武はそこにも落ち着くことをせず、翌天平17年の5月、
恭仁大宮に戻ることなく、棄てたはずの平城京へと還都している。

かくて、恭仁大宮はその計画通りの完成をみることもなく、
足かけ5年、実質3年余という、うたかたの都、としてその歴史の幕を閉じた。
  
平城京から移築された恭仁大宮の大極殿は、そのまま山城国分寺の
金堂として使用され、毀たれた恭仁大宮の礎石に七重塔が建てられ
たが、それとて今は姿なく、跡に残るはただ幾つかの礎石のみである。      

  

長く鬱に伏せた母の宮子(藤原不比等長女)の血を受け、
子の聖武もまた心を病む、人の世の苦の旅人であった。


  山高く川の瀬清し百代まで
         神しみ行かん大宮どころ
                           -田邊福麿-
        (田邊福麿歌集、万葉集巻6-1052)

と歌に詠まれ、
苛税と民の苦役で造立された、百代の都たるべきはずの恭仁大宮が、
かくも短く、その使命を終え、うち毀たれる政治の恣な営みを、
その造営ため苦役に駆りたてられた多くの民はどう受けとめたであろうか。

    三香の原久邇の京は荒れにけり
          大宮人の移ろいぬれば
                    -田邊福麿-
           (田邊福麿歌集、万葉集巻6-1060)

自らを「三宝(仏教)の奴」と称した聖武が、衆生済度の心もどこへやら、
次々と思いつきの土木工事に民を使役し、その民の汗と涙で造営された
恭仁大宮は、うたかたと消え、今はわずかにその礎石に在りし昔の姿を
偲ぶほかない。

   

草のむしろと化した恭仁大宮の廃墟に、今たたずんで思うのは、
-政治の要に人を得ないとき、その国は傾く-、
の箴言の重さである。

聖武の退位後、政治はさらに乱れ、その没後30年を経ずして
平城の都はその歴史の幕を閉じた。


北信飯山~正受庵

2012年08月15日 | 歴史を歩く

    北信飯山~正受庵

江戸の至道庵、犬山の輝東庵と並び天下の三庵と呼ばれ、臨済
禅の聖地と崇められた庵が北信飯山の里はずれにある。
江戸時代の禅僧、道鏡慧端が娶らず、貪らず、三衣一鉢、晴耕雨
禅の求禅の生活を送った禅庵である。
慧端は松代城主真田信之が側室に産ませた子で、飯山城主に
預けられて育った。長じて城主に随伴して出府した際、江戸の至
道庵の門を叩いた。
至道無難は大応、大塔、寒山の流を汲む愚堂東寔の嗣法で、破
庵に住し、乞食一飯を糧とし、莚に臥し菰を衾とする純禅の生涯
を送った希な禅僧である。
慧端は至道庵に参禅し、無難から印可を受けたが、江戸に留ま
ることをせず、郷里の飯山に戻って小庵に住し、栄耀を遠ざけ名
利をすて、自ら耕し足らざれば乞食をする一雲水の生涯を送った。
自ら正受と称し、世間から正受老人と敬愛された。

山門の石踏の坂は俗に「白隠蹴落としの坂」と呼ばれている。
白隠慧鶴(臨済宗再興の祖といわれる江戸時代の禅僧)は正受
老人を師と崇めた。

石柱のみの山門を入り、参道の石踏坂を上がると、
右手に茶室と鐘楼がある。

 

そして左手には茅葺きの粗末な小庵が建つ。
これが本堂、つまり正受庵である。
寺の多い飯山でも目立って粗庵である。
本堂は弘化4年の善光寺地震で倒壊し、ほぼ忠実に復元再建さ
れ、昭和、平成にも修復の手が加えられている。

 

再三にわたる城主からの堂塔建立、寺領寄進を断り続け、
その代わりとして拝領したととされる水石が今も境内に置かれて
ある。賽銭箱には真田家の旗印6文銭の紋が印されている。

 

大名の側室の子として生れ落ち、息苦しい身分社会で周囲のそ
ねみ、ねたみに晒されながら育ったその半生を思えば、藩主から
の寄進の申出を固持し貧に徹する、その生き方は、ともすれば、
世すね、ひねくれと受け取られ兼ねないが、そんな俗な心で、こ
の雪深い飯山の破れ庵での死を枕としての乞食生活を全うする
ことはとうてい出来ない。
そこには驀直に見性と向いあう己の魂の内なるすさまじい渇きが
有っての上と理解するほかない。


