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卒都婆小町

2020-04-19 16:32:56 | 詞章
『卒都婆小町』 Bingにて 卒都婆小町 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【僧、従僧の登場】
ワキ、ワキヅレ:山は浅きに隠れ家(が)の、
  山は浅きに隠れ家の、
  深きや心なるらん
ワキ「これは高野山より出でたる
  僧にて候、
  われこのたび都に
  上(のぼ)らばやと存じ候
ワキ:それ前仏(ぜんぶつ)はすでに去り、
  後仏(ごぶつ)はいまだ世に出でず
ワキ、ワキヅレ:夢の中間(ちうげん)に
  生まれ来て、
  なにを現(うつつ)と思ふべき、
  たまたま受けがたき
  人身(にんじん)を受け、
  遇ひ難き如来(にょらい)の
  仏教に遇ひたてまつること、
  これぞ悟りの種(たね)なると
ワキ、ワキヅレ:思ふ心も
  一重(ひとえ)なる、
  墨の衣に身をなして
ワキ、ワキヅレ:生まれぬ前(さき)の
  身を知れば、
  生まれぬ前の身を知れば、
  憐れむべき親もなし、
  親のなければわがために、
  心を留むる子もなし、
  千里(ちさと)を行くも遠からず、
  野に臥し山に泊まる身の、
  これぞまことの住みかなる、
  これぞまことの住みかなる
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや津の国
  阿倍野の松原とかや申し候、
  しばらくこの所に休まばやと思ひ候

【老女(小町)の登場】
シテ:身は浮き草を誘ふ水、
  身は浮き草を誘ふ水、
  なきこそ悲しかりけれ
シテ:哀れやげにいにしへは、
  驕慢(きょうまん)最も甚だしう、
  翡翠(ひすい)の簪(かんざし)は、
  婀娜(あだ)と嫋(たお)やかにして、
  楊柳(ようりう)の
  春の風に靡(なび)くがごとし、
  また鶯舌(おうぜつ)の
  囀(さえず)りは、
  露を含める糸萩(いとはぎ)の、
  託言(かごと)ばかりに散りそむる、
  花よりもなほ珍しや、
  いまは民間(みんかん)
  賤(しず)の女(め)にさへ
  穢(きたな)まれ、
  諸人(しょにん)に恥をさらし、
  嬉しからぬ月日身に積もって、
  百歳(ももとせ)の
  姥(うば)となりて候
シテ:都は人目(ひとめ)つつましや、
  もしもそれとか夕まぐれ
シテ:月もろともに出でて行く、
  月もろともに出でて行く、
  雲居百敷(ももしき)や、
  大内山の山守(やまもり)も、
  かかる憂き身はよも咎(とが)めじ、
  木隠れてよしなや、
  鳥羽の恋塚(こいづか)秋の山、
  月の桂の川瀬舟、
  漕ぎ行く人は誰(たれ)やらん、
  漕ぎ行く人は誰やらん
シテ「あまりに苦しう候ふほどに、
  これなる朽木(くちき)に
  腰をかけて休まばやと思ひ候

