ヴェニスに死す
吉野 光彦
その日曜日は、幸福な一日であった。朝には高橋尚子が会心のレース運びで勝利を飾り、夜にはNHK教育テレビの世界名画劇場が、ヴィスコンティ監督「ヴェニスに死す」を2時間余り、一切の解説なし、もちろん字幕つきの完全版で放映してくれたのだ。
ルキノーヴィスコンティは、私の最も好きな監督だ。イタリアの没落貴族の家系に生まれた故であろうか、失われゆくもの、腐敗し滅びてゆくものを撮りつづけてきた。
「山猫」「家族の肖像」「地獄に堕ちた勇者ども」が有名だが、「ペニスに死す」も代表作の一つ。
若いころ、劇場で見たときの記憶が鮮明に残っている。三十年たって、どんなふうに見えるか楽しみであった。寝部屋の明かりを消して、むかしの映画館のような闇の中で映像と対峙する。
いきなり、ほのぼのとした夕暮れのナポリ湾が画面いっぱいに現れる。薔薇いろにつつまれた、荘厳なまでの黄昏――。
ああ、なんと心にしみる夕暮れなのだろう。映画を見る歓びが身内からわき上がってくる。
その、天も海も染まった景色の底に、黒い煙を吐いて、凪いだ鏡のような水面をすべるように過ぎってゆく一隻の蒸気船が見えてくる。今しも港に着こうとしているのだ。
着岸の光景のなかにごった返す甲板にたたずむ、白い服を着た初老の紳士の姿がある。ダーク・ボガード扮する、主人公のマッシェンバッハ教授だ。世界的に知られた作曲家にして指揮者。ミュンヘンから来た。だがその表情は疲れ切っている。
主人公は、トーマスーマンの原作では小説家だが、映画では作曲家に変えられている。
彼を迎えた弟子アルフレッドのピアノを聴きながら彼は心のなかでつぶやく。
「……思い出す。父の屋敷にも、砂時計があった。砂が残り少なくなったことに気づくのは、終わりに来たときなのだ。」
そう、この映画は、老作曲家の、ひとりごとのような呟きによって語られているのだ。彼の眼に映じたもの、彼の脳裡を過ぎってゆくもの、そして彼の心に浮かんできた言葉が、この映画の全体だ。
そして映画の主題は、すでにここに提示されている。
残り少ない老年に与えられる残酷さのすべてが、これから1つ1つ彼に襲いかかってくるのだ。
アルフレッドとの対話が象徴的だ。
美は、精神へのだゆみない接近の結果である、という主人公の持説に対して、すでに名をなした、かつての愛弟子は、冷たく答える。
いいえ、美は、努力によって成るものではなく、天才と同様、偶然の結果なのです。
また、彼が音楽に精神を、厳密さを、純粋さをもとめるのに対して、弟子は主張する。
いいえ、美は、精神ではなくて、感覚に属するのです。悪や、官能や、感覚が、美を生み出すのですと。
すでに自分の時代が去ったのではないかとおびえている彼の前を、あの少年が通り過ぎる。
……時代は多分、第一次大戦前。ヨーロッパの支配階級にとっては幸福な、平和な、最後の時代。
古い秩序が形を保ち、しかし爛熟が内部から忍び寄っていた時代。
ホテルが、今日のように、庶民が平気で出入りできるような存在ではなく、特権階級の人々だけが利用する存在であったころのこと。
滑稽なほどに厳粛で、選ばれた人々の、装飾過剰な人々が出入りする。
そのホテルの一角で、彼は見たのだ。船で出会った、金髪で、灰色の瞳をもった、紺色のセーラー服―水兵服―をきた少年を。
少年から青年へと成熟する直前の、あやうい、壊れやすい陶器のような、ひとときの輝き。マッシェンバッハのうちに戦慄が走る。
少年の一家は休暇をこの地で過ごすために滞在するのだ。
ホテルで、海岸で、彼は少年の姿を見かける。少年の名がタジオであることも彼は知る。
゛
あるとき彼は、少年がロビーの古ぼけたピアノを、たわむれに弾く光景にであう。「エリーゼのために」。
そのおぼつかない音から、たちまち彼のうちに、苦い記憶がよみがえる。