正受庵はもともと施主、寺領をもたぬ禅修行のための庵であった
ため、慧端の死後は廃れていき、明治初め、一度は廃庵とされた
が、その後、妙心寺の末として再興され、堂塔も次第に整えられ
現在の姿となった。

 

本堂の裏の墓所に慧端(栽松塔)と母の李雪尼が眠る。

 

正受老人の「一日暮らし」の文は有名で、これに感銘を受けた作
家の水上勉は自らも「一日暮らし」なる書を著している(角川書
店ISBN4-04-883450-9 C0095)。
私の座右の書の一つである。

ちなみに、道鏡慧端の遺偈は下のとおりである。

       坐 死
     末 期  一 句
     死 急 難 道   
            言 無 言 言
     不 道 不 道


読み方は様々であろう。


座死するに当たっての末期の一句
死はにわかにして道(い)い難し
言無き言を言とし
道(い)わず道(い)わず


と読んでみた。

 


旅の護り神~粟田神社

2012年07月24日 | 歴史を歩く

   旅の護り神
  粟田神社

三条大橋からお江戸日本橋まで53宿124里8丁。
その旅立で最初に出くわす難所が蹴上げ。
旧東海道の祇園白川を越えたあたりから蹴上げに
かけての地が粟田口と呼ばれる。
一の鳥居は三条通から少し北に入った所にあり、
気を付けていないと見過ごしてしまう。

 


両側に民家が建ち並ぶ石畳の参道を一丁ほど歩くき、
旧東海道を渡ると二の鳥居がある。

 

鳥居の奥に上へ、上へと延びる長い参道がある。

 


華頂山の北麓の高台に本殿と拝殿がある。

 

この神社、建速素戔嗚尊、大己貴命などを祀る厄除け、病除け
の神社だが、かつては粟田郷一帯の地主神で、古くはこの地
に勢力を張った粟田氏の氏神でもあった。
由緒のある神社である。

東海道線も新幹線もなかったその昔、京から東へ旅立つ
旅人は、必ずここで道中の安全を祈願した。旅の護り神と
して崇められてきた。
源義経も東国へ旅立つにあたってこの神社で旅の安全を
祈った。
境内には、他にも北向稲荷神社、出世恵比寿神社

 

大神宮、多賀社

 


吉兵衛神社、太郎兵神社


 


など縁の摂社、末社が合祀されている。

粟田口は粟田焼の発祥地でもある。
野々村仁清もここで粟田焼の技法を学び、仁和寺の門前に窯を
築いた。仁清が生み出した色絵付の技法は尾形乾山へと伝えら
れ、今も清水焼にその技法が受け継がれている。
三条通から参道を入ってすぐの右手に粟田焼発祥の碑が建っている。

                     

平安末期に刀工がこの地に工房を設け刀を打った。その技法は
粟田口派として代々受け継がれ、鎌倉期に名刀「粟田口吉光」を
産んだ。
二の鳥居を入って参道左手に鍛冶神社がある。
ちなみに、粟田神社の所在地は粟田口鍛治町である。

 

神社の境内から見下ろす京都盆地、そこは一年を通して観光客
でごっがえす京洛の巷。
それを眼下に見下ろす境内は静かである。
ここは観光バスも拝観客の列も無縁で、五山の送り火の隠れた
観光スポットでもある。

 

ここにも一つ、俗世の垢に塗れることのない昔のまんまの京が
残っている。


うもれ木の花さく事もなかりしに~平等院

2012年06月22日 | 歴史を歩く


うもれ木の花さく事もなかりしに~
    平等院「扇の芝」

平等院の表門を入り、境内を東へ少し歩くと観音堂がある。
そのお堂の裏にそれはある。
その形から「扇の芝」と呼ばれている。
源三位頼政の自刃の地だと伝えられている。

 

頼政は摂津源氏の統領で、保元、平治の乱で河内源氏が凋落し
たのに引き替え、自らは勝利者側で功を立て、治承2年に清和
源氏の末として初めて従三位に除せられている。75歳の時であ
る。以来源三位と呼ばれるようになった。
その頼政が以仁王を奉じて挙兵をしたのが治承4年4月、77歳
の時である。

