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熊野

2020-06-29 18:48:54 | 詞章
『熊野』 Bingにて 熊野 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【宗盛、従者の登場】
ワキ「これは平(たいら)の
  宗盛(むねもり)なり、
  さても遠江(とおとうみ)の国
  池田の宿(しゅく)の長(ちょう)をば
  熊野(ゆや)と申し候、
  久しく都に留(とど)め置きて候ふが、
  老母(ろうぼ)の労(いた)はりとて
  たびたび暇(いとま)を乞ひ候へども、
  この春ばかりの花見の友と思ひ
  留め置きて候
ワキ「いかに誰(たれ)かある
ワキヅレ「おん前に候
ワキ「熊野来たりてあらば
  こなたへ申し候へ
ワキヅレ「かしこまって候

【朝顔の登場】
ツレ:夢の間(ま)惜しき春なれや、
  夢の間惜しき春なれや、
  咲く頃花を尋ねん
ツレ:これは遠江の国池田の宿、
  長者(ちょうじゃ)の御内(みうち)に
  仕へ申す、
  朝顔と申す女にて候
  「さても熊野
  久しく都におん入(に)り候ふが、
  このほど老母のおん労はりとて、
  たびたび人を
  おん上(のぼ)せ候へども、
  さらにおん下りもなく候ふほどに、
  このたびは朝顔が
  おん迎ひに上(のぼ)り候
ツレ:このほどの、
  旅の衣の日も添ひて、
  旅の衣の日も添ひて、
  幾(いく)夕暮(いうぐ)れの
  宿ならん、
  夢も数(かず)添ふ
  仮枕(かりまくら)、
  明かし暮らしてほどもなく、
  都に早く着きにけり、
  都に早く着きにけり
ツレ「急ぎ候ふほどに、
  これははや都に着きて候、
  これなる御内(みうち)が
  熊野のおん入(に)り候ふ所にて
  ありげに候、
  まづまづ案内を
  申さばやと思ひ候
ツレ「いかに案内申し候、
  池田の宿より朝顔が参りて候、
  それそれおん申し候へ

【熊野、朝顔の応対】
シテ:草木(そうもく)は
  雨露(うろ)の恵み、
  養ひ得ては
  花の父母(ふぼ)たり、
  いはんや人間においてをや、
  あらおん心もとなや
  何(なに)とかおん入(に)り候ふらん
ツレ「池田の宿より
  朝顔が参りて候
シテ「なに朝顔と申すかあら珍しや、
  さておん労(いた)はりは
  何(なに)とおん入(に)りあるぞ
ツレ「もってのほかにおん入り候、
  これにおん文の候、
  ご覧候へ
シテ「あら嬉しや、
  まづまづおん文(ふみ)を
  見うずるにて候、
  あら笑止(しょうし)や、
  このおん文のやうも
  頼み少(すく)のう見えて候
ツレ「さやうにおん入り候
シテ「この上は朝顔をも連れて参り、
  またこの文(ふみ)をも
  おん目にかけて、
  おん暇(にとま)を
  申さうずるにてあるぞ、
  こなたへ来たり候へ

【熊野、従者、宗盛の応対】
シテ「誰(たれ)かわたり候
ワキヅレ「誰(たれ)にて御座候ふぞ、
  や、
  熊野のおん参りにて候
シテ「わらはが参りたるよし
  おん申し候へ
ワキヅレ「心得申し候
ワキヅレ「いかに申し上げ候、
  熊野のおん参りにて候
ワキ「こなたへ来たれと申し候へ
ワキヅレ「かしこまって候
ワキヅレ「こなたへおん参り候へ
シテ「いかに申し上げ候、
  老母の労はりもってのほかに候ふとて、
  このたびは朝顔に
  文を上(のぼ)せて候、
  便(びん)のう候へども
  そと見参(げざん)に入れ候ふべし
ワキ「何と故郷(ふるさと)よりの
  文と候(ぞうろ)ふや、
  見るまでもなし
  それにて高らかに読み候へ
シテ:甘泉殿(かんせんでん)の
  春の夜(よ)の夢、
  心を砕く端(はし)となり、
  驪山宮(りさんきう)の
  秋の夜の月、
  終はりなきにしもあらず、
  末世(まっせ)一代(いちだい)
  教主(きょうしゅ)の如来(にょらい)も、
  生死(しょうじ)の掟(おきて)をば
  のがれたまはず、
  過ぎにし如月(きさらぎ)の頃
  申ししごとく、
  何(なに)とやらんこの春は、
  年古(ふ)り増さる
  朽木桜(くちきざくら)、
  今年ばかりの花をだに、
  待ちもやせじと心弱き、
  老いの鶯(うぐいす)逢ふことも、
  涙にむせぶばかりなり、
  ただしかるべくはよきやうに申し、
  しばしのおん暇(にとま)を
  たまはりて、
  いま一度まみえおはしませ、
  さなきだに
  親子は一世(いっせ)の仲なるに、
  同じ世にだに添ひたまはずは、
  孝行(こうこう)にも
  はづれたまふべし、
  ただ返す返すも
  命の内にいまひとたび、
  見まゐらせたくこそ候へとよ、
  老いぬれば、
  さらぬ別れのありといへば、
  いよいよ見まくほしき君かなと、
  古言(ふること)までも思ひ出の、
  涙ながら書き留む
地:そもこの歌と申すは、
  そもこの歌と申すは、
  在原(ありわら)の
  業平(なりひら)の、
  その身は朝(ちょう)に
  暇(ひま)なきを、
  長岡に住みたまふ、
  老母の詠める歌なり、
  さてこそ業平も、
  さらぬ別れのなくもがな、
  千代(ちよ)もと祈る子のためと、
  詠みしことこそあはれなれ、
  詠みしことこそあはれなれ

