アマデウス
吉野 光彦
1984年に米国で制作された映画「アマデウス」は、モーツアルトが毒殺されたというスリリングな設定によって大きな話題を呼び、世界中で興行的に大成功した。アマデウスというのは、モーツアルトの洗礼名である。
しかしこの映画を見た世界中のモーツアルト・ファンは、大いに失望したのである。なぜなら、そこに描かれたモーツアルトは軽薄で騒々しく、ふざけちらしてばかりいて、その崇高で清澄な音楽とあまりにかけ離れていたからである。私も失望したひとりであるが、しかし映画の描かんとしたことはよくわかった。
モーツアルトより少しばかり年長の音楽人に、サリエリというひとがいた。ウィーンの宮廷音楽長を長くつとめた人で、その作曲した曲やつくった歌劇は、今日もわずかに残されている。生存中には、モーツアルトがどうしても得ることのできなかった世俗的な地位を得ていた人で、名声もそれに相応したものだった。
ところがモーツアルトがこのサリエリに毒殺されたという説は、モーツアルトの没後まもない時期から確かにあったのである。
最近刊行された水谷彰良著『サリエーリ』(音楽之友社)でも取り上げられているように、確かにモーツアルト没後まもない時期から、その噂はあった。晩年のサリエリがその噂に苦しめられた記録も残っている。
しかし水谷氏によれば、それらの噂はいずれも捏造で、まったく問題にする価値もない空疎な風説にすぎないという。
しかし、にもかかわらず、この説が200年もたった現代にいたって蒸し返され、映画化されたりするのは何故だろう。
実はこの主題――モーツアルトとサリエリを対比するという設定は、モーツアルトの没した数十年後、すなわち19世紀において、ロシアの文豪プーシキンによって提示されたものであった。
すなわちプーシキンは、天才と、天才ならざる者の対比、芸術上の嫉妬という新しい主題を、モーツアルトに関して提示したのである。もちろんプーシキンは、古めかしい毒殺説からヒントを得てその戯曲を書いたのである。
この戯曲は「モーツアルトとサリエリ」と題されたもので、モーツアルトの音楽のあまりに天才的なものであることに絶望したサリエリが、嫉妬と、神への懐疑に悩み、そのあげくモーツアルトを毒殺してしまった、とするものであった。
少年時代から神童と謳われたモーツアルトに、サリエリは会う以前から好意と関心を抱いていた。ところが初めてモーツアルトに会う会場で、どの人物がモーツアルトかと探したサリエリは、ひどく失望させられる。人々の中で最も騒がしく、猥雑で品がなく、最も軽蔑すべき者と思われた若者が、モーツアルトそのひとだったからである。
にもかかわらず、モーツアルトの天才ぶりは疑いようもなかった。その場で、ふざけちらしながら聴いていた曲をいとも簡単に「ええ、もう覚えてしまいました。こうでしょう」と弾きこなす異常な記憶力――。ほんのちょっとした主題を与えられただけで、それを縦横に駆使して一つの楽曲を仕上げてしまう才能――。
モーツアルトの正式の名前は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト。モーツアルトは、姓である。
彼は小さな王国ザルツブルグで宮廷副楽長をつとめる音楽家レオポルトのひとり息子であった。5歳違いの姉ナンネルが父のレッスンを受けているのを傍らで遊びながら見ていて、彼はいとも簡単にそれらを覚えてしまうのだった。
6歳のとき、アマデウスは、何かを熱心に書いていた。「何をかいているんだい?」と父親がたずねると、「クラブサン(当時のピアノ)のための協奏曲だよ。もう少しで第1楽章が終わるよ」と鼻歌まじりにペンを動かしながら父にそう言った。
まだ文字を知らないアマデウスの、その書きなぐった楽譜を、父は疑わしげに見ていたが、途中から父親の表情が変わった。
そこには、すでに自立した一つの音楽が存在していることに父親は気がついたのだ。この子は天才だ! 青ざめた顔でレオポルトは思った。
息子を天才だと信じた父親レオポルトの、それから悲惨なまでの努力と献身の日々がはじまる。彼はまず、この小さな息子を天才的なピアニストとして世に知らしめなければならなかった。このため父は姉ナンネルとアマデウスを連れての大旅行を企てる。はじめは西ヨーロッパへ、ついで音楽の先進地イタリアへ。
この時代、音楽の才能に恵まれた者が求めたのは、自分の才能と力量にふさわしい宮廷音楽家の地位につくことだった。父レオポルとが副楽長をつとめるザルツブルグは、この神童にとって、あまりにも片隅の小さな王国でしかなかった。父は息子に自分の夢を託した。
