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2020-10-14 10:10:30 | 詞章
『融』 Bingにて 融 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【旅僧の登場】
ワキ「これは東国方(とうごくがた)より
  出でたる僧にて候、
  われいまだ都を見ず候ふほどに、
  このたび思ひ立ち都に上(のぼ)り候
ワキ:思ひ立つ、
  心ぞしるべ雲を分け、
  舟路(ふなじ)を渡り山を越え、
  千里(ちさと)も同じ
  一足(ひとあし)に、
  千里も同じ一足に
ワキ:夕べを重ね朝ごとの、
  夕べを重ね朝ごとの、
  宿の名残りも重なりて、
  都に早く着きにけり、
  都に早く着きにけり
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや都に着きて候、
  このあたりをば六条(ろくじょう)
  河原(かわら)の院とやらん申し候、
  しばらく休らひ
  一見(いっけん)せばやと思ひ候

【潮汲の老人の登場】
シテ:月もはや、
  出潮(でじお)になりて
  塩竃(しおがま)の、
  うらさびわたる景色かな
シテ:陸奥(みちのく)は
  いづくはあれど塩竃(しおがま)の、
  恨みて渡る老いが身の、
  寄る辺もいさや定めなき、
  心も澄める水の面(おも)に、
  照る月並(な)みを数(かぞ)ふれば、
  今宵ぞ秋の最中(もなか)なる、
  げにや移せば塩竃の、
  月も都の最中かな
シテ:秋は半(なか)ば身はすでに、
  老い重なりて諸白髪(もろしらが)
シテ:雪とのみ、
  積もりぞ来(き)ぬる
  年月(としつき)の、
  積もりぞ来ぬる年月の、
  春を迎へ秋を添へ、
  しぐるる松の風までも、
  わが身の上と汲みて知る、
  潮馴衣(しおなれごろも)袖寒き、
  浦廻(うらわ)の秋の夕べかな、
  浦廻の秋の夕べかな

【老人、僧の応対】
ワキ「いかにこれなる尉殿(じょうどの)、
  おん身はこのあたりの人か
シテ「さん候(ぞうろう)、
  この所の潮汲みにて候
ワキ「不思議や
  ここは海辺(かいへん)にてもなきに、
  潮汲みとは誤りたるか尉殿
シテ「あら何(なに)ともなや、
  さてここをば
  いづくと知ろし召されて候ふぞ
ワキ「この所をば六条河原の院とこそ
  承はりて候へ
シテ「河原(かわら)の院こそ
  塩竃の浦候(ぞうろ)ふよ、
  融(とおる)の大臣(おとど)
  陸奥(みちのく)の千賀(ちか)の塩竃を、
  都のうちに移されたる
  海辺(かいへん)なれば
  :名に流れたる河原の院の、
  河水(かすい)をも汲め
  池水(ちすい)をも汲め、
  ここ塩竃の浦人なれば、
  潮汲みとなど思(おぼ)さぬぞや
ワキ「げにげに陸奥の千賀の塩竃を、
  都のうちに移されたること
  承はり及びて候、
  さてはあれなるは
  籬(まがき)が島候(ぞうろ)ふか
シテ「さん候(ぞうろう)、
  あれこそ籬が島候(ぞうろ)ふよ、
  融の大臣(おとど)常は
  み舟を寄せられ、
  ご酒宴の遊舞(いうぶ)
  さまざまなりし所ぞかし、
  や、月こそ出でて候へ
ワキ「げにげに月の出でて候ふぞや、
  あの籬が島の森の梢に、
  鳥の宿(しゅく)し囀りて、
  しもんに映る月影までも、
  :こしうに返る身の上かと、
  思ひ出でられて候
シテ「何(なに)とただいまの
  面前(めんぜん)の景色が
  お僧のおん身に知らるるとは、
  もしも賈島(かとう)が言葉やらん
  :鳥は宿(しゅく)す
  池中(ちちう)の樹(き)
ワキ:僧は敲(たた)く月下の門
シテ:推(お)すも
ワキ:敲(たた)くも
シテ:古人(こじん)の心
シテ、ワキ:いま目前(もくぜん)の
  秋暮(しうぼ)にあり
地:げにやいにしへも、
  月には千賀(ちか)の塩竃の、
  月には千賀の塩竃の、
  浦廻(うらわ)の秋も半ばにて、
  松風も立つなりや、
  霧の籬の島隠れ、
  いざわれも立ち渡り、
  昔の跡を陸奥の、
  千賀の浦廻を眺めんや、
  千賀の浦廻を眺めん