【熊野、宗盛の応対】
シテ:いまはかやうに候へば、
  おん暇(にとま)をたまはり、
  東(あずま)に下り候ふべし
ワキ「老母(ろうぼ)の労はりは
  さることなれどもさりながら、
  この春ばかりの花見の友、
  いかでか見捨てたまふべき
シテ:おん言葉を返せば恐れなれども、
  花は春あらばいまに限るべからず、
  これはあだなる玉の緒(お)の、
  永き別れとなりやせん、
  ただおん暇をたまはり候へ
ワキ「いやいやさやうに心弱き、
  身に任せては叶ふまじ、
  いかにも心を慰めの、
  花見の車同車(どうしゃ)にて
  :ともに心を慰まんと
地:牛飼車(うしかいくるま)寄せよとて
ワキ「いかに誰(たれ)かある
ワキヅレ「おん前に候
ワキ「こなたへ車を立て候へ
ワキヅレ「かしこまって候
地:牛飼車寄せよとて、
  これも思ひの家(いえ)の内、
  はやおん出(に)でと勧むれど、
  心は先に行きかぬる、
  足弱車(あしよわぐるま)の、
  力なき花見なりけり

【宗盛一行の道行】
シテ:名も清き、
  水のまにまに尋(と)め来れば
地:川は音羽の山桜
シテ:東路(あずまじ)とても
  東山(ひがしやま)、
  せめてそなたの懐かしや
地:春前(しゅんぜん)に雨あって
  花の開くること早し、
  秋後(しうご)に霜のうして
  落葉(らくよう)遅し、
  山外(さんと)に山あって
  山尽きず、
  路中(ろちう)に道多うして
  道窮(きわ)まりなし
シテ:山青く山白くして
  雲来去(らいきょ)す
地:人楽しみ人愁(うりょ)ふ、
  これみな世上(せじょう)の
  ありさまなり
地:誰(たれ)か言ひし春の色、
  げにのどかなる東山(ひがしやま)
地:四条五条の橋の上、
  四条五条の橋の上、
  老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)
  貴賤(きせん)都鄙(とひ)、
  色めく花衣(はなごろも)、
  袖を連ねて行末の、
  雲かと見えて
  八重(やえ)一重(ひとえ)、
  咲く九重(ここのへ)の
  花盛(ざか)り、
  名に負ふ春の景色かな、
  名に負ふ春の景色かな
地:河原おもてを過ぎ行けば、
  急ぐ心のほどもなく、
  車大路(くるまおおち)や
  六波羅(ろくはら)の、
  地蔵堂(じぞんどう)よと
  伏し拝む
シテ:観音(かんのん)も
  同座(どうざ)あり、
  闡提(せんだい)救世(ぐせ)の、
  方便あらたに、
  たらちねを守りたまへや
地:げにや守りの末直(すぐ)に、
  頼む命は白玉(しらたま)の、
  愛宕(おたぎ)の寺もうち過ぎぬ、
  六道(ろくどう)の辻とかや
シテ:げに恐ろしやこの道は、
  冥途(めいど)に通ふなるものを、
  心ぼそ鳥部(とりべ)山(やま)
地:煙の末も薄霞む、
  声も旅雁(りょがん)の横たはる
シテ:北斗の星の曇りなき
地:御法(みのり)の花も開くなる
シテ:経書堂(きょうかくどう)は
  これかとよ
地:そのたらちねを尋ぬなる、
  子安(こやす)の塔を過ぎ行けば
シテ:春の隙(ひま)行く駒の道
地:はやほどもなくこれぞこの
シテ:車宿り
地:馬(うま)留(とど)め、
  ここより花車、
  折居(おりい)の衣
  播磨潟(はりまがた)、
  飾磨(しかま)の徒歩(かち)路(じ)
  清水(きよみず)の、
  仏のおん前に、
  念誦(ねんじゅ)して、
  母(はわ)の祈誓(きせい)を申さん

