2011年3月11日、原子力非常事態宣言が発せられ、未だ解除されていません。平時ではありません、戦争が続いているのです。官邸・東日本大震災への対応内に置かれた宣言文→kantei.go.jp/saigai/pdf/kin…★ pic.twitter.com/1WqeTt5YFz
— 龍 隆たつ たかし (@owarano1951) 2018年2月25日 - 07:37
新しいアカウント作りました。旧来のアカウント@owaranoTは当分動きます。2018.2.20開始
— 龍 隆たつ たかし (@owarano1951) 2018年2月25日 - 07:43
新しくブログを作りました「おはら野農園ブログ_この世は猫のみる夢_blog.goo.ne.jp/owarano51。ホームページ(… twitter.com/i/web/status/9…
【自動ツイート】箍の外れた桶の、底が抜けた世相ですが、、諦めずにいこう
— 龍 隆たつ たかし (@owarano1951) 2018年2月25日 - 08:05
【自動ツイート】2011年3月11日、原子力非常事態宣言が発せられ、未だ解除されていません。平時ではありません、戦争が続いているのです。官邸・東日本大震災への対応内に置かれた宣言文★pbs.twimg.com/media/DW1Zza6V…
— 龍 隆たつ たかし (@owarano1951) 2018年2月25日 - 08:20
首相官邸/東日本大震災への対応~首相官邸災害対策ページkantei.go.jp/saigai/report.…内の原子力緊急事態宣言H23ねん3月11日19:03 kantei.go.jp/saigai/pdf/kin…のスクショ★ pic.twitter.com/axo81yQ35O
— 龍 隆たつ たかし (@owarano1951) 2018年2月25日 - 08:52
この議論はいろいろ面白いものを含んでいます。原始時代から懲罰としての暴力はあった。でも、「本人を善導し」「真実に至る」ための拷問的圧力というのは、案外近代的である。告解、拷問、学校や刑務所での反省、国民も「歴史」を「反省」するのが近代の習わしとなった。すべてに共通点がある。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年2月1日 - 19:16
で、アサドはフーコー型の捉え方をしますから、「真実」があるから「反省」するというよりも、「反省」によって「真実」をつくる、「真実」ということにしてしまう、という働きのほうに目をとめているようです。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年2月1日 - 19:16
この話はどこかでロフタスの虚偽記憶の話とつながっています。人間は簡単に自分の記憶をつくってしまう。だから「真実はどうだったんだ!?」という追及は、誘導尋問的に働くとき、過去を塗り替えて「真実」を生産することにつながってしまう恐れがある。その追及の最たるものが拷問の過程である。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年2月1日 - 19:16
もうひとつ、面白いのは、いかにも原始的な「神判」(神明裁判、くがたちのようなもの)が、むしろ古代の集団的な真実生産の儀礼として理解できるという点です。たとえば代闘士(チャンピオン)に代理の決闘をさせて、その結果を、集団と集団の争いの決着に用いる。そんなのが神判です。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年2月1日 - 19:17
代闘士の決闘の論理は一見不思議に見えますが、現代人もスポーツの国際試合などで似たような心理を見せています。選手Aが選手Bに勝つことで、国民Aが国民Bを負かしたような気になる。よーく考えると不合理です。選手の訓練に国家のお金が使われるかもしれないけれども、ずいぶん迂遠な話です。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年2月1日 - 19:17
『歎異抄』ブームでも禅でも「雨ニモマケズ」でも軍国的全体主義に同調しやすかったわけですが、なぜこういうある種の境地を究めたようなものが危ないものになりやすかったのか? 考えてみると、これはそんなに不思議なことではないでしょう。
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年1月28日 - 13:36
写… twitter.com/i/web/status/9…
前近代社会は不合理な慣習や迷信も含めてローカルな組織の連続体でしたが、これをブルトーザーで地ならしし、すっかり標準化したのが近代国家であった。風通しがよくなっただけに、号令ひとつで奈落に転落するのも容易になりました。境地を究めた宗… twitter.com/i/web/status/9…
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年1月28日 - 13:37
宗教というのは不思議なもので、タネも仕掛けもない。古代・中世の習慣だの思想だの迷信だのの総体として機能してきただけで、近代になってそれを合理化したところで、ラッキョの皮むきみたいに雲散霧消してしまうようなところがある。規範に関して… twitter.com/i/web/status/9…
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年1月28日 - 13:38
しかし、チャリティーを菩薩道に読み替え、神を輪廻に読み替えると、危ういところも出てきます。それは個人主義的なテコのようなものが希薄になるということです。賢治の「雨ニモマケズ」はそれ自体としては菩薩道の見本ですが、超越的権威を失うと… twitter.com/i/web/status/9…
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年1月25日 - 14:03
正木晃氏が講演動画「宮澤賢治はなぜ浄土真宗から法華経信仰へ改宗したのか」がなかなか示唆的なことをおっしゃっているのですが、明治以降の仏教再編の中で密教などが後退し、「一神教」的な浄土信仰や法華信仰が前面に出て来る。そのさい、意図的… twitter.com/i/web/status/9…
— 中村圭志 宗教学 (@seattlelubbock) 2018年1月25日 - 14:00