そのためには、まず認められることである。この点において父は有能な演出家であった。アマデウスは至るところで神童の名と盛名をほしいままにし、王侯貴族に謁見し、技を披露した。高価な贈り物を得ることも数知れなかった。だが父が息子のためにいちばん望んでいたウイーンの宮廷やハプスブルク家の宮廷に役職を得ることはできなかった。
一方、サリエリはどうだったか。倒産した商人の息子に生まれた彼は運よく才能を認められて音楽の道に入ることになった。そして努力の末に、ウイーンの宮廷楽長という、世間から尊敬される地位を得た。同時に彼は敬虔なキリスト教徒であった。その彼が、ウイーンに舞い戻ってきたモーツアルトの、作品の一つ一つに衝撃を受ける。
そのころモーツアルトは歌劇に手を染めていた。当時、歌劇は音楽の中でも最も民衆に愛された音楽で、いい歌劇の作者はその圧倒的な讃辞と莫大な報酬を得ることができた。
みずからも歌劇に手をつけていたサリエリは、しかしモーツアルトの「フィガロの結婚」を聴いて衝撃を受ける。
不幸なことに、サリエリはモーツアルトの天才を理解することができた。人々が単にモーツアルトを賞讃しているときに、サリエリばかりは、モーツアルトのアリアの一つ一つに天上の楽想が入っていることをっていた。
映画「アマデウス」のなかでも最も象徴的な場面がそれである。
サリエリは神に語りかける。
神よ、私は忠実な信徒として懸命に音楽の道に励んで参りました。また人間として最も正しい道を歩むように今日まで努力して参りました。そのことは、神よ、あなたがいちばんよくご存じでしょう。
それなのに神は私に、凡庸な才能しか分けてくださらなかった。あのアマデウスが、私の何分の一、神に愛を捧げているというのですか。それなのに、彼の一曲ごと、一節ごとに、私は神を感じるのです。どうしてあのような、神の恩寵としか感じられない天上の楽想が、あのように次々と湧きだしてくるのでしょう。
神への愛――それなら私は決して誰にも負けはしない。音楽の努力だって……。それなのに、神の恩寵は私にではなく、あの若僧に与えられたのですね。
サリエリは身を投げ出して神に抗議する。
この痛切なサリエリの嘆きこそ、プーシキンの創造した主題であった。
現代の奇才ピーター・シェーファーはプーシキンの発想を借り、それに古めかしい数々のエピソードを列ねて脚本を書き、それをミロス・フォアマン監督は映画化し、アカデミー賞をはじめ、数々の賞を総なめにしたのである。
吉野 光彦
1984年に米国で制作された映画「アマデウス」は、モーツアルトが毒殺されたというスリリングな設定によって大きな話題を呼び、世界中で興行的に大成功した。アマデウスというのは、モーツアルトの洗礼名である。
しかしこの映画を見た世界中のモーツアルト・ファンは、大いに失望したのである。なぜなら、そこに描かれたモーツアルトは軽薄で騒々しく、ふざけちらしてばかりいて、その崇高で清澄な音楽とあまりにかけ離れていたからである。私も失望したひとりであるが、しかし映画の描かんとしたことはよくわかった。
モーツアルトより少しばかり年長の音楽人に、サリエリというひとがいた。ウィーンの宮廷音楽長を長くつとめた人で、その作曲した曲やつくった歌劇は、今日もわずかに残されている。生存中には、モーツアルトがどうしても得ることのできなかった世俗的な地位を得ていた人で、名声もそれに相応したものだった。
ところがモーツアルトがこのサリエリに毒殺されたという説は、モーツアルトの没後まもない時期から確かにあったのである。
最近刊行された水谷彰良著『サリエーリ』(音楽之友社)でも取り上げられているように、確かにモーツアルト没後まもない時期から、その噂はあった。晩年のサリエリがその噂に苦しめられた記録も残っている。
しかし水谷氏によれば、それらの噂はいずれも捏造で、まったく問題にする価値もない空疎な風説にすぎないという。
しかし、にもかかわらず、この説が200年もたった現代にいたって蒸し返され、映画化されたりするのは何故だろう。
実はこの主題――モーツアルトとサリエリを対比するという設定は、モーツアルトの没した数十年後、すなわち19世紀において、ロシアの文豪プーシキンによって提示されたものであった。
すなわちプーシキンは、天才と、天才ならざる者の対比、芸術上の嫉妬という新しい主題を、モーツアルトに関して提示したのである。もちろんプーシキンは、古めかしい毒殺説からヒントを得てその戯曲を書いたのである。
この戯曲は「モーツアルトとサリエリ」と題されたもので、モーツアルトの音楽のあまりに天才的なものであることに絶望したサリエリが、嫉妬と、神への懐疑に悩み、そのあげくモーツアルトを毒殺してしまった、とするものであった。
