白鷺城下残日抄
太陽と月に背いて 吉野 光彦
宇野浩二をはじめ、明治の末から大正初めに青春時代を過ごした文学青年たちは、あの怠け者の近松秋江でさえも、西欧文学を英訳で読んだ。なかでも宇野浩二が終生愛読したのが、アーサー・シモンズの『象徴派の運動』であった。
この書は、19世紀末の、いわゆる象徴主義の詩人たちの詩と生涯を詳述したものである。今日我々が知っているランボーやヴェルレーヌの逸話の多くは、この書によって初めて知られたのである。
ヴェルレーヌの手紙によってパリに出て、一躍、詩壇の寵児となったランボー。ヴェルレーヌとの間に数々の逸話を残したあと、ぷっつりと文学を捨て去り、のち、アフリカの富貴な商人となって後半生を送ったというランボーの伝説は、この書によってわが国に伝えられたといってよい。
宇野は、この書によほど魅せられたのだろうか、後年、牧野信一をモデルとした小説「夢の通ひ路」のエピグラフに、その一節を引用した。それは、シモンズが唯美的な作家ネルヴァルを論じた章の冒頭で、次のような一節であった。
――これは全世界を失つて彼自身の魂を得た人の問題である。
そうなのだ。彼自身の魂と、まわりをとりまく全世界との関係、これこそ、象徴主義の真の命題であった。
このランボーとヴェルレーヌの運命的な出合いと別れを描いた映画「月と太陽に背いて」が制作されたのは、1995年のことであった。
ランボーを、当時、すでにアイドルでありながら、むしろ一部で個性派俳優として注目されていたレオナルド・ディカプリオが演じて、新聞や雑誌がその評判を伝たものだった。
ディカプリオがその数年後、「タイタニック」によって世界中の若い女性から熱愛されたことは、周知の通りである。
当時、私もこの映画に関心を抱いたが、見る機会を逃してしまった。ところが数年後に、関西テレビの深夜放送で放映されたので、ビデオに収録しておいた。
そのビデオを、昨夜、ようやく見ることができたのである。原題はTOTAL ECLIPSE――「皆既蝕」である。なるほど、巧みな邦題のネーミングだ。
1871年、パリにあって、アルデンヌ県の無名の少年から送られてきた8編の詩を読んだヴェルレーヌは驚嘆し、「偉大なる魂よ、来たれ!」と手紙を書く。こうして、すでに当時有名な詩人であったヴェルレーヌと、17歳のランボーの、運命的な、と評するしかない出合いが生まれるのである。
この映画が、単なる二人のエピソードを羅列しただけのものではあるまいかと、見る前、私は危惧したのだったが、それはまったくの杞憂であった。
ディカプリオ扮するランボーは、いつも鼻をピンと上げ、昂然と胸を張って歩く、傲岸不遜の少年である。その様子が、胸で想像してきたランボーの像とぴったり重なる。
私はランボーの「わが放浪」を、中原中也の訳したものが好きである。中也もまた、傲岸不遜の態度において、仲間の間でランボーを彷彿とさせたようだが、私にはこの訳は、ランボーと中也、ふたりの個性と面目が躍如としていると思われる。
わが放浪 中原中也訳
私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!