【⑦熊野の舞】
ワキ「いかに誰(たれ)かある
ワキヅレ「おん前に候
ワキ「熊野はいづくにあるぞ
ワキヅレ「いまだ御堂(みどう)に御座候
ワキ「何(なに)とて遅なはりたるぞ、
  急いでこなたへと申し候へ
ワキヅレ「かしこまって候
ワキヅレ「いかに朝顔に申し候、
  はや花の下(もと)の
  ご酒宴の始まりて候、
  急いでおん参りあれとの
  おんことにて候、
  そのよし仰せられ候へ
ツレ「心得申し候
ツレ「いかに申し候、
  はや花の下の
  ご酒宴の始まりて候、
  急いでおん参りあれとの
  おんことにて候
シテ「何と
  はやご酒宴の始まりたると申すか
ツレ「さん候(ぞうろう)
シテ「さらば参らうずるにて候
シテ「のうのうみなみな
  近うおん参り候へ、
  あら面白の花や候(ぞうろう)、
  いまを盛りと見えて候ふに、
  何(なに)とて
  おん当座(とうざ)などをも
  あそばされ候はぬぞ
シテ:げにや思ひ内(うち)にあれば、
  色外(ほか)にあらはる
地:よしやよしなき世のならひ、
  歎きてもまたあまりあり
シテ:花前(かぜん)に蝶舞ふ
  紛々(ふんぷん)たる雪
地:柳上(りうしょう)に鶯飛ぶ
  片々(へんぺん)たる金、
  花は流水(りうすい)に従って
  香(か)の来たること疾(と)し、
  鐘は寒雲(かんぬん)を隔てて
  声の至ること遅し
地:清水寺(せいすいじ)の鐘の声、
  祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)を
  あらはし、
  諸行無常の声やらん、
  地主(じしゅ)権現(ごんげん)の
  花の色、
  娑羅(さら)双樹(そうじゅ)の
  理(ことわり)なり、
  生者(しょうじゃ)必滅(ひつめつ)の
  世のならひ、
  げにためしあるよそほひ、
  仏ももとは捨てし世の、
  半ばは雲に上見えぬ、
  鷲のお山の名を残す、
  寺は桂の橋柱、
  立ち出でて峰の雲、
  花やあらぬ初桜(はつざくら)の、
  祇園林(ぎおんばやし)
  下河原(しもがわら)
シテ:南をはるかに眺むれば
地:大悲(だいひ)擁護(おうご)の
  薄霞(うすがすみ)、
  熊野(ゆや)権現(ごんげん)の
  遷ります、
  み名も同じ今熊野(いまぐまの)、
  稲荷の山の薄紅葉(うすもみじ)の、
  青かりし葉の秋、
  また花の春は清水(きよみず)の、
  ただ頼め頼もしき、
  春も千々(ちぢ)の花盛り

【⑧熊野の舞】
シテ:山の名の、
  音は嵐の花の雪
地:深き情けを人や知る
シテ「わらはお酌(しゃく)に
  参り候ふべし
ワキ「いかに熊野
  一さし舞ひ候へ
地:深き情けを人や知る

《中ノ舞》

【熊野の詠歌】
シテ「のうのう、
  にはかに村雨(むらさめ)のして
  花の散り候ふはいかに
ワキ「げにげに村雨の降り来たって
  花を散らし候ふよ
シテ:あら心なの村雨やな
シテ:春雨の
地:降るは涙か、
  降るは涙か桜花、
  散るを惜しまぬ人やある