【老人の物語、慨嘆】
ワキ「塩釜の浦を都のうちに
  移されたる謂(い)はれ
  おん物語り候へ
シテ「嵯峨(さが)の天皇の御宇(ぎょう)に、
  融の大臣
  陸奥の千賀の塩竃の眺望を
  聞こし召し及ばせたまひ、
  この所に塩竃を移し、
  あの難波(なにわ)の
  御津(みつ)の浦よりも、
  日ごとに潮(うしお)を汲ませ、
  ここにて塩を焼かせつつ、
  一生御遊(ぎょいう)の便りとしたまふ、
  しかれども
  そののちは相続して
  翫(もてあそ)ぶ人もなければ、
  浦はそのまま干潮(ひしお)となって
  :池辺(ちへん)に淀む
  溜水(たまりみず)は、
  雨の残りの古き江に、
  落葉散り浮く松蔭の、
  月だに住まで秋風の、
  音のみ残るばかりなり、
  されば歌にも、
  君まさで、
  煙絶えにし塩竃の、
  うら淋(さみ)しくも
  見えわたるかなと、
  貫之(つらゆき)も詠(なが)めて候
地:げにや眺むれば、
  月のみ満てる塩竃の、
  うら淋しくも荒れ果つる、
  後(あと)の世までも
  塩染(しおじ)みて、
  老いの波も返るやらん、
  あら昔恋しや
地:恋しや恋しやと、
  慕へども嘆けども、
  かひも渚の浦千鳥、
  音(ね)をのみ泣くばかりなり、
  音をのみ泣くばかりなり

【老人、僧の応対、老人の中入】
ワキ「いかに尉殿(じょうどの)、
  見えわたりたる山々は
  みな名所にてぞ候ふらん、
  おん教へ候へ
シテ「さん候(ぞうろう)、
  みな名所にて候、
  おん尋ね候へ、
  教へ申し候ふべし
ワキ「まづあれに見えたるは
  音羽山(おとわやま)候(ぞうろ)ふか
シテ「さん候(ぞうろう)、
  あれこそ音羽山候(ぞうろ)ふよ
ワキ「音羽山音(おと)に聞きつつ
  逢坂(おうさか)の、
  関のこなたにと詠みたれば、
  逢坂山もほど近うこそ候ふらめ
シテ「仰せのごとく
  関のこなたにとは詠みたれども、
  あなたにあたれば逢坂の、
  山は音羽(おとわ)の峰に隠れて
  :この辺(へん)よりは見えぬなり
ワキ:さてさて音羽の峰続き、
  次第次第の山並みの、
  名所名所を語りたまへ
シテ「語りも尽くさじ言の葉の、
  歌の中山(なかやま)
  清閑寺(せいがんじ)
  :今熊野(いまぐまの)とは
  あれぞかし
ワキ:さてその末に続きたる、
  里(さと)一叢(ひとむら)の
  森の木立(こだち)
シテ「それをしるべにご覧ぜよ、
  まだき時雨(しぐれ)の秋なれば、
  紅葉も青き稲荷山(いなりやま)
ワキ:風も暮れ行く雲の葉(は)の、
  梢も青き秋の色
シテ「いまこそ秋よ名にし負ふ、
  春は花見し藤の森
ワキ:緑の空も影青き、
  野山に続く里はいかに
シテ:あれこそ夕されば
ワキ:野辺の秋風
シテ:身にしみて
ワキ:鶉(うずら)鳴くなる
シテ:深草山よ
地:木幡山(こわたやま)
  伏見の竹田、
  淀(よど)鳥羽(とば)も
  見えたりや
地:眺めやる、
  そなたの空は白雲の、
  はや暮れ初(そ)むる遠山の、
  峰も木深(こぶか)く見えたるは、
  いかなる所なるらん
シテ:あれこそ大原や、
  小塩(おしお)の山も今日こそは、
  ご覧じ初(そ)めつらめ、
  なほなほ問はせたまへや
地:聞くにつけても秋の風、
  吹くかたなれや峰続き、
  西に見ゆるはいづくぞ
シテ:秋もはや、
  秋もはや、
  なかば更け行く
  松尾(まつのお)の、
  嵐山も見えたり
地:嵐更け行く秋の夜の、
  空澄み昇る月影に
シテ:さす潮時(しおとき)もはや過ぎて
地:暇(ひま)もおし照る月に愛(め)で
シテ:興(きょう)に乗じて
地:身をばげに、
  忘れたり秋の夜の、
  長物語(ながものがたり)よしなや、
  まづいざや潮(しお)を汲まんとて、
  持つや田子の浦、
  東(あずま)からげの潮衣(しおごろも)、
  汲めば月をも、
  袖に望潮(もちじお)の、
  汀(みぎわ)に帰る波の夜(よる)の、
  老人と見えつるが、
  潮曇りにかきまぎれて、
  跡も見えずなりにけり、
  跡をも見せずなりにけり