【老女、僧の応対】
ワキ「のうはや日の暮れて候、
  道を急がうずるにて候、
  や、これなる乞食(こつじき)の
  腰かけたるは、
  まさしく卒都婆(そとば)にて候、
  教化(きょうけ)して
  退(の)けうずるにて候
ワキ「いかにこれなる
  乞丐人(こつがいにん)、
  おことの腰かけたるは、
  かたじけなくも
  仏体(ぶったい)色相(しきしょう)の
  卒都婆(そとば)にてはなきか、
  そこ立ち退(の)きて
  余(よ)のところに休み候へ
シテ「仏体色相のかたじけなきとは
  のたまへども、
  これほどに文字も
  :見えず
  「刻める形(かたち)もなし、
  ただ朽木とこそ見えたれ
ワキ:たとひ深山(みやま)の
  朽木なりとも、
  花咲きし木は隠れなし
  「いはんや仏体に刻める木、
  などかしるしのなかるべき
シテ:われも賤(いや)しき
  埋もれ木なれども、
  心の花のまだあれば、
  手向けになどかならざらん
  「さて仏体たるべき謂はれはいかに
ワキヅレ:それ卒都婆(そとば)は
  金剛(こんごう)薩埵(さった)、
  仮に出仮(しゅっけ)して
  三摩耶形(さまやぎょう)を行ひたまふ
シテ「行ひなせる形はいかに
ワキ:地水火風空(じすいかふうくう)
シテ:五大(ごたい)五輪(ごりん)は
  人の体(たい)、
  なにしに隔てあるべきぞ
ワキヅレ:形はそれに違(たが)はずとも、
  心功徳(くどく)は変るべし
シテ「さて卒都婆(そとわ)の功徳は
  :いかに
ワキ:一見卒都婆(そとば)
  永離(ようり)三悪道(さんなくどう)
シテ:一念発起(ほっき)
  菩提心(ぼだいしん)、
  それもいかでか劣るべき
ワキヅレ:菩提心あらばなど
  憂き世をば厭(いと)はぬぞ
シテ:姿が世をも厭はばこそ、
  心こそ厭へ
ワキ:心なき身なればこそ、
  仏体をば知らざるらめ
シテ「仏体と知ればこそ
  卒都婆(そとわ)には近づきたれ
ワキヅレ:さらばなど礼(らい)をばなさで
  敷きたるぞ
シテ:とても臥したる
  この卒都婆(そとわ)、
  われも休むは苦しいか
ワキ:それは順縁(じゅんえん)に
  外れたり
シテ「逆縁(ぎゃくえん)なりと
  浮かむべし
ワキヅレ:提婆(だいば)が悪も
シテ「観音の慈悲
ワキ:槃特(はんどく)が愚痴(ぐち)も
シテ「文殊(もんじゅ)の
  :智恵
ワキヅレ:悪と言ふも
シテ:善なり
ワキ:煩悩(ぼんのう)と言ふも
シテ:菩提なり
ワキヅレ:菩提もと
シテ:植木(うえき)にあらず
ワキ:明鏡(みょうきょう)また
シテ:台(うてな)になし
地:げに本来
  一物(いちもつ)なき時は、
  仏も衆生(しゅじょう)も隔てなし
地:もとより愚痴の凡夫(ぼんぷ)を、
  救はんための方便の、
  深き誓ひの願(がん)なれば、
  逆縁なりと浮かむべしと、
  ねんごろに申せば、
  まことに悟れるなりとて、
  僧は頭(こうべ)を地につけて、
  三度礼(らい)したまへば
シテ:われはこのとき力を得、
  なほ戯れの歌を詠む
シテ:極楽の、
  内(うち)ならばこそ悪(あ)しからめ、
  外(そと)はなにかは、
  苦しかるべき
地:むつかしの僧の教化(きょうけ)や、
  むつかしの僧の教化や