独特の、わがズボンには穴が開いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいてゐた。
そのささやきを路傍に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの9月の宵々よ、酒かとばかり
額には、露の滴を感じてた。
幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。
放浪を愛したランボーの、意気軒昂とした姿が目に浮かぶようではないか。しかも放浪においてランボーの詩心は最も激しく高揚したのである。
大熊座の星々が輝く夜天の下を、誇り高く歩くランボーの姿。路傍の石に腰かけて、詩の修辞に工夫をめぐらすランボー。詩の美神が彼に微笑む。――現実の生活の場を逃れたときこそ、ランボーは天上を歩む詩人へと変身できたのである。
この映画でも、傲然と胸を張って大股に歩くランボーの姿が繰り返される。ある時は家を出て野道を、ある時はパリの街頭を。ディカプリオはこの、世間を嘲笑し、世俗を徹頭徹尾、排除しようとして孤立する若者ランボーを、まことにうまく演じている。彼の無礼と高慢、自己中心性、破滅的な言動――たとえば詩人たちの朗読会を滅茶苦茶にしてしまうエピソードなど、まるでランボーが生きているみたいだ。
時代情景も、よく描かれている。なかでも酒場で2人がアブサンを飲むところはとても面白い。氷砂糖を溶かしながらグラスに注がれる、みどり色の美しく、強い酒。それを飲んで酔いを深める2人。「アブサン二杯!」――これがヴェルレーヌの、いつものセリフだ。
10歳年長のヴェルレーヌは、パリに出てきたランボーの天才を絶対的に信じ、讃歎する。そして彼を愛する。
新妻を愛しながらも、より強くランボーを愛し、その世俗を嘲笑する態度に感化されてしまって、妻との不和をつくりだしてしまう、感受性に富む、繊細で、気の弱いヴェルレーヌ。すでに頭髪が薄く、容姿において劣るヴェルレーヌを、俳優はみごとに演ずる。外国映画に詳しくない私はこの俳優の名を知らぬが、困難な役を演ずるこの俳優は、きっと名のある人に違いない。
2人の関係においては、ランボーが攻撃的、能動的であり、ヴェルレーヌは気の弱い女性のように、ランボーに翻弄される。
映画は、2人の性生活の一端も暗示する。精神的な面ばかりでなく、肉体的な面でも2人は結ばれているのだ。
2人は同棲し、ある時は長途の旅行をして、自由と、解放された時間を得る。しかしランボーは、いつまでもヴェルレーヌのもとにとどまっているような、従順な魂の持ち主ではなかった。
時おり、ランボーの瞼に浮かび上がる幻影――。
それは、アフリカの、広漠たる褐色の砂漠の光景である。この幻影がランボーを招き、絶えざる焦燥に駆り立てる。
繰り返される諍い。ロンドンから船に乗って、ランボーから別れてゆく、あの有名な場面が心に残る。港からヴェルレーヌの名を呼びつづけ、自分が悪かったと詫びるランボー。無言のまま舳先に立ちつくすヴェルレーヌ。
しかしやがて決定的な時が来る。自殺用のために買った拳銃でランボーを撃つヴェルレーヌ。弾丸はランボーの左手に命中する。
この事件によって2人は取り調べられ、屈辱的な検査によって「いかがわしい行為」を判定されたヴェルレーヌは、200フランの罰金と禁錮2年の刑を言い渡される。
囚人用の重い靴をはかされた、哀れなヴェルレーヌの姿。しかしその表情はむしろ穏やかだ。独房から見上げる、天窓の光。はるかな高みから差し込む光を仰ぎ見るヴェルレーヌ。敬虔な表情がヴェルレーヌに浮かぶ。
このときのヴェルレーヌの表情は、崇高といってよい。忘れることの出来ぬ情景である。
映画の終わりの方は、その後のランボーの生涯だ。あの幻影に誘われたようにアフリカに渡ったランボーは、灼熱の太陽の下、有能な商人として日々を送る。しかし腫瘍のため、右足を切断されるランボー。彼は37歳でその生涯を閉じた。