(間の段)【都人の物語】
(近くに住む都人が、融の生まれや、
陸奥の塩竃の致景に魅せられ、
自邸に模した庭を造らせたこと、
融の没後は荒れ果てたことなどを語る)

【僧の待受】
ワキ:磯枕(いそまくら)、
  苔の衣を片敷きて、
  苔の衣を片敷きて、
  岩根(いわね)の
  床(とこ)に夜もすがら、
  なほも奇特(きどく)を見るやとて、
  夢待ち顔の旅寝かな、
  夢待ち顔の旅寝かな

【融の亡霊の登場】
シテ:忘れて年を経(へ)しものを、
  またいにしへに返る波の、
  満(み)つ塩竃の浦人の、
  今宵の月を陸奥の、
  千賀(ちか)の浦廻も遠き世に、
  その名を残す公卿(もうちきみ)、
  融の大臣(おとど)とはわがことなり、
  われ塩竃の浦に心を寄せ、
  あの籬が島の松蔭に、
  明月に舟を浮かめ、
  月宮殿(げっきうでん)の
  白衣(はくえ)の袖も、
  三五(さんご)夜中(やちう)の
  新月(しんげつ)の色

【融の亡霊の舞】
シテ:千重(ちえ)振るや、
  雪を廻らす雲の袖
地:さすや桂の枝々(えだえだ)に
シテ:光を花と散らすよそほひ
地:ここにも名に立つ白河の波の
シテ:あら面白や
  曲水(きょくすい)の盃(さかづき)
地:受けたり受けたり遊舞(いうぶ)の袖

《早舞》

【終曲】
地:あら面白の遊楽(いうがく)や、
  そも明月のそのなかに、
  まだ初月(はつづき)の宵々に、
  影も姿も少なきは、
  いかなる謂はれなるらん
シテ:それは西岫(さいしう)に、
  入り日のいまだ近ければ、
  その影に隠さるる、
  たとへば月のある夜(よ)は、
  星の薄きがごとくなり
地:青陽(せいよう)の春の始めには
シテ:霞む夕べの遠山(とおやま)
地:黛(まゆずみ)の色に三日月の
シテ:影を舟にもたとへたり
地:また水中の遊魚(いうぎょ)は
シテ:釣り針と疑ふ
地:雲上(うんしょう)の
  飛鳥(ひちょう)は
シテ:弓の影とも驚く
地:一輪(いちりん)も降(くだ)らず
シテ:万水(ばんすい)も昇らず
地:鳥は池辺(ちへん)の樹(き)に
  宿(しゅく)し
シテ:魚(うお)は月下(げっか)の
  波に伏す
地:聞くともあかじ秋の夜(よ)の
シテ:鳥も鳴き
地:鐘も聞こえて
シテ:月もはや
地:影傾きて明け方の、
  雲となり雨となる、
  この光陰(こういん)に誘はれて、
  月の都に、
  入りたまふよそほひ、
  あら名残り惜しの面影や、
  名残り惜しの面影

