忍山 諦の

写真で綴る趣味のブログ

吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~小町ゆかりの寺(1)

2012年03月28日 | 歴史を歩く

吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~
    小町ゆかりの寺(1)
               随心院

  花の色は移りにけりないたづらに
       我が身世にふるながめせし間に

小倉百人一首に載る小野小町の歌である。
小野小町は古今集六歌仙の一人として計十八首が、全勅撰集では総計六十七首の歌を残している平安初期の歌人である。
クレオパトラ、楊貴妃と共に世界三美人の一人にも数えられ、謡曲、歌舞伎、その他いろんなジャンルの芸能の世界で取り上げられる女性だが、これだけ謎につつまれた女性も珍しい。
謎、つまり、いたことはいたらしいのだが、いつの頃、どのような素性で、何処に生まれ、どんな人生を送り、何処でいつ亡くなったのか、となるとこれを裏付ける確かな資料がほとんどない。
つまり、何も分からないのである。
わずかに残る資料や伝の類から、小町は小野篁の子の出羽郡司小野良真の娘として出羽で生まれ、長じて宮中の五節の舞姫に選ばれて参内し、仁明天皇の目にとまって後宮に迎えられ、更衣(嬪)としてに仕えたという説が強い。異説もある。
小町の歌として「小野小町集」には100首を越える歌が残されているが、そのすべてが小町の歌といえるかは疑わしいようだ。小町の歌として確かなのは古今集の十八首のみとする説すらある。
調べれば調べるほど分からないことばかりなのである。

   吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ
           痩せたる犬の腹肥やせ

これも小町が晩年に詠んだ辞世の歌と伝えられる。
真偽の程は分からないが、ある意味では小町にふさわしい歌かも知れない。
古今集にある歌からすると、小町は後宮て数多の侍女にかしづかれ十二単を纏い、取り澄まして歌を詠む賢しらな自分の何処かに、冷たく醒めた目でそれを見放すもう一人の別の自分がいる。
そんな人だったような気がするからである。
その小町ゆかりの寺として先ず挙げられるのが随心院である。
京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山である。
このあたり一帯は小野氏が栄えた地だと言われる。
寺伝によると後宮を退いた小町はこの寺でひっそりと余生を過ごしたとされている。
深草少将の百夜通いの物語もこの地を舞台にしている。
総門を入ると参道右手に小野梅園が広がる。

 

梅園は今梅祭りが開催されている。

 
 

梅祭りの時期、随心院では「はねず踊」という珍しい踊りが催される。
深草少将の百世通いを題材にした伝統芸能で、「はねず」は小野梅園の遅咲きの紅梅の色からきている。
梅園の南の一角に「化粧(けはい)の井戸」がある。
小町は、朝夕、この井戸水に自らの姿を写して化粧をしたのだとか。
この井戸の辺りに小町の住家があったと説明板には書かれている。

 

また本堂の裏手(東)の林の中には小町の文塚がある。
小町によせられた千束もの文を埋めたとか。
文塚と少し離れたところに小町に仕えた侍女のかわいらしい供養塔がある。

 

庫裡の玄関脇に

 花の色は移りにけりないたづらに~

の冒頭の歌を刻んだ歌碑が立っている。

                   

庫裡を入ると奥書院、能之間、表書院、は本堂と回廊伝いに巡ることが出来る。

 
 

伽藍は外からの見かけより広く、気をつけて歩かないと伽藍を巡っているうちに出口を見失いかねない。
表書院は薬医門を入った正面に位置している。
中を巡っていると気づかないが、拝観入り口の庫裏と大玄関は庭つづきで隣り合っているのである。
薬医門と大玄関は拝観用の入口としては使われていない。
         
         

随心院には小町の墓はなく、ここで亡くなったことを裏付ける資料もない。
はたして小町は何処で、どのように亡くなったのであろうか。


氷室の池の寺~勧修寺

2012年03月18日 | 歴史を歩く

      氷室の池の寺~
    京都山科勧修寺

その昔、「氷室の池」に張る氷を宮中に献上し、その厚さによってその歳の五穀の豊凶を占ったとか。
京都市営地下鉄東西線の小野駅から西へ、山科川を越えてさらに一丁ほど歩いた所にその寺はある。
西には東山の裏峰を、東には醍醐の山を望む風雅の地である。
白壁の築地塀の長い参道を歩き詰めたその先に寺の山門がある。
春は桜のアーチとなる。
 
勧修寺、正確には亀甲山勧修寺。真言宗山科派の総本山である。
醍醐天皇の発願によって母の藤原胤子の菩提を弔うため母の生家である宇治郡の大領、宮道弥益(みやじいやます)の邸宅を寺にしたものといわれる。
代々法親王が入寺する宮門跡寺院として栄えた。
宮道弥益の娘列子と藤原高藤とが結ばれた縁については今昔物語に説話が残されている。
原文はかなり長文なので、これを分かりやすく要約すると次のようなことになる。