それから30年の歳月が流れる。酒場の隅でひとり、ランボーの追憶にふけるヴェルレーヌ。そのヴェルレーヌに、にこやかにランボーの像が語りかける。
――見つけたよ。海と溶けあった太陽……それが永遠さ。
ついに自分自身の魂を発見したランボーの、晴れやかな表情のうちに映画は終わる。
彼自身の魂を求めて生涯を漂泊したランボーと、そのランボーを慕いつづけたヴェルレーヌ。彼の前に彗星のように現われ、彼の人生を滅茶滅茶にして去った天才への、痛々しい慕情を描いて映画は終わるのである。
太陽と月に背いて 吉野 光彦
宇野浩二をはじめ、明治の末から大正初めに青春時代を過ごした文学青年たちは、あの怠け者の近松秋江でさえも、西欧文学を英訳で読んだ。なかでも宇野浩二が終生愛読したのが、アーサー・シモンズの『象徴派の運動』であった。
この書は、19世紀末の、いわゆる象徴主義の詩人たちの詩と生涯を詳述したものである。今日我々が知っているランボーやヴェルレーヌの逸話の多くは、この書によって初めて知られたのである。
ヴェルレーヌの手紙によってパリに出て、一躍、詩壇の寵児となったランボー。ヴェルレーヌとの間に数々の逸話を残したあと、ぷっつりと文学を捨て去り、のち、アフリカの富貴な商人となって後半生を送ったというランボーの伝説は、この書によってわが国に伝えられたといってよい。
宇野は、この書によほど魅せられたのだろうか、後年、牧野信一をモデルとした小説「夢の通ひ路」のエピグラフに、その一節を引用した。それは、シモンズが唯美的な作家ネルヴァルを論じた章の冒頭で、次のような一節であった。
――これは全世界を失つて彼自身の魂を得た人の問題である。
そうなのだ。彼自身の魂と、まわりをとりまく全世界との関係、これこそ、象徴主義の真の命題であった。
このランボーとヴェルレーヌの運命的な出合いと別れを描いた映画「月と太陽に背いて」が制作されたのは、1995年のことであった。
ランボーを、当時、すでにアイドルでありながら、むしろ一部で個性派俳優として注目されていたレオナルド・ディカプリオが演じて、新聞や雑誌がその評判を伝たものだった。
ディカプリオがその数年後、「タイタニック」によって世界中の若い女性から熱愛されたことは、周知の通りである。
当時、私もこの映画に関心を抱いたが、見る機会を逃してしまった。ところが数年後に、関西テレビの深夜放送で放映されたので、ビデオに収録しておいた。
そのビデオを、昨夜、ようやく見ることができたのである。原題はTOTAL ECLIPSE――「皆既蝕」である。なるほど、巧みな邦題のネーミングだ。
1871年、パリにあって、アルデンヌ県の無名の少年から送られてきた8編の詩を読んだヴェルレーヌは驚嘆し、「偉大なる魂よ、来たれ!」と手紙を書く。こうして、すでに当時有名な詩人であったヴェルレーヌと、17歳のランボーの、運命的な、と評するしかない出合いが生まれるのである。
この映画が、単なる二人のエピソードを羅列しただけのものではあるまいかと、見る前、私は危惧したのだったが、それはまったくの杞憂であった。
ディカプリオ扮するランボーは、いつも鼻をピンと上げ、昂然と胸を張って歩く、傲岸不遜の少年である。その様子が、胸で想像してきたランボーの像とぴったり重なる。
私はランボーの「わが放浪」を、中原中也の訳したものが好きである。中也もまた、傲岸不遜の態度において、仲間の間でランボーを彷彿とさせたようだが、私にはこの訳は、ランボーと中也、ふたりの個性と面目が躍如としていると思われる。
わが放浪 中原中也訳
私は出掛けた、手をポケットに突つ込んで。
半外套は申し分なし。
私は歩いた、夜天の下を、ミューズよ、私は忠僕でした。
さても私の夢みた愛の、なんと壮観だつたこと!