※出典『能を読むⅡ』(本書は観世流を採用)



道成寺

2020-10-09 14:27:42 | 詞章
『道成寺』 Bingにて 道成寺 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【住僧、従僧、能力の登場】
ワキ「これは紀州(きしう)道成寺(どうじょうじ)の
  住僧(じうそう)にて候、
  さても当寺(とうじ)において
  さる子細あって、
  久しく撞き鐘(つきがね)
  退転(たいてん)つかまつりて候ふを、
  このほど再興し鐘を鋳(い)させて候、
  今日(こんにち)吉日(きちにち)にて候ふほどに、
  鐘の供養をいたさばやと存じ候

【住僧、能力の応対】
ワキ「いかに能力(のうりき)
アイ「おん前に候
ワキ「はや鐘をば鐘楼(しゅろう)へ上げてあるか
アイ「さん候(ぞうろう)、
  はや鐘楼へ上げて候、ご覧候へ
ワキ「今日(こんにち)鐘の供養を
  いたさうずるにてあるぞ、
  またさる子細あるあひだ、
  女人(にょにん)禁制(きんぜい)にてあるぞ、
  構へて一人(いちにん)も入れ候ふな、
  その分心得候へ
アイ「かしこまって候
アイ「皆々承はり候へ、
  紀州道成寺において
  今日鐘の供養の候ふあひだ、
  志(こころざし)の方々は
  皆々参られ候へ、
  また何と思(おぼ)し召し候ふやらん、
  供養の場(にわ)へ女人禁制と
  仰せ出だされて候ふあひだ、
  その分心得候へ、心得候へ

【白拍子の登場】
シテ:作りし罪も消えぬべし、
  作りし罪も消えぬべし、
  鐘の供養に参らん
シテ:これはこの国の
  傍(かたわ)らに住む
  白拍子(しらびょうし)にて候
  「さても道成寺と申すおん寺に、
  鐘の供養のおん入(に)り候ふよし
  申し候ふほどに、
  ただいま参らばやと思ひ候
シテ:月はほどなく入潮(いりしお)の、
  月はほどなく入潮の、
  煙満ち来る小松原、
  急ぐ心かまだ暮れぬ、
  日高(ひたか)の寺に着きにけり、
  日高の寺に着きにけり
シテ「急ぎ候ふほどに、
  日高の寺に着きて候、
  やがて供養を拝まうずるにて候

【白拍子、能力の応対】
アイ「のうのう、
  女人禁制にて候ふほどに、
  供養の場(にわ)へは叶ひ候ふまじ
シテ「これはこの国の
  傍(かたわ)らに住む
  白拍子(しらびょうし)にて候、
  鐘の供養にそと舞を舞ひ候ふべし、
  供養を拝ませてたまはり候へ
アイ「まことにこれはまた、
  ただの女人とはちがひ
  申し候ふあひだ、
  それがしが心得を以て
  拝ませ申さうずるにて候ふあひだ、
  面白う舞を舞ふておん見せ候へ、
  いやをりふし
  これに烏帽子(えぼし)の候、
  これを召して一さしおん舞ひ候へや
シテ「あら嬉しや、
  涯分(がいぶん)舞を舞ひ候ふべし

【白拍子の前奏歌】
シテ「嬉しやさらば舞はんとて、
  あれにまします宮人(みやびと)の、
  烏帽子をしばし仮に着て
  :すでに拍子(ひょうし)を進めけり
シテ:花のほかには松ばかり、
  花のほかには松ばかり、
  暮れそめて鐘や響くらん

【白拍子の舞】
《乱拍子》
シテ:道成(みちなり)の卿(きょう)、
  承はり、
  始めて伽藍(がらん)、
  橘(たちばな)の、
  道成興行(こうぎょう)の寺なればとて、
  道成寺(どうじょうじ)とは、
  名付けたりや
地:山寺(やまでら)のや