《イロエ》

【終曲】
ワキ「よしありげなる言葉の種(たね)
  取り上げ見れば
  :いかにせん、
  都の春も惜しけれど
シテ:馴れし東(あずま)の花や散るらん
ワキ「げに道理なりあはれなり、
  はやはや暇(いとま)取らするぞ
  東(あずま)に下り候へ
シテ:なにおん暇(にとま)と
  候(ぞうろ)ふや
ワキ「なかなかのこと、
  とくとく下りたまふべし
シテ:あら嬉しや尊(とうと)やな、
  これ観音のご利生(りしょう)なり
シテ:これまでなりや嬉しやな
地:これまでなりや嬉しやな、
  かくて都にお供せば、
  またもや御意(ぎょい)の変はるべき、
  ただこのままにお暇(いとま)と、
  木綿付(いうつけ)の鳥が鳴く、
  東路(あずまじ)さして行く道の、
  やがて休らふ逢坂の、
  関の戸ざしも心して、
  明け行く後(あと)の山見えて、
  花を見捨つる雁がねの、
  それは越路(こしじ)われはまた、
  東(あずま)に帰る名残りかな、
  東に帰る名残りかな

※出典『能を読むⅢ』(本書では観世流を採用)


定家

2020-06-09 19:05:56 | 詞章
『定家』 Bingにて 定家 竹サポ 能を で検索を推奨。
※「:」は、節を表す記号の代用。

【旅僧の登場】
ワキ、ワキヅレ:山より出づる
  北時雨(きたしぐれ)、
  山より出づる北時雨、
  行方(ゆくえ)や定めなかるらん
ワキ「これは北国(ほっこく)方(がた)
  より出でたる僧にて候、
  われいまだ都を見ず候ふほどに、
  このたび思ひ立ち
  都に上(のぼ)り候
ワキ、ワキヅレ:冬立つや、
  旅の衣の朝まだき、
  旅の衣の朝まだき、
  雲も行き交(こ)ふ
  遠近(おちこち)の、
  山また山を越え過ぎて、
  紅葉(もみじ)に残る眺めまで、
  花の都に着きにけり、
  花の都に着きにけり
ワキ「急ぎ候ふほどに、
  これははや都千本(せんぼん)の
  あたりにてありげに候、
  しばらくこのあたりに
  休らはばやと思ひ候
ワキヅレ「しかるべう候

【僧の独白】
ワキ:面白や頃は
  神無月(かみなづき)十日あまり、
  木々(きぎ)の梢も冬枯れて、
  枝に残りの紅葉の色、
  ところどころのありさままでも、
  都の景色はひとしほの、
  眺めことなる夕べかな、
  あら笑止(しょうし)や、
  にはかに時雨が降り来たりて候、
  これによしありげなる宿りの候、
  立ち寄り時雨を晴らさばやと
  思ひ候

【里女、僧の応対】
シテ「のうのうおん僧、
  何しにその宿りへは
  立ち寄りたまひ候ふぞ
ワキ「ただいまの時雨を
  晴らさんために
  立ち寄りてこそ候へ
シテ「それは
  時雨(しぐれ)の亭(ちん)とて
  よしある所なり、
  その心をも知ろし召して
  立ち寄らせたまふかと、
  思へばかやうに申すなり
ワキ「げにげに
  これなる額(がく)を見れば、
  時雨の亭と書かれたり、
  折から面白うこそ候へ、
  これはいかなる人の
  建て置かれたる所にて候ふぞ
シテ「これは藤原の
  定家(さだいえ)の卿(きょう)の
  建て置きたまへる所なり、
  都のうちとは申しながら、
  心すごく、
  時雨ものあはれなればとて
  この亭を建て置き、
  時雨の頃の年々(としどし)は、
  ここにて歌をも
  詠じたまひしとなり
  :古跡(こせき)といひ
  折からといひ、
  その心をも知ろし召して、
  逆縁(ぎゃくえん)の法(のり)をも
  説きたまひて、
  かのご菩提(ぼだい)を
  おん弔ひあれと、
  勧め参らせんそのために、
  これまで現はれ来たりたり
ワキ「さては藤原の
  定家(さだいえ)の卿の
  建て置きたまへる所かや、
  さてさて時雨をとどむる宿の、
  歌はいづれの言(こと)の葉やらん
シテ「いやいづれとも定めなき、
  時雨の頃の
  年々(としどし)なれば、
  わきてそれとは
  申し難しさりながら、
  時雨時(とき)を知るといふ心を
  :偽りのなき世なりけり
  神無月(かみなづき)
  「誰(た)が誠(まこと)より
  時雨そめけん、
  この詞書(ことがき)に
  私(わたくし)の家にてと
  書かれたれば、
  もしこの歌をや申すべき
ワキ:げにあはれなる言の葉かな、
  さしも時雨は偽りの、
  亡き世に残る跡ながら
シテ:人はあだなる古事(ふること)を、
  語ればいまも仮の世に
ワキ:他生(たしょう)の縁は
  朽ちもせぬ、
  これぞ一樹(いちじゅ)の
  蔭の宿り
シテ:一河(いちが)の流れを
  汲みてだに
ワキ:心を知れと
シテ:折からに
地:いま降るも、
  宿は昔の時雨にて、
  宿は昔の時雨にて、
  心澄みにしその人の、
  あはれを知るも夢の世の、
  げに定めなや定家(さだいえ)の、
  軒端(のきば)の
  夕時雨(いうしぐれ)、
  古きに帰る涙かな、
  庭も籬(まがき)もそれとなく、
  荒れのみまさる
  草叢(くさむら)の、
  露の宿りも枯れ枯れに、
  物すごき夕べなりけり、
  物すごき夕べなりけり

