荒木経惟の写真は凄いと思ってきたけれど、その背景で潰される女性たちで成り立ってきたことを、何より陽子さんの写真を通して感じてきた。この女性は16年間、荒木のモデルをつとめた人。一読の価値ある良い文章。その知識、本当に正しいですか?|KaoRi.|note(ノート) https://t.co/TluT4Csa54
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
実は私が一番気になるのは、作家の周りにべったりくっついて、作家をいい気にさせている(おもに)女たちなんだな。アートまわり、芸能周りにいる、そういう人間をちゃんとしたプロのマネジメントを学んだ人間に代えられたらいいのに、と思う。私はそういう女を見かけると、飛び退いて逃げる。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
こないだ、写美の荒木展を見た人たちと語り合ったとき、亡くなる間際の陽子さんの料理の写真をみて「病気で死にかけているのに飯を作らすなんて酷い」と言った若い男性がいた。それに50代の女性たちが、「でもあれ分かるのよ、作ってあげたいわよねぇ」と。「それが女の気持ちってものじゃないの」と。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
私の場合は、酷いとは思わなかった、なぜなら、きっと陽子さんはやりたくてやったのではないかと思ったから。でも、私なら、こうなったらご飯は作らない。だから、それが女ってものだとも思わなかった。ポイントは、この20年で、女性性をめぐる文化や価値観は、実は大きく変わっているということだ。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
いま、男にはりついて「女」で飯を食っている人たちは必死だと思う。男に抵抗する女、男と対等に渡り合う女が増えれば、「女」業は廃業せざるを得なくなる。彼女らは「女」という文化を売って生きているから、その伝統文化を守ることに必死だから。けれど、あと20年たてば、その文化も消えるだろう。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
それが文化である以上、正しさだけでは割り切れぬ、その文化を生きる人間の悲しみや情緒やしがらみや美が付随する。「女」業にはそうしたものがまとわりつく。そこに芸術も生まれてくる。けれど、ひとつの文化が終わる時は来る。古い世界と新しい世界が今ここで出会っている。私はそう考えている。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
かつて、偉大な芸術であることと、卑劣な人間であることは両立してきた。だからといって、卑劣な人間であることが偉大な芸術を生み出すわけではないのはもちろんのこと。ただ、卑劣である人間の悲しみは芸術になるというパラドックス。分かっていることは、苦しみには耳を傾けるべきだ、ということ。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
割り切れないことへの回答を出すには、時間をかけ、誠実に考え、どこまでも真摯に苦しみの当事者に向き合うほかない。なんらかの価値観や文化や正しさ、もちろんポリコレもだが、あらゆる価値観に頼って即断するのはいけない。時間をかけているうちに、私たちよりも先に世の中のほうが先に変わる。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
ともあれ、昼も例のカフェに行って、光のまわりのよいテーブルでごはんを食べつつ、時代と文化と女性性について、夫と熱く語り合ったのでした。男と女は、完全に対等が気持ちいいですよ。確かにそこには情緒は無いんだが。男は「子分」業、女は「女」業、どちらも我々は嫌だと言い続けて20年です。 pic.twitter.com/VT42HYYlla
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月8日
17才のとき、新宿紀伊国屋のブックフェアで大量の荒木経惟の写真集に出会い、立ち読みの果てにぐでんぐでんに酔ったようになって以来、荒木の写真はいつも重たかった。だから私は荒木の写真を凄い。とのみ形容し、好きだと言ったことはない。写美の展示もサラッと見て、カタログも読めないでいた。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
初めて真剣に読んだ。笠原美智子「囚われの荒木」。東京都写真美術館、カタログ、2017年。正直、こんな見事な文章を書くとは思わなかった。大きな枠で見れば、美術館という制度のなかで荒木を持ち上げながら、イメージの持つ問題点を明らかにしている。 pic.twitter.com/CBeOZ43dQn
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
今度のことは、少なくとも、業界内では予測されていた。そう思っていい。私でさえ、近年は、荒木について書くことははっきり躊躇していた。荒木の差し出すものを、差し返す女がいておかしくない。そのことをよく分かったうえで、考え抜かれて書かれたものだろう。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
先も言ったように、それはひとつには、時代の変化であると捉えるべきだ。かつて許されていたことが、今は許されない。だから、時代とともに変わればよく、遡ってまで何かを言おうとは、モデル女