以仁王は後白河法皇の第3皇子で、兄の高倉天皇を嗣いで皇
位を継承すべき地位にあった。
ところが治承2年、中宮時子が言仁親王を生み、清盛はすぐに
これを立太子させ、治承3年11月自ら兵を率いて福原から京に
入り、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉し、翌治承4年2月、高倉天
皇を退位させ、言仁親王を即位させた。安徳天皇である。
以仁王は即位への道を断たれた上、その所領まで没収された。
翌4月、王は諸国の源氏へ平家追討の令旨を発し三井寺へ入
った。
頼政はその追討の一将を命じられたのに、これに従わず自らの
館に火を放ち、嫡子の仲綱と共に兵を率いて三井寺に入り、王
を奉じて挙兵した。
ところが期待していた叡山はこれに同調せず、三井寺の衆議も
割れた。三井寺を追われた頼政は、5月25日、王を奉じて三井
寺を出て南都興福寺へ向ったが、宇治橋の辺りで平家の追討
軍と遭遇した。頼政は橋板を落として交戦したが(橋合戦)、平
家軍は宇治川を渡り、平等院に退いてた頼政に迫った。
頼政も防戦に努めたが、衆寡敵せずして敗れ、翌26日、この
地で切腹し自害を遂げた。

 

平家物語に、次のように書かれている。

「三位の入道 … 西に向かいて手を合わせ、高聲に十念唱へ
給ひて、最後の詞ぞあはれなる、

   うもれ木の花さく事もなかりしに
           身のなるはてぞ悲しかりける

これを最後の詞にて、太刀のさきを腹に突き立て、俯しざまに
貫かつぞ失せられける」
                             (巻四、十一「宮の御最後の事」)

頼政が以仁王を奉じて挙兵した理由は諸説あって定まらない。

摂津源氏の統領として多くの郎党、眷属をかかえ、平家専横の
世をひたすら隠忍自重し、処世に心をくだき、清盛からも信任を
得ていた頼政であるが、治承3年に出家して仏門に入り、嫡男
の仲綱にその代を譲っている。
その頼政が、以仁王を戴いて挙兵したのは、とても思いついて
事とは思えない。
平家の驕りに耐え忍んで生きてきた、その長い人生で、忘れる
ことなくずっと心の奥で暖めてきた「いつかは」という、源氏の
頭領としての強い意地と覚悟が有っての事ではなかろうか。
頼政は、かつて三井寺の歌合わせの席で次のような歌を詠んで
いる。

  月清みしのぶる道ぞしのばれぬ
        世に隠れてとなに思ひけむ

                    (頼政集)

平等院は源融が営んだ別荘を後に藤原道長が取得して自らの
別荘「宇治殿」とし、その子の頼通がこれを寺にしたものである。
国宝の鳳凰堂(阿弥陀堂)の中堂には定朝の手になる国宝の
阿弥陀仏が鎮座し、同じく国宝の雲中供養菩薩がその廻りを飛
翔する。
鳳凰堂は建物全体が国宝であると共に、その一部である天蓋、
壁扉画、屋根の鳳凰なども別個に国宝の指定を受けている。

      
                             

頼政の墓所は最勝院の境内にある。
命日には今も法要が営まれるという。

 

ちなみに、以仁王はわずかな兵に護られて平等院を出て南都へ
と向かったが、間もなく平家軍の手で討たれている。木津川市内
の高倉神社の境内に王の墓と伝えられる陵墓がある。

平等院には見落としてはならないものが他にもある。
国宝の梵鐘である。
「音の三井寺」「銘の神護寺」と並ぶ「姿、形の平等院」と言わ
れる三名鐘の一つである。鐘の周囲に天人、唐獅子、唐草模
様などの装飾模様が鋳出されている。
写真のものはレプリカで本物は鳳翔館に置かれている。
高さ199㎝、口径123㎝、重さ2500㎏。
(ちなみに三井の鐘は、高さ208㎝、口径124.8㎝、
重さ2250㎏)

 

鳳翔館には梵鐘のほか鳳凰堂の52体の雲中供養菩薩像のうち
の26体を保存展示している。


宇治上神社

2012年06月17日 | 歴史を歩く


                  宇治上神社

決して大きくはないが、どこか神さびて、経てきた歴史の
重みを感じさせる。
この神社はユネスコの世界遺産に登録された文化遺産で、
拝殿と神殿は国宝の指定を受けている。
醍醐天皇の延喜年間に創建されたと言われる。
さわらびの道にたたずむ朱の鳥居、その先に石橋と門がある。


 