【里女の物語】
シテ「今日(きょう)は
  志(こころざ)す日にて候ふほどに、
  墓所(むしょ)へ参り候、
  おん参り候へかし
ワキ「それこそ出家の望みにて候へ、
  やがて参らうずるにて候
シテ「のうのう
  これなる石塔(せきとう)ご覧候へ
ワキ「不思議やな
  これなる石塔を見れば、
  星霜(せいぞう)古(ふ)りたるに
  蔦葛(つたかずら)這(は)ひまとひ
  形(かたち)も見えず候、
  これはいかなる人の
  標(しるし)にて候ふぞ
シテ「これは式子(しょくし)内親王の
  御墓(みはか)にて候、
  またこの葛(かずら)をば
  定家葛(ていかかずら)と申し候
ワキ「あら面白や定家葛とは、
  いかやうなる謂(い)はれにて候ふぞ、
  おん物語り候へ
シテ「式子内親王
  はじめは賀茂の斎(いつき)の
  宮(みや)にそなはりたまひしが、
  ほどなく下り
  居(い)させたまひしを、
  定家(ていか)の卿忍び忍びの
  おん契り浅からず、
  そののち式子内親王ほどなく
  空(むな)しくなりたまひしに、
  定家の執心(しうしん)葛となって、
  御墓(みはか)に這ひまとひ、
  たがひの苦しみ離れやらず
  :ともに邪淫(じゃいん)の
  妄執(もうしう)を、
  おん経を読み弔ひたまはば、
  なほなほ語り参らせ候はん
地:忘れぬものをいにしへの、
  心の奥の信夫山(しのぶやま)、
  忍びて通ふ道芝の、
  露の世語りよしぞなき
シテ:いまは玉の緒よ、
  絶えなば絶えねながらへば
地:忍ぶることの弱るなる、
  心の秋の花薄(はなずすき)、
  穂に出でそめし契りとて、
  また離(か)れ離(が)れの
  仲となりて
シテ:昔はものを思はざりし
地:後(のち)の心ぞ果てしもなき
地:あはれ知れ、
  霜より霜に朽ち果てて、
  世々(よよ)に古りにし
  山藍(やまあい)の、
  袖の涙の身の昔、
  憂き恋せじと禊(みそぎ)せし、
  賀茂の斎(いつき)の宮にしも、
  そなはりたまふ身なれども、
  神や受けずもなりにけん、
  人の契りの
  色に出でけるぞ悲しき、
  包むとすれどあだし世の、
  あだなる仲の名は洩れて、
  よその聞こえは大方の、
  そら恐ろしき日の光、
  雲の通ひ路絶え果てて、
  少女(おとめ)の姿とどめ得ぬ、
  心ぞつらきもろともに
シテ:げにや嘆くとも、
  恋ふとも逢はん道やなき
地:君葛城(かずらき)の峰の雲と、
  詠じけん心まで、
  思へばかかる執心の、
  定家葛と身はなりて、
  このおん跡にいつとなく、
  離れもやらで
  蔦紅葉(つたもみじ)の、
  色焦がれまとはり、
  荊棘(おどろ)の髪(かみ)も
  結ぼほれ、
  露霜に消えかへる、
  妄執を助けたまへや