少年時代から神童と謳われたモーツアルトに、サリエリは会う以前から好意と関心を抱いていた。ところが初めてモーツアルトに会う会場で、どの人物がモーツアルトかと探したサリエリは、ひどく失望させられる。人々の中で最も騒がしく、猥雑で品がなく、最も軽蔑すべき者と思われた若者が、モーツアルトそのひとだったからである。
にもかかわらず、モーツアルトの天才ぶりは疑いようもなかった。その場で、ふざけちらしながら聴いていた曲をいとも簡単に「ええ、もう覚えてしまいました。こうでしょう」と弾きこなす異常な記憶力――。ほんのちょっとした主題を与えられただけで、それを縦横に駆使して一つの楽曲を仕上げてしまう才能――。
モーツアルトの正式の名前は、ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト。モーツアルトは、姓である。
彼は小さな王国ザルツブルグで宮廷副楽長をつとめる音楽家レオポルトのひとり息子であった。5歳違いの姉ナンネルが父のレッスンを受けているのを傍らで遊びながら見ていて、彼はいとも簡単にそれらを覚えてしまうのだった。
6歳のとき、アマデウスは、何かを熱心に書いていた。「何をかいているんだい?」と父親がたずねると、「クラブサン(当時のピアノ)のための協奏曲だよ。もう少しで第1楽章が終わるよ」と鼻歌まじりにペンを動かしながら父にそう言った。
まだ文字を知らないアマデウスの、その書きなぐった楽譜を、父は疑わしげに見ていたが、途中から父親の表情が変わった。
そこには、すでに自立した一つの音楽が存在していることに父親は気がついたのだ。この子は天才だ! 青ざめた顔でレオポルトは思った。
息子を天才だと信じた父親レオポルトの、それから悲惨なまでの努力と献身の日々がはじまる。彼はまず、この小さな息子を天才的なピアニストとして世に知らしめなければならなかった。このため父は姉ナンネルとアマデウスを連れての大旅行を企てる。はじめは西ヨーロッパへ、ついで音楽の先進地イタリアへ。
この時代、音楽の才能に恵まれた者が求めたのは、自分の才能と力量にふさわしい宮廷音楽家の地位につくことだった。父レオポルとが副楽長をつとめるザルツブルグは、この神童にとって、あまりにも片隅の小さな王国でしかなかった。父は息子に自分の夢を託した。
そのためには、まず認められることである。この点において父は有能な演出家であった。アマデウスは至るところで神童の名と盛名をほしいままにし、王侯貴族に謁見し、技を披露した。高価な贈り物を得ることも数知れなかった。だが父が息子のためにいちばん望んでいたウイーンの宮廷やハプスブルク家の宮廷に役職を得ることはできなかった。
一方、サリエリはどうだったか。倒産した商人の息子に生まれた彼は運よく才能を認められて音楽の道に入ることになった。そして努力の末に、ウイーンの宮廷楽長という、世間から尊敬される地位を得た。同時に彼は敬虔なキリスト教徒であった。その彼が、ウイーンに舞い戻ってきたモーツアルトの、作品の一つ一つに衝撃を受ける。
そのころモーツアルトは歌劇に手を染めていた。当時、歌劇は音楽の中でも最も民衆に愛された音楽で、いい歌劇の作者はその圧倒的な讃辞と莫大な報酬を得ることができた。
みずからも歌劇に手をつけていたサリエリは、しかしモーツアルトの「フィガロの結婚」を聴いて衝撃を受ける。
不幸なことに、サリエリはモーツアルトの天才を理解することができた。人々が単にモーツアルトを賞讃しているときに、サリエリばかりは、モーツアルトのアリアの一つ一つに天上の楽想が入っていることをっていた。
映画「アマデウス」のなかでも最も象徴的な場面がそれである。
サリエリは神に語りかける。
神よ、私は忠実な信徒として懸命に音楽の道に励んで参りました。また人間として最も正しい道を歩むように今日まで努力して参りました。そのことは、神よ、あなたがいちばんよくご存じでしょう。
それなのに神は私に、凡庸な才能しか分けてくださらなかった。あのアマデウスが、私の何分の一、神に愛を捧げているというのですか。それなのに、彼の一曲ごと、一節ごとに、私は神を感じるのです。どうしてあのような、神の恩寵としか感じられない天上の楽想が、あのように次々と湧きだしてくるのでしょう。
神への愛――それなら私は決して誰にも負けはしない。音楽の努力だって……。それなのに、神の恩寵は私にではなく、あの若僧に与えられたのですね。
サリエリは身を投げ出して神に抗議する。
この痛切なサリエリの嘆きこそ、プーシキンの創造した主題であった。
現代の奇才ピーター・シェーファーはプーシキンの発想を借り、それに古めかしい数々のエピソードを列ねて脚本を書き、それをミロス・フォアマン監督は映画化し、アカデミー賞をはじめ、数々の賞を総なめにしたのである。
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