【老女、僧の応対(小町の名乗り)】
ワキ「さておことはいかなる人ぞ
  名をおん名乗り候へ
シテ「恥づかしながら
  名を名乗り候ふべし
シテ:これは出羽(でわ)の郡司(ぐんじ)、
  小野の良実(よしざね)が女(むすめ)、
  小野の小町がなれる果てにて
  さむらふなり
ワキ、ワキヅレ:いたはしやな小町は、
  さもいにしへは優女にて、
  花の容(かたち)輝き、
  桂の黛(まゆずみ)青うして、
  白粉(はくふん)を絶やさず、
  羅綾(らりょう)の衣多うして、
  桂殿(けいでん)のあひだに
  余りしぞかし
シテ:歌を詠み詩を作り
地:酔(え)ひを勧むる盃は、
  漢月(かんげつ)袖に静かなり
地:まこと優なるありさまの、
  いっそのほどに引きかへて
地:頭(こうべ)には、
  霜蓬(そうほう)を戴き、
  嬋娟(せんげん)たりし
  両鬢(りょうびん)も、
  膚(はだえ)にかしけて
  墨(すみ)乱れ、
  宛転(えんねん)たりし
  双蛾(そうが)も、
  遠山(えんざん)の色を失ふ
地:百歳(ももとせ)に、
  一歳(ひととせ)足らぬ
  九十九髪(つくもがみ)、
  かかる思ひは有明の、
  影恥づかしきわが身かな
地:頸(くび)に懸けたる袋には、
  いかなる物を入れたるぞ
シテ:今日も命は知らねども、
  明日の飢ゑを助けんと、
  粟豆(ぞくとう)の乾飯(かれいい)を、
  袋に入れて持ちたるよ
地:後ろに負へる袋には
シテ:垢膩(くに)の垢(あか)づける衣あり
地:臂(ひじ)に懸けたる簣(あじか)には
シテ:白黒(はっこく)の慈姑(くわい)あり
地:破れ簑(みの)
シテ:破れ笠
地:面(おもて)ばかりも隠さねば
シテ:まして霜雪(しもゆき)雨露(あめつゆ)
地:涙をだにも抑ふべき、
  袂も袖もあらばこそ、
  今は路頭(ろとう)にさそらひ、
  往き来の人に物を乞ふ、
  乞ひ得ぬ時は悪心(あくしん)、
  また狂乱(きょうらん)の心つきて、
  声変わりけしからず

【老女の憑依】
シテ:のう物賜(ものた)べのう
  「お僧のう
ワキ「なにごとぞ
シテ「小町がもとへ通はうよのう
ワキ「おことこそ小町よ、
  なにとて現(うつつ)なきことをば申すぞ
シテ「いや小町といふ人は、
  あまりに色が深うて、
  あなたの玉章(たまずさ)
  こなたの文(ふみ)
  :かき暮れて降る五月雨の
  「虚言(そらごと)なりとも
  一度の返事ものうて
  :今百歳(ももとせ)になるが報うて、
  あら人恋しや
  あら人恋しや
ワキ「人恋しいとは、
  さておことには
  いかなる者の憑(つ)き添ひてあるぞ
シテ「小町に心を
  懸(か)けし人は多きなかにも、
  ことに思ひ深草の、
  四位(しい)の少将の
地:恨みの数の
  廻(めぐ)り来て、
  車の榻(しじ)に通はん、
  日は何時(なんどき)ぞ夕暮れ、
  月こそ友よ通ひ路の、
  関守はありとも、
  留まるまじや出で立たん

《物着》

【老女の立働き】
シテ:浄衣(じょうえ)の袴(はかま)
  かいとって
地:浄衣の袴かいとって、
  立烏帽子(たてえぼし)を
  風折(かざお)り、
  狩衣(かりぎぬ)の袖を
  うち被(かず)いて、
  人目忍ぶの通ひ路の、
  月にも行く闇にも行く、
  雨の夜も風の夜も、
  木の葉の時雨(しぐれ)雪深し
シテ:軒(のき)の玉水(たまみず)
  とくとくと
地:行きては帰り、
  帰りては行き、
  一夜(ひとよ)二夜(ふたよ)
  三夜(みよ)四夜(よよ)、
  七夜(ななよ)八夜(やよ)
  九夜(ここのよ)、
  豊(とよ)の明(あかり)の
  節会(せちえ)にも、
  逢はでぞ通ふ鶏(にわとり)の、
  時をも変へず暁の、
  榻(しじ)の端書(はしが)き、
  百夜(ももよ)までと通ひ往(い)て、
  九十九夜(くじうくよ)になりたり
シテ:あら苦し目まひや
地:胸苦しやと悲しみて、
  一夜(ひとよ)を待たで
  死したりし、
  深草の少将の、
  その怨念が憑き添ひて、
  かやうに物には、
  狂はするぞや

【終曲】
地:これにつけても
  後(のち)の世を、
  願ふぞまことなりける、
  砂(いさご)を塔(とう)と重ねて、
  黄金(おうごん)の
  膚(はだえ)こまやかに、
  花を仏に手向(たむ)けつつ、
  悟りの道に入らうよ、
  悟りの道に入らうよ

※出典『能を読むⅠ』(本書は観世流を採用)