【里女の中入】
地:古(ふ)りにしことを聞くからに、
  今日もほどなく
  呉(くれ)服織(はとり)、
  あやしやおん身誰(たれ)やらん
シテ:誰(たれ)とても、
  亡き身の果ては
  浅茅(あさじ)生(う)の、
  霜に朽ちにし名ばかりは、
  残りてもなほよしぞなき
地:よしや草葉の忍ぶとも、
  色には出でよその名をも
シテ:いまは包まじ
地:この上は、
  われこそ式子(しょくし)内親王、
  これまで見え来たれども、
  まことの姿はかげろふの、
  石に残す形(かたち)だに、
  それとも見えず蔦葛(つたかずら)、
  苦しみを助けたまへと、
  言ふかと見えて失せにけり、
  言ふかと見えて失せにけり

(間の段)【里人の物語】
(近くに住む里人が、時雨の亭や、
定家葛の由来を語る)

【僧、従僧の待受】
ワキ、ワキヅレ:夕(いう)べも
  過ぐる月影に、
  夕べも過ぐる月影に、
  松風吹きてものすごき、
  草の蔭なる露の身を、
  念(おも)ひの珠(たま)の数々に、
  弔ふ縁(えん)はありがたや、
  弔ふ縁はありがたや

【式子内親王の登場】
シテ:夢かとよ、
  闇のうつつの宇津の山、
  月にもたどる蔦(つた)の細道
シテ:昔は松風(しょうふう)
  羅月(らげつ)に言葉を交はし、
  翠帳(すいちょう)
  紅閨(こうけい)に枕を並べ
地:さまざまなりし情けの末
シテ:花も紅葉も散(ち)り散(ぢ)りに
地:朝(あした)の雲
シテ:夕(いう)べの雨と
地:古事(ふること)もいまの身も、
  夢も現(うつつ)も
  幻(まぼろし)も、
  ともに無常の、
  世となりて跡も残らず、
  何(なに)なかなかの草の蔭、
  さらば葎(むぐら)の宿ならで、
  外(そと)はつれなき定家葛、
  これ見たまへやおん僧

【式子内親王、僧の応対】
ワキ:あらいたはしの
  おんありさまやな
  あらいたはしや、
  仏(ぶつ)平等(びょうどう)
  説如(せつにょ)一味雨(いちみう)、
  随(ずい)衆生(しゅじょう)
  性所(しょうしょ)
  受不同(じゅふどう)
シテ:ご覧ぜよ
  身はあだ浪(なみ)の
  起居(たちい)だに、
  亡き跡までも苦しみの、
  定家葛に身を閉ぢられて、
  かかる苦しみ隙なき所に、
  ありがたや
シテ:ただいま
  読誦(どくじゅ)したまふは
  薬草(やくそう)
  喩品(ゆほん)よのう
ワキ:なかなかなれや
  この妙典(みょうでん)に、
  洩るる草木(くさき)の
  あらざれば、
  執心の葛(かずら)をかけ離れて、
  仏道ならせたまふべし
シテ:あらありがたや
  「げにもげにも、
  これぞ妙(たえ)なる
  法(のり)の教へ
ワキ:あまねき露の恵みを受けて
シテ:二つもなく
ワキ:三つもなき
地:一味(いちみ)の御法(みのり)の
  雨の滴(しただ)り、
  みな潤ひて
  草木(そうもく)国土(こくど)、
  悉皆(しっかい)成仏(じょうぶつ)の
  機を得ぬれば、
  定家葛もかかる涙も、
  ほろほろと解(と)け広ごれば、
  よろよろと
  足弱車(あしよわぐるま)の、
  火宅(かたく)を出でたる
  ありがたさよ、
  この報恩にいざさらば、
  ありし雲居の花の袖、
  昔をいまに返すなる、
  その舞姫(まいびめ)の
  小忌衣(おみごろも)

【式子内親王の舞】
シテ:面(おも)なの舞の
地:ありさまやな

《序ノ舞》

シテ:面なの舞の、
  ありさまやな

【終曲】
地:面なや面はゆの、
  ありさまやな
シテ:もとよりこの身は
地:月の顔ばせも
シテ:曇りがちに
地:桂(かつら)の黛(まゆずみ)も
シテ:落ちぶるる涙の
地:露と消えても、
  つたなや蔦の葉の、
  葛城(かずらき)の
  神姿(かみすがた)、
  恥づかしやよしなや、
  夜の契りの、
  夢のうちにと、
  ありつる所に、
  返るは葛(くず)の葉の、
  もとのごとく、
  這ひまとはるるや、
  定家葛、
  這ひまとはるるや、
  定家葛の、
  はかなくも、
  形(かたち)は埋(うず)もれて、
  失せにけり

※出典『能を読むⅢ』(本書では観世流を採用)