《急ノ舞》

シテ:春の夕暮(いうぐ)れ来て見れば
地:入相(いりあい)の鐘に、
  花ぞ散りける、
  花ぞ散りける、
  花ぞ散りける

【白拍子の鐘入り】
シテ:さるほどにさるほどに、
  寺々(てらでら)の鐘
地:月落ち鳥啼(な)いて、
  霜雪(しもゆき)天に、
  満潮(みちじお)ほどなく、
  日高(ひたか)の寺の、
  江村(こうそん)の漁火(ぎょか)、
  愁(うれ)ひにたいして、
  人々眠れば、
  よき隙(ひま)ぞと、
  立ち舞ふやうにて、
  狙ひ寄りて、
  撞(つ)かんとせしが、
  思へばこの鐘、
  恨めしやとて、
  龍頭(りうず)に手をかけ、
  飛ぶとぞ見えし、
  引きかづきてぞ、
  失せにける

(間の段)【能力の立働き】
(白拍子の舞に眠りかけていた能力は、
大音響で目覚め、鐘が落ちていることを発見、
住僧に報告する。女人禁制を守らなかったことで、
住僧に報告しにくく、なすり合う。)

【住僧、能力の応対】
アイ「落ちてござる
ワキ「落ちたるとは
アイ「鐘が鐘楼(しゅろう)より落ちて候
ワキ「何と鐘が鐘楼より落ちたると申すか
アイ「なかなか
ワキ「その謂(い)はればしあるか
アイ「随分念を入れて候ふが落ちて候、
  それにつき思ひ出でて候、
  最前この国の傍(かたわ)らに住む
  白拍子(しらびょうし)にて、
  この鐘の供養を拝ませてくれよと
  申し候ふほどに、
  禁制(きんぜい)のよし申して候へば、
  余(よ)の女人(にょにん)とは変はり、
  舞を舞ふて見せうと申し候ふほどに、
  拝ませてござるが、
  もしさやうの者のわざにても
  ござらうずるか
ワキ「言語道断、
  かやうの儀を存じてこそ、
  かたく女人禁制のよし申して候ふに、
  曲事(くせごと)にてあるぞ
アイ「ああ
ワキ「さりながら立ち越え見うずるにて候
アイ「急いでご覧候へ、
  のう助かりや、助かりや

【住僧の物語】
ワキ「のうのう皆々かう渡り候へ
ワキ「この鐘について女人禁制と申しつる
  謂(い)はれの候ふを、
  ご存じ候ふか
ワキヅレ「いや何とも存ぜず候
ワキ「さらばその謂はれを
  語って聞かせ申し候ふべし
ワキヅレ「懇(ねんご)ろにおん物語り候へ
ワキ「昔この所に、
  真砂(まなご)の荘司(しょうじ)といふ者あり、
  かの者一人(いちにん)の息女を持つ、
  またその頃奥より、
  熊野(くまの)へ年詣(としもう)でする
  山伏のありしが、
  荘司がもとを宿坊と定め、
  いつもかのところに来たりぬ、
  荘司娘を寵愛(ちょうあい)のあまりに、
  あの客僧(きゃくそう)こそ
  汝が夫(つま)よ夫(おっと)よ
  なんどと戯れしを、
  幼な心にまことと思ひ
  年月(ねんげつ)を送る、
  またある時かの客僧、
  荘司がもとに来たりしに、
  かの女夜更け人静まって後、
  客僧の閨(ねや)に行(ゆ)き、
  いつまでわらはをば
  かくて置きたまふぞ、
  急ぎ迎へたまへと申ししかば、
  客僧大きに騒ぎ、
  さあらぬよしにもてなし、
  夜(よ)に紛れ忍び出(い)で
  この寺に来たり、
  ひらに頼むよし申ししかば、
  隠すべき所なければ、
  撞(つ)き鐘を下ろし
  その内にこの客僧を隠し置く、
  さてかの女は山伏を、
  逃すまじとて追っかくる、
  をりふし日高川(ひたかがわ)の水
  もってのほかに増さりしかば、
  川の上下(かみしも)を
  かなたこなたへ走り回りしが、
  一念の毒蛇(どくじゃ)となって、
  川をやすやすと泳ぎ越し
  この寺に来たり、
  ここかしこを尋ねしが、
  鐘の下りたるを怪しめ、
  龍頭(りうず)をくはへ
  七まとひまとひ、
  炎を出だし尾をもって叩(たた)けば、
  鐘はすなはち湯となって、
  つひに山伏を取りおはんぬ、
  なんぼう恐ろしき物語にて候ふぞ
ワキヅレ「言語道断、
  かかる恐ろしきおん物語こそ候はね
ワキ「その時の女の執心残って、
  またこの鐘に
  障礙(しょうげ)をなすと存じ候、
  われ人の行劫(ぎょうこう)も、
  かやうのためにてこそ候へ、
  涯分(がいぶん)祈って、
  この鐘をふたたび
  鐘楼(しゅろう)へ上げうずるにて候
ワキヅレ「もっともしかるべう候