門を入ると正面に拝殿、その前には二盛りの清め砂。
境内を清めるために撒く砂だそうだ。

 


国宝の拝殿である。
屋根は切妻造桧皮葺で縋破風(すがるはふ)という独特の手法が
用いられている。年輪年代測定法で、使われている桧の材が建保
3年(1215)頃のものと判定された。

 

拝殿の奥に本殿がある。
三つの内殿を覆屋で覆う珍しい造りで、内殿中央は父の応神
天皇、左殿(向かって右)が弟の菟道稚郎子(うじのわかいら
っこ)、右殿(向かって左)が兄の仁徳天皇を祀る。
応神天皇は弟の菟道稚郎子を可愛がり皇嗣と定めたが、父の
死後、菟道稚郎子は兄に皇位を譲ろうとした。兄の仁徳も皇位
につかず、天皇不在のまま3年が過ぎた。
菟道稚郎子は兄を皇位に即かせるべく宇治川に入水して命を
絶った。そう日本書紀が伝える。
年輪年代確定法による測定で、本殿に使用された材が康平3
年(1060)頃の桧だと判定された。

 

境内には宇治七名水の一つ桐原水の井戸と樹齢330年以上と
推定される大欅の神木がある。

 


宇治上神社からさわらびの道を少し西南に下ると宇治神社がある。


宇治神社と宇治上神社とは、かつては一つの神社で、宇治上神
社は本宮、宇治神社は若宮と呼ばれていた。
明治に入って分離された。

 

階段を上ると本殿がある。

 

宇治神社の鳥居を出ると、そこは朝霧通りで、朝霧橋が目の前にあ
る。流れているのは宇治川で、川向かいは宇治の平等院である。

 


悲劇の琴姫~小督の局

2012年04月08日 | 歴史を歩く

       悲劇の琴姫~
    小督の局

平家物語に登場する小督につていは、春を待つ嵯峨野(1)で少し触れた。
小督は「禁中一の美人、雙びなき琴の名手」(平家物語巻第六)であったという。
時の帝、高倉天皇が、寵愛していた葵の前を失い悲しみに伏せているのを見かね、中宮の徳子(後の建礼門院)が自らの侍女の小督を帝の許に差し向けた。
天皇は小督を気に入り寵愛するようになる。
しかし、徳子の父は平清盛である。
自らの娘を高倉天皇の中宮に据え、徳子の生んだ子を帝位に即かせ、その外戚として権勢を思いのままにする野望をいだく清盛にとって、天皇の愛情が小督へ注がれるのを疎ましく思うのは当然である。
かくて、小督は清盛の怒りを憚り、嵯峨野の奥へと身を隠した。
しかし、小督を恋う高倉天皇から小督を連れ戻すよう命じられた弾正大弼源仲國は、小督が隠れ住む嵯峨野をくまなく捜し廻ったあげく、大堰川のほとりで、やっと小督の弾く想夫恋の琴の音で小督の住まいを見つけ、高倉天皇の許に連れ戻した。

 

今回は、その後の小督である。
小督は櫻町中納言藤原成範の娘で、信西の孫にあたる。
信西は周知の如く保元の乱で政治の実権を握り、権勢を欲しいままにしたが、次第に反信西の動きが高まり、やがて平治の乱が起きて、信西は破れて獄門に首を晒される。
子の成範も父の罪に連座して下野へと流されたが、後に許されて中納言に昇進し、
後白河院の近臣に取り立てられる。
しかし、後白河院と清盛が次第に政治的な溝を深めていく中で、櫻町中納言の立場は、院の寵臣であるだけに、その政治的な立場は微妙であったに違いない。
小督が後宮を去って嵯峨野に身を隠したのも、父中納言の清盛への憚りがあったのかもしれない。
高倉天皇の命で局に連れ戻された小督は、やがて天皇の第二皇女範子内親王を産む。
しかし、間もなくその事が清盛の耳に入り、小督を宮中から追い、東山の清閑寺で出家させる。(源平盛衰記巻第二十五)。
皇女を産んだ小督を、清盛は自らの野望を危うくする存在に思えたのであろう。
しかし、小督を失った高倉天皇は悲しみ伏せ、やがて崩御し、その亡骸は遺言によって小督の住む清閑寺山の後清閑寺稜に葬られた。
小督が清閑寺で出家してからの消息ははっきりしない。
出家後すぐに嵯峨野の奥へ隠棲したとの説もある。
しかし、出家後の小督はそのまま清閑寺に一尼として留まり、そこで高倉天皇の菩提を弔って暮らしたのとではなかろうか。