…藤原冬継(北家、藤原宗家)の子の良門に高藤という息子がいて、幼い頃から鷹狩を好んだ。高藤が15、6歳になった9月のある日、南山階へ鷹狩に出た。夕刻になって空がにわかに暗くなって雷鳴がとどろき強い吹き降りに見舞われた。供の者はそれぞれに雨宿り先を求めて散っていった。高藤は馬飼いの供一人を連れ檜垣を巡らし唐門のある家の軒下に雨宿りした。すると青鈍の狩衣に袴をつけた齢40過ぎと思われる男が出てきて
「どうぞ家の中でお休み下さい、濡れた衣も乾かしてさし上げましょう」
と招じ入れた。好意に甘えて座敷にあがり、やれやれと寛いでいると、歳の頃13、4と思われる見目麗しい女が現れて酒食の世話をしてくれた。高藤はその女に心惹かれ、一夜を共にして女と深い契りを結び、将来を堅く約束して太刀を形見に残して帰った。その後も高藤は女に会いたかったが、道案内をしてくれた供の者が暇を請うて田舎へ帰ってしまったので、女を訪ねることが出来ないままに年月が経ってしまった。何年かしてまた案内をしてくれた馬飼の男が田舎から戻ったので久方ぶりに女の許を訪ねた。すると、女は見違えるほど大人びて美しくなっていて、傍らに5、6歳の女の子がいた。女の父の弥益の話によると子は去る年に高藤が女と契った夜に妊った我が子と知り、母子共々我が家に呼び寄せ、他の女には目もくれずその女を妻として慈しんだ。その女(列子)の産んだ子(胤子)が長じて宇多天皇の女御として入内し、産んだ皇子が後の醍醐天皇である。
列子は高藤との間に次々と男の子二人を産み、それぞれに出世し、高藤も内大臣にまで昇進した云々…
           (巻二十二の第七「高藤の内大臣の語」の段)

賤の親の娘が藤原宗家に連なる係累の御曹司に娶られ、その子が入内し皇子を生み、やがて國母となる。
今昔物語の結びではないが、「…此くめでたき事も有るは、此れ皆前生の契りなり…」である。
今の世に言うシンデレラ物語である。
中門を入ると、境内の右手奥に宸殿、書院、五大堂、本堂が並ぶ。
宸殿、書院はは明正天皇の旧殿を下賜されたものとか。
本堂は霊元天皇の仮内侍所を下賜されたものといわれ、本尊は千手観音菩薩である。
庭には親、子、孫の三代の梅の木(臥龍の老梅)があり、今は孫の梅のみが開花する。
その南に樹齢750年という偃柏槙(はいびゃくしん)が茂り、その樹の茂みに抱かれるようにして勧修寺灯籠が立っている。水戸光圀が寄進したものという。
 
 
        
庭は勧修寺氷池園という池水回遊式の庭園になっていて、氷室の池の畔には観音堂が立っている。
梅、杜若、睡蓮、紅葉など季節季節の風情を鑑賞できる。
 
どこにレンズを向けても絵になる寺である。


暗きより暗き道へと入りぬべき~和泉式部

2012年03月10日 | 歴史を歩く

暗きより暗き道へと入りぬべき~
     和泉式部

 黒髪のみだれもしらずうちふせば
            まずかきやりし人ぞ恋しき
   物おもへば沢の蛍も我が身より
            あくがれいずる魂かとぞみる
 あらざらんこの世のほかの思ひでに
            今ひとたびの会うこともがな

いずれも後拾遺和歌集に選ばれた和泉式部の歌である。
先日、書寫山圓教寺を訪れた際、先ず迎えてくれたのが、この和泉式部と圓教寺との縁を書いた絵巻のパネルであった。
和泉式部-、大江雅致と平保衡の娘の子として生まれ、昌子内親王の女童とて内親王の廷内で育ち、長じて橘道貞に嫁す。道貞と共に任国の和泉の國に下るが、帰京後は不仲となり、冷泉天皇の第三皇子為尊親王と親しくなってその廷に召される。ところが親王が早世し、その後は親王の同母弟の敦道親王と親しくなって世間を騒がせる。親王との間に一子をもうけるが、寛弘四年(1007)に親王が亡くなり、一条天皇の中宮彰子の女房として出仕しする。長和二年(1013)、道長の家司の藤原安昌に嫁し、夫の任国である丹後へと下るが、帰京後は安昌ともうまくいかなくなって離別したようだが、そのあたりの事情は分からない。
親しくした男性は他にも多数あったらしい。
奔放な恋に生きた女流歌人である。