【住僧、従僧の祈祷】
ワキ:水かへって日高川原の、
  真砂(まさご)の数は尽くるとも、
  行者の法力尽くべきかと
ワキヅレ:みな一同に声を上げ
ワキ:東方(とうぼう)に
  降三世明王(ごうさんぜみょうおう)
ワキヅレ:南方(なんぽう)に
  軍荼利(ぐんだり)夜叉(やしゃ)明王
ワキ:西方(さいほう)に
  大威徳(だいいとく)明王
ワキヅレ:北方に
  金剛(こんごう)夜叉明王
ワキ:中央に
  大日(だいにち)大聖(だいしょう)不動
ワキ、ワキヅレ:動くか動かぬか
  索(さっく)の、
  曩謨三(なまくさ)曼陀(まんだ)
  縛曰羅南(ばさらだ)、
  旋多(せんだ)摩訶(まか)
  嚕遮那(ろしゃな)、
  娑婆多耶(そわたや)吽多羅(うんたら)
  吒干●(たかんまん)、
  聴我説者(ちょうがせっしゃ)
  得大智慧(とくだいちえ)、
  知我心者(ちがしんしゃ)
  即身成仏(そくしんじょうぶつ)と、
  いまの蛇身(じゃしん)を祈る上は
ワキ:なにの恨みか有明けの、
  撞(つ)き鐘こそ
地:すはすは動くぞ、
  祈れただ、
  すはすは動くぞ、
  祈れただ、
  引けや手(て)ん手(で)に、
  千手(せんじゅ)の陀羅尼(だらに)、
  不動の慈救(じく)の偈(げ)、
  明王(みょうおう)の火焔(かえん)の、
  黒煙(くろけむり)を立ててぞ、
  祈りける、
  祈り祈られ、
  撞かねどこの鐘、
  響き出で、
  引かねどこの鐘、
  躍るとぞ見えし、
  ほどなく鐘楼(しゅろう)に、
  引き上げたり、
  あれ見よ蛇体(じゃたい)は、
  現はれたり

《祈り》

【終曲】
地:謹請(きんぜい)東方(とうぼう)
  青龍(しょうりう)清浄(しょうじょう)、
  謹請西方(さいほう)
  白帝(びゃくたい)白龍(びゃくりう)、
  謹請中央黄帝(おうたい)黄龍(おうりう)、
  一大(いちだい)三千(さんぜん)
  大千(だいせん)世界の、
  恒沙(ごうじゃ)の龍王(りうおう)
  哀愍(あいみん)納受(のうじゅ)、
  哀愍自謹(じきん)のみぎんなれば、
  いづくに大蛇のあるべきぞと、
  祈り祈られかっぱと転(まろ)ぶが、
  また起きあがってたちまちに、
  鐘に向かって吐(つ)く息は、
  猛火(みょうか)となってその身を焼く、
  日高(ひたか)の川波、
  深淵(しんねん)に飛んでぞ入りにける
地:望み足りぬと験者(げんじゃ)たちは、
  わが本坊(ほんぼう)にぞ帰りける、
  わが本坊にぞ帰りける


※出典『能を読むⅣ』(本書は観世流を採用)