清閑寺は京都東山区清閑寺歌の中山町にある。
清閑寺への道はいくつかあるが、清水寺の境内を抜けていくのが分かりやすい。
境内を子安の塔へと向かい、その近くに南へ抜けるゲートがある。
それを抜けると、「歌の中山」、と呼ばれている小道へと出る。
  
 

その曲がりくねった小道を歩いて行くと、やがて左手に「清閑寺稜、後清閑寺稜参道」と刻まれた石票と「清閑寺」と刻まれた二本の石標が立つ脇道がある。

 

その脇道を上っていくと、やがて目の前の視界が開け、正面に高台に清閑寺が、左手に御陵が見えてくる。

 

御陵は六条天皇の清閑寺稜と高倉天皇の後清閑寺稜で、宮内庁の職員の説明では、目の前に見えているのが高倉天皇陵、その脇の階段を上っていった奥に六条天皇の陵墓があり、上、下に同じような形の二つの陵墓が祀られているとのことである。
下の高倉天皇の陵墓の脇に小督の墓があると伝えられる、残念ながら中へ入ることは許されないので確認のしようがない。
御陵の向かいに清閑寺への石段がある。

 

現在の清閑寺は高台に立つこじんまりとした寺院である。
観光寺院ではないので拝観客の姿も少ない。

 

境内には小督の供養塔が立っている。
谷を隔てたすぐ向かいは阿弥陀ヶ峰、

 

そして境内にある要石から東の谷間に広がる京都の市街が遠望できる。

   

高倉天皇が崩御し、それを追うように清盛も死ぬ。
そして、そのわずか2年後の寿永2年(1183に、東国から攻め上る源氏の大軍に追われ、平氏一門は自らの館に火を放ち、一門こぞって西国へと都落ちをしていく。
その後の平家は、一の谷、屋島、太宰府と、西海を流浪するが、寿永4年(1185)に壇ノ浦の戦いに敗れ、一門ことごとく滅び去る。

黄泉にあって、清盛は、自らの孫の安徳天皇が娘(建礼門院)と妻(二位の尼)に抱かれ壇ノ浦の早鞆瀬戸に身を沈める、一門の栄華の結末をどんな思いで見たであろうか。
片や、墨染めの身の小督は、こうした浮き世の流転の有様を、清閑寺にあって黄泉の清盛とは、また別の思いで見守っていたに違いない。

清閑寺の目の前に聳える阿弥陀ヶ峰は、古代には鳥辺山と呼ばれ、山の東裾野の一帯は鳥辺野と呼ばれる葬送の地であった。
清閑寺の要石の東に見下ろす市街は、他ならぬかつての鳥辺野、そして今や平氏一門の館が甍をならべる治外法権の地、六波羅なのである。
小督が、清盛に追われ、髪を切らされたその頃は、その六波羅の奢りの絶頂期であった。
清閑寺の小督は恐らくは悲しみと諦めの心でその栄華の甍の群れを見下ろしていたに違いない。
しかし、そのわずか7年後、栄華を極めた平家一族が、自ら放った火によって、その館という館がことごとく紅蓮の炎に包まれる光景を、小督はどのような思いで見下ろしたことであろうか。

小督が産んだ高倉天皇との子、範子内親王は、猫間中納言藤原光隆の七条坊門の邸で育てられ、治承2年(1177年)、2歳で斎宮に選ばれて斎院御所(紫野院)に入る。
皇女にとって、斎宮は聞こえの良い島送りである。
しかし、高倉天皇の崩御により斎宮を辞し、その後平氏が滅亡した政治の流れの大きな変化に伴い19歳の時に准三后の宣下を、さらに22歳のとき、土御門天皇の即位に伴い、その准母として准母立后でその皇后となる。
そして30歳で院号の宣下を受けている。世に坊門院と喚ばれるのがその人である。

不運の生を授かった我が娘が、その後の政治の大きなうねりの中で、准母から准母立后へと、思いもしない幸運に恵まれる運命の数奇を、しっかりと自分の目で確かめ、安堵の思いをその胸に小督は再び嵯峨野へと帰って行ったのではなかろうか。
明日は嵯峨野へ、というその夜に、焼け落ちて廃墟となりはてた六波羅の地を見下ろしながら小督がひく琴糸は、さぞかし諸行無常の音を奏でたであろう。

 


吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~小町ゆかりの寺(2)

2012年03月31日 | 歴史を歩く

吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~
    小町ゆかりの寺(2)
              補陀洛寺

京都には小町ゆかりの寺がもう一つある。
京都市上京区静市市原町にある補陀洛寺である。
正確には如意山補陀洛寺。
天台宗延暦寺派の寺で、小町寺の通称で知られている。
叡山電鉄鞍馬線を市原駅で下車し、鞍馬街道を南へ。
しばらく歩くとやがて篠原の切り通しと呼ばれる緩やかな上り坂に差しかかる。
その坂を登り切った左手に「こまちでら」と刻まれた大きな石版が設置されている。
石垣に囲まれた急な階段を上り詰めると、そこに本堂がある。

 

平成に入って再建されたこじんまりとしたお堂である。
本尊は阿弥陀三尊で、その右脇に小町老衰像が祭られている。

  

補陀洛寺は天慶8年(945)に清原深養父の邸宅を寺にしたもので、天台座主延昌僧正が開山だと伝えられている。もともとは静原の江文峠のあたり(一説には薬王坂とも)にあったが火災で焼失し、長らく廃寺となっていたのを、鎌倉時代になってこの地に再興したといわれる。
この地域はかつて小野氏の所領があったところで、小町の父だとされている出羽郡司小野良真の邸宅もこの地にあったと言われる。
階段の下に設置されている京都謡曲史跡保存会の案内板によると、
「遠く陸奥路まで漂泊の身を運んだ一世の美人小野小町も、年老いて容色も衰えた身を、ここ市原野に、昔、父が住んでいたなつかしさから、荒れ果てた生家を訪れ、そこで朽木の倒れるように、あえなくなるが、弔う人とてもなく、風雨に晒される小町の髑髏から生い育った一本の芒(すすき)が風にふるえていた。この伝説に因んで穴目のススキ、老衰した小町像や、少将の通魂塚がつくられている」
と記されている。
言い伝えにによると、小町は天慶8年(900)に、

   吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ
           痩せたる犬の腹肥やせ

の辞世の歌を残してこの地で亡くなり、その遺骸は本人の望みどおり野に晒らされたという。
後年、恵心僧都源信がこの地を訪れたとき、「目が痛い」という声がしたので見ると、野晒しになった一体の遺骸の眼窩を貫くようにススキが生い出ていたので、これを拭き取り供養したとか。
この穴目のススキの話は謡曲の題材ともなっているが、果たして史実なのか、それとも後年の創作にかかるものかは確かめようがない。
恵心僧都源信は比叡山中興の祖といわれる慈慧大師良源(元三大師)に師事し、比叡山の横川で修行した僧で、平安中期に往生要集を著し浄土教隆盛の礎を築いた人である。
今も横川中堂の近くに恵心堂がある。
境内には小町の供養塔(写真下左)と深草少将の供養塔(写真下右)がある。

 

境内には珍しい一株13本からなる檜の大樹があり、その脇には小野皇太后供養塔などもある。

 

境内奥の墓地には立派な仏舎利塔が建立されている。
良く整備された墓地を抜け、その奥へとさらに一歩分け入ると、鬱蒼とした林の中の空地の片隅に古い卒塔婆であろうか、風化して元の形を留めない無数の石塔が積まれていた。

 

古代はこの辺り一帯が風葬の地であったと言われ、その古びた石塔を眺めていると、辺り一面に累々と遺骸が転がっていたその頃の情景が目に浮かんでくる。
恵心僧都源信の話もまんざら後世の作り事とばかりは決め付けられない。
小町が詠んだといわれる上記の歌は、今の人の感覚では、とてつもなく自虐的な歌のように勘違いしてしまいがちだが、小町が生きた時代は、人が死ねばその遺骸は野に晒され風葬に処せられるのがむしろ普通で、墳墓を築いたり塚を設けたりするのは皇族や極く一部の貴族に限られていたのである。
小町が生きた時代はそんな時代だったのである。
それを頭に置いて読めば小町が詠んだこの歌の心は、
「思わぬ幸運で後宮に名を連ね、身の程過ぎた人生を送ったけれど、死後はあたり前の一人の女に戻ってこの地の土となりたい」
といった程の意味なのである。
人のうらやむ美貌に恵まれたが故に、老いの苦しみも人一倍であったに違いない。
小町ゆかりの寺(1)で小町らしい歌だと書いたのはその趣旨である。