はじめて娼婦と夜を過ごしたとき、その娼婦が客のために弾いたのが同じ曲だった……。
今も彼を苦しめるみじめな記憶と、少年を見るつかのまの歓びが、交互に彼をおとずれる。
仕事が終わり、ミュンヘンに戻ろうとした彼は、ホテルのカウンターで偶然に、少年と出会う。少年はなぞのような微笑みを彼に投
げかける。それは単に、邪気のない精神が周りの誰にも見せる意味のない微笑にすぎない。だがマッシェンバツハにとってそれは、神
の恩寵のように思われたのだ。
「さようなら、タジオ。神のご加護を」と彼は胸のうちで祈る。
ホテル側の手違いで、滞在が延びることになった。
映画はここから一気に、後半の悲劇に向けて走り出す。
すでに、街のあちこちに、コレラの危険を告げるイタリア語のビラが貼られている。ペニスのコレラ発生を報じた外国の新聞を、ホテルは急いで隠す。
俺はいったい、ここで何をしているのだ。
自己嫌悪と過去の忌まわしい記憶の数々に苦しむ彼。
だが少年の他愛ないしぐさが、彼に幸福を与える。少年の海水着すがたと、浜辺で友達とたわむれる姿。とつぜん、彼のなかに、清らかな旋律が流れる。
ビーチパラソルの下で、浮かんだ楽想を書きつける彼。恩寵のようなメロディー。だが、それは、がっての整然とした構想の中の楽曲ではなく、思いつきの、断片に過ぎぬ。
哀しみにみちた顔で、彼は街をあるく。
すでにベニスの街を、死の色が覆い始める。
教会の鐘の音が殷々とつづき、石畳の上を、黒い喪服を着た地元の人々が横切る。鳩が舞い上がる。
消毒液を、石垣にまく人。鳴り続ける弔鐘。
町中を消毒薬のにおいかつつむ。
ホテルで演奏する音楽師たちの無気味な哄笑。破滅の予感が画面をおおう。
観光客が引き上げて、がらんとした広場。喪服の土地の人々だけが黙して行き交う。
映画のなかで音楽がとだえる。……
吉野 光彦
その日曜日は、幸福な一日であった。朝には高橋尚子が会心のレース運びで勝利を飾り、夜にはNHK教育テレビの世界名画劇場が、ヴィスコンティ監督「ヴェニスに死す」を2時間余り、一切の解説なし、もちろん字幕つきの完全版で放映してくれたのだ。
ルキノーヴィスコンティは、私の最も好きな監督だ。イタリアの没落貴族の家系に生まれた故であろうか、失われゆくもの、腐敗し滅びてゆくものを撮りつづけてきた。
「山猫」「家族の肖像」「地獄に堕ちた勇者ども」が有名だが、「ペニスに死す」も代表作の一つ。
若いころ、劇場で見たときの記憶が鮮明に残っている。三十年たって、どんなふうに見えるか楽しみであった。寝部屋の明かりを消して、むかしの映画館のような闇の中で映像と対峙する。
いきなり、ほのぼのとした夕暮れのナポリ湾が画面いっぱいに現れる。薔薇いろにつつまれた、荘厳なまでの黄昏――。
ああ、なんと心にしみる夕暮れなのだろう。映画を見る歓びが身内からわき上がってくる。
その、天も海も染まった景色の底に、黒い煙を吐いて、凪いだ鏡のような水面をすべるように過ぎってゆく一隻の蒸気船が見えてくる。今しも港に着こうとしているのだ。
着岸の光景のなかにごった返す甲板にたたずむ、白い服を着た初老の紳士の姿がある。ダーク・ボガード扮する、主人公のマッシェンバッハ教授だ。世界的に知られた作曲家にして指揮者。ミュンヘンから来た。だがその表情は疲れ切っている。
主人公は、トーマスーマンの原作では小説家だが、映画では作曲家に変えられている。
彼を迎えた弟子アルフレッドのピアノを聴きながら彼は心のなかでつぶやく。
「……思い出す。父の屋敷にも、砂時計があった。砂が残り少なくなったことに気づくのは、終わりに来たときなのだ。」
そう、この映画は、老作曲家の、ひとりごとのような呟きによって語られているのだ。彼の眼に映じたもの、彼の脳裡を過ぎってゆくもの、そして彼の心に浮かんできた言葉が、この映画の全体だ。