   暗きより暗き道へと入りぬべき
         はるかに照らせ山のはの月 

書寫山圓教寺の奥の院にある和泉式部歌塚の説明板によると、
この歌は、和泉式部が性空上人に教えを乞うべく圓教寺を訪ねた折り、
上人に居留守を使われ、その無念さを歌に詠んだもので、
この歌に感銘した上人は、
  日は入りて月まだ出ぬたそがれに
         掲げて照らす法の灯
と返歌した
と説明されている。
       
和泉式部の寺として知られる京都市中京区新京極の誠心院所蔵の和泉式部絵巻によると、
「宮廷歌人として名を馳せた和泉式部は、晩年、世の無常と来世への不安から、
女官2人を伴い性空上人に会うために書写山圓教寺を訪ねたが、門が閉ざされて入れて貰えなかった。
そこで
  暗きより暗き道へと入りぬべき…
の歌を詠んで開門を請うた。
歌に感じ入った上人は門を開けて和泉式部と対面した。
女人の身で西方浄土へと往生する道はないでしょうかと問う和泉式部に対し上人は、石清水八幡宮の八幡大菩薩は阿弥陀如来の化身だからこの神様を祈れば良いと教える。教に従い和泉式部は石清水八幡宮で七日七夜のお籠もりをする。すると夢の中に八幡大菩薩が現れ、私は神の道に入って久しいので仏の道は忘れた。京都の誓願寺の阿弥陀如来は一切衆生を極楽へ導いてくれるからこの寺でお祈りしなさいと告げた。お告に従い和泉式部が誓願寺で四十八日のお籠もりをしていると、夢に尼僧が現れ、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば女人でも極楽往生できると告げた。これを信じてた和泉式部は出家し、誠心院専意法尼と名を改め、日夜、南無阿弥陀仏のお唱えを怠らなかった云々…」
となっている。

書寫山圓教寺での性空上人と和泉式部との対面はほんとうにあったのだろうか。
歌塚の説明板に書かれている「暗きより暗き道へと入りぬべき…」の歌は、和泉式部の作としては拾遺和歌集に載せられている唯一のもので、和泉式部の歌が多く世に出るのは後拾遺和歌集から後である。
拾遺和歌集が1006年頃に成立したとされていることからすると、この歌は和泉式部が恋に浮き身をやつしていた、まだうら若い年頃に詠んだ一首、ということになる(和泉式部の生年は974~978年とされている)。
歌の題には「性空上人のもとに、よみてつかわしける」とある。
ある言い伝えでは和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは、敦道親王が没した後の1008~1011年頃のことで、性空上人はこれより先の1007年に寂している。

誠心院の和泉式部絵巻に出てくる誓願寺は京都市中京区新京極通三条下ルにある西山浄土宗深草派の総本山である。
 
誠心院は誓願時の東約100メートルの新京極通六角下ルにある。
 
出家した和泉式部は藤原道長より法成寺の東北門院の傍らにお堂を授かり、これが誠心院の始まりとされており、現在の地に移転したのは天正年間、秀吉の命による。
現在は新京極通に面するこじんまりとした寺であるが、これは明治四年に境内を切り取るようにして新京極通りが開設され、境内のほとんどが失われたことによる。
新京極通は廃仏毀釈の時代の遺産である。
それ以前の誠心院は寺町通に面するかなり立派な寺院であったようだ。
今は真言宗泉涌寺派の末に連なる。
お堂の前には和泉式部の歌碑があり、その傍らで紅白の梅の蕾がふくらみ始めていた。
お堂の横の墓地の一角に和泉式部の墓とも称される宝篋院塔があり、現在は総門とは別に新京極から塔へと入る門が設けられている。
                            
和泉式部がこの寺の住職となったのは、かなりの齢を得てからと考えられる。
拾遺和歌集に載せられた歌の「暗きより暗き道へと入りぬべき…」の上三句は、法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」の「従冥入於冥」や無量壽経巻下の三毒五悪段の「悪人行悪、従苦入苦、従冥入冥」の「従冥入冥」から来ていることは疑いない。
「冥」とは煩悩ゆえに苦の三塗へと展々輪廻し出離を果たせぬ衆生の生き様をいう。
和泉式部が生きた時代は法華経が宮廷貴族の間で広く読誦され、末法思想を背景として浄土教が広がりつつあった時代と重なっている。
まだうら若い娘時代に、習い覚えた仏典の言葉を巧みに折り込み才気にまかせて詠んだこの歌の心を、読み人である和泉式部本人がほんとうに理解できるようになったのは、最後の夫とも離別し、娘の小式部にも先立たれ、孤独な老を迎えて後のことではなかったろうか。