吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ~
小町ゆかりの寺(1)
随心院
花の色は移りにけりないたづらに
我が身世にふるながめせし間に
小倉百人一首に載る小野小町の歌である。
小野小町は古今集六歌仙の一人として計十八首が、全勅撰集では総計六十七首の歌を残している平安初期の歌人である。
クレオパトラ、楊貴妃と共に世界三美人の一人にも数えられ、謡曲、歌舞伎、その他いろんなジャンルの芸能の世界で取り上げられる女性だが、これだけ謎につつまれた女性も珍しい。
謎、つまり、いたことはいたらしいのだが、いつの頃、どのような素性で、何処に生まれ、どんな人生を送り、何処でいつ亡くなったのか、となるとこれを裏付ける確かな資料がほとんどない。
つまり、何も分からないのである。
わずかに残る資料や伝の類から、小町は小野篁の子の出羽郡司小野良真の娘として出羽で生まれ、長じて宮中の五節の舞姫に選ばれて参内し、仁明天皇の目にとまって後宮に迎えられ、更衣(嬪)としてに仕えたという説が強い。異説もある。
小町の歌として「小野小町集」には100首を越える歌が残されているが、そのすべてが小町の歌といえるかは疑わしいようだ。小町の歌として確かなのは古今集の十八首のみとする説すらある。
調べれば調べるほど分からないことばかりなのである。
吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ
痩せたる犬の腹肥やせ
これも小町が晩年に詠んだ辞世の歌と伝えられる。
真偽の程は分からないが、ある意味では小町にふさわしい歌かも知れない。
古今集にある歌からすると、小町は後宮て数多の侍女にかしづかれ十二単を纏い、取り澄まして歌を詠む賢しらな自分の何処かに、冷たく醒めた目でそれを見放すもう一人の別の自分がいる。
そんな人だったような気がするからである。
その小町ゆかりの寺として先ず挙げられるのが随心院である。
京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山である。
このあたり一帯は小野氏が栄えた地だと言われる。
寺伝によると後宮を退いた小町はこの寺でひっそりと余生を過ごしたとされている。
深草少将の百夜通いの物語もこの地を舞台にしている。
総門を入ると参道右手に小野梅園が広がる。
梅園は今梅祭りが開催されている。
梅祭りの時期、随心院では「はねず踊」という珍しい踊りが催される。
深草少将の百世通いを題材にした伝統芸能で、「はねず」は小野梅園の遅咲きの紅梅の色からきている。
梅園の南の一角に「化粧(けはい)の井戸」がある。
小町は、朝夕、この井戸水に自らの姿を写して化粧をしたのだとか。
この井戸の辺りに小町の住家があったと説明板には書かれている。
また本堂の裏手(東)の林の中には小町の文塚がある。
小町によせられた千束もの文を埋めたとか。
文塚と少し離れたところに小町に仕えた侍女のかわいらしい供養塔がある。
庫裡の玄関脇に
花の色は移りにけりないたづらに~
の冒頭の歌を刻んだ歌碑が立っている。
庫裡を入ると奥書院、能之間、表書院、は本堂と回廊伝いに巡ることが出来る。
伽藍は外からの見かけより広く、気をつけて歩かないと伽藍を巡っているうちに出口を見失いかねない。
表書院は薬医門を入った正面に位置している。
中を巡っていると気づかないが、拝観入り口の庫裏と大玄関は庭つづきで隣り合っているのである。
薬医門と大玄関は拝観用の入口としては使われていない。
随心院には小町の墓はなく、ここで亡くなったことを裏付ける資料もない。
はたして小町は何処で、どのように亡くなったのであろうか。