そして映画の主題は、すでにここに提示されている。
残り少ない老年に与えられる残酷さのすべてが、これから1つ1つ彼に襲いかかってくるのだ。
アルフレッドとの対話が象徴的だ。
美は、精神へのだゆみない接近の結果である、という主人公の持説に対して、すでに名をなした、かつての愛弟子は、冷たく答える。
いいえ、美は、努力によって成るものではなく、天才と同様、偶然の結果なのです。
また、彼が音楽に精神を、厳密さを、純粋さをもとめるのに対して、弟子は主張する。
いいえ、美は、精神ではなくて、感覚に属するのです。悪や、官能や、感覚が、美を生み出すのですと。
すでに自分の時代が去ったのではないかとおびえている彼の前を、あの少年が通り過ぎる。
……時代は多分、第一次大戦前。ヨーロッパの支配階級にとっては幸福な、平和な、最後の時代。
古い秩序が形を保ち、しかし爛熟が内部から忍び寄っていた時代。
ホテルが、今日のように、庶民が平気で出入りできるような存在ではなく、特権階級の人々だけが利用する存在であったころのこと。
滑稽なほどに厳粛で、選ばれた人々の、装飾過剰な人々が出入りする。
そのホテルの一角で、彼は見たのだ。船で出会った、金髪で、灰色の瞳をもった、紺色のセーラー服―水兵服―をきた少年を。
少年から青年へと成熟する直前の、あやうい、壊れやすい陶器のような、ひとときの輝き。マッシェンバッハのうちに戦慄が走る。
少年の一家は休暇をこの地で過ごすために滞在するのだ。
ホテルで、海岸で、彼は少年の姿を見かける。少年の名がタジオであることも彼は知る。
゛
あるとき彼は、少年がロビーの古ぼけたピアノを、たわむれに弾く光景にであう。「エリーゼのために」。
そのおぼつかない音から、たちまち彼のうちに、苦い記憶がよみがえる。
はじめて娼婦と夜を過ごしたとき、その娼婦が客のために弾いたのが同じ曲だった……。
今も彼を苦しめるみじめな記憶と、少年を見るつかのまの歓びが、交互に彼をおとずれる。
仕事が終わり、ミュンヘンに戻ろうとした彼は、ホテルのカウンターで偶然に、少年と出会う。少年はなぞのような微笑みを彼に投
げかける。それは単に、邪気のない精神が周りの誰にも見せる意味のない微笑にすぎない。だがマッシェンバツハにとってそれは、神
の恩寵のように思われたのだ。
「さようなら、タジオ。神のご加護を」と彼は胸のうちで祈る。
ホテル側の手違いで、滞在が延びることになった。
映画はここから一気に、後半の悲劇に向けて走り出す。
すでに、街のあちこちに、コレラの危険を告げるイタリア語のビラが貼られている。ペニスのコレラ発生を報じた外国の新聞を、ホテルは急いで隠す。
俺はいったい、ここで何をしているのだ。
自己嫌悪と過去の忌まわしい記憶の数々に苦しむ彼。
だが少年の他愛ないしぐさが、彼に幸福を与える。少年の海水着すがたと、浜辺で友達とたわむれる姿。とつぜん、彼のなかに、清らかな旋律が流れる。
ビーチパラソルの下で、浮かんだ楽想を書きつける彼。恩寵のようなメロディー。だが、それは、がっての整然とした構想の中の楽曲ではなく、思いつきの、断片に過ぎぬ。
哀しみにみちた顔で、彼は街をあるく。
すでにベニスの街を、死の色が覆い始める。
教会の鐘の音が殷々とつづき、石畳の上を、黒い喪服を着た地元の人々が横切る。鳩が舞い上がる。
消毒液を、石垣にまく人。鳴り続ける弔鐘。
町中を消毒薬のにおいかつつむ。
ホテルで演奏する音楽師たちの無気味な哄笑。破滅の予感が画面をおおう。
観光客が引き上げて、がらんとした広場。喪服の土地の人々だけが黙して行き交う。
映画のなかで音楽がとだえる。……
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