ふうたちゃんと散歩している道に、秋元氏陣屋跡という石碑があった。
読んでみると、
『のぼうの城』と同じ時期のことが書いてある。
1590年小田原の役の時、深谷城主上杉氏憲が小田原城に立てこもった。
秋元長朝はその留守を守っていたが、城や宿場を焼かれるのを守るため、
深谷城を明け渡した。
『のぼうの城』では、忍城城主成田氏長が小田原城に籠城する時に、
領地を守るため開城するように密かに言っておいたにもかかわらず、
城主のいとこ氏親は開城せずに『決戦』を選択した。
豊臣秀吉の命を受けた石田光成は水攻めをしかけたが、
忍城側は良く持ちこたえて、開城するのは小田原城が落ちてからのこととなった。
忍城は良く戦ったが、当時の状況では、深谷城のように早めに降伏した方が賢明だったのだろうか。
「深谷上杉顕彰会」の方に、教えていただきたいなあ。
地元の歴史を知るというのもいいですよね。
映画も見ました。
映画は良くできているものの
原作と若干設定が違っていたりしましたが...。
忍城の前に各支城を責めましたが
直前の館林城しかり、戦わず開城したところが
続出したようです。
原作では、、、
三成は坂東武者の不甲斐無さを嘆き
これが坂東武者のはずがないと
忍城勢に坂東武者の誇りにかけて戦うように
仕向けて行きました。
忍城のほかにも寄居町の鉢形城や
八王子城、岩槻城でも戦闘が行われたと記されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
忘れてしまいました。
石田光成が戦いで勝ったことがないのを、他の家臣が何かというので、
勝たせたいという秀吉の意志があったというような気がしますが、どうだったかなあ・・・
(これは映画の中だったでしょうか、本だったでしょうか?)
すぐに忘れてしまうので、後でしっかり調べてみましょう。
箱根で温泉につかり、帰りに蒲鉾を試食して帰る、花より団子組の私としては、深く反省です。
石田三成は事務方(裏方)の才能のあった方で
秀吉もその才能を見抜いて抜擢しました。
三成の裏方での活躍で中国地方攻めや
九州地方攻めが成功裏に進みました。
しかし、いわば官僚ですので戦場での
武勲はありませんでした。
武勲もないのに出世してと他の武将に思われていて
それが「三献茶」と言う言葉で蔑まれていました。
三献茶は、秀吉が喉が乾い時に「お茶だ」といって
出させたのが当時小姓だった三成です。
三成は、一杯目のお茶を「ぬるめの茶」で茶碗にいっぱい入れて出しました。
一気に飲み干した秀吉は、もう一杯と。
二杯目は適温で、適量を。
これを飲み干した秀吉は、もう一杯と。
三杯目は、熱い濃いお茶で少なめにして味を楽しめるようにと。
この気の利いたお茶の出し方に、秀吉は三成を大いに気に入ったと言われています。
三献茶と言われていたのは、秀吉も承知していましたので
武勲を上げさせて他の武将から何も言わせないようにと
小田原城の支城攻めを三成に任せました。
深谷と言えば渋沢栄一さんのことは、
話に聞いていましたが、
秋元氏陣屋跡は、初めてです。
良い勉強になります
確かに、小田原と言えば、かまぼこ。
有名ななんとか。忘れてしまったけど。
12月に箱根に行った時、しっかり買いました。
静岡の黒はんぺんて知っていますか?
これは石田光成の有名なエピソードなのですネ。
知りませんでした。
光成をもっと詳しく知ると面白そうです。
今日、寄居の鐘撞堂に行きました。
頂上の看板に、鐘をたたいて、敵の襲来をいち早く鉢形城に知らせたと書いてありました。
新しい鐘が設置されていて、びっくりしました。
地元の歴史と言っても、
この石碑の内容以外の事は知らないのですよ。
でも、そういう目で見てると、
また散歩の途中で何かに出くわすかも知れません。
面白いですよね。