独特の、わがズボンには穴が開いてた。
小さな夢想家・わたくしは、道中韻をば捻つてた。
わが宿は、大熊星座。大熊星座の星々は、
やさしくささやきささめいてゐた。
そのささやきを路傍に、腰を下ろして聴いてゐた
あゝかの9月の宵々よ、酒かとばかり
額には、露の滴を感じてた。
幻想的な物影の、中で韻をば踏んでゐた、
擦り剥けた、私の靴のゴム紐を、足を胸まで突き上げて、
竪琴みたいに弾きながら。
放浪を愛したランボーの、意気軒昂とした姿が目に浮かぶようではないか。しかも放浪においてランボーの詩心は最も激しく高揚したのである。
大熊座の星々が輝く夜天の下を、誇り高く歩くランボーの姿。路傍の石に腰かけて、詩の修辞に工夫をめぐらすランボー。詩の美神が彼に微笑む。――現実の生活の場を逃れたときこそ、ランボーは天上を歩む詩人へと変身できたのである。
この映画でも、傲然と胸を張って大股に歩くランボーの姿が繰り返される。ある時は家を出て野道を、ある時はパリの街頭を。ディカプリオはこの、世間を嘲笑し、世俗を徹頭徹尾、排除しようとして孤立する若者ランボーを、まことにうまく演じている。彼の無礼と高慢、自己中心性、破滅的な言動――たとえば詩人たちの朗読会を滅茶苦茶にしてしまうエピソードなど、まるでランボーが生きているみたいだ。
時代情景も、よく描かれている。なかでも酒場で2人がアブサンを飲むところはとても面白い。氷砂糖を溶かしながらグラスに注がれる、みどり色の美しく、強い酒。それを飲んで酔いを深める2人。「アブサン二杯!」――これがヴェルレーヌの、いつものセリフだ。
10歳年長のヴェルレーヌは、パリに出てきたランボーの天才を絶対的に信じ、讃歎する。そして彼を愛する。
新妻を愛しながらも、より強くランボーを愛し、その世俗を嘲笑する態度に感化されてしまって、妻との不和をつくりだしてしまう、感受性に富む、繊細で、気の弱いヴェルレーヌ。すでに頭髪が薄く、容姿において劣るヴェルレーヌを、俳優はみごとに演ずる。外国映画に詳しくない私はこの俳優の名を知らぬが、困難な役を演ずるこの俳優は、きっと名のある人に違いない。
2人の関係においては、ランボーが攻撃的、能動的であり、ヴェルレーヌは気の弱い女性のように、ランボーに翻弄される。
映画は、2人の性生活の一端も暗示する。精神的な面ばかりでなく、肉体的な面でも2人は結ばれているのだ。
2人は同棲し、ある時は長途の旅行をして、自由と、解放された時間を得る。しかしランボーは、いつまでもヴェルレーヌのもとにとどまっているような、従順な魂の持ち主ではなかった。
時おり、ランボーの瞼に浮かび上がる幻影――。
それは、アフリカの、広漠たる褐色の砂漠の光景である。この幻影がランボーを招き、絶えざる焦燥に駆り立てる。
繰り返される諍い。ロンドンから船に乗って、ランボーから別れてゆく、あの有名な場面が心に残る。港からヴェルレーヌの名を呼びつづけ、自分が悪かったと詫びるランボー。無言のまま舳先に立ちつくすヴェルレーヌ。
しかしやがて決定的な時が来る。自殺用のために買った拳銃でランボーを撃つヴェルレーヌ。弾丸はランボーの左手に命中する。
この事件によって2人は取り調べられ、屈辱的な検査によって「いかがわしい行為」を判定されたヴェルレーヌは、200フランの罰金と禁錮2年の刑を言い渡される。
囚人用の重い靴をはかされた、哀れなヴェルレーヌの姿。しかしその表情はむしろ穏やかだ。独房から見上げる、天窓の光。はるかな高みから差し込む光を仰ぎ見るヴェルレーヌ。敬虔な表情がヴェルレーヌに浮かぶ。
このときのヴェルレーヌの表情は、崇高といってよい。忘れることの出来ぬ情景である。
映画の終わりの方は、その後のランボーの生涯だ。あの幻影に誘われたようにアフリカに渡ったランボーは、灼熱の太陽の下、有能な商人として日々を送る。しかし腫瘍のため、右足を切断されるランボー。彼は37歳でその生涯を閉じた。
それから30年の歳月が流れる。酒場の隅でひとり、ランボーの追憶にふけるヴェルレーヌ。そのヴェルレーヌに、にこやかにランボーの像が語りかける。
――見つけたよ。海と溶けあった太陽……それが永遠さ。
ついに自分自身の魂を発見したランボーの、晴れやかな表情のうちに映画は終わる。
彼自身の魂を求めて生涯を漂泊したランボーと、そのランボーを慕いつづけたヴェルレーヌ。彼の前に彗星のように現われ、彼の人生を滅茶滅茶にして去った天才への、痛々しい慕情を描いて映画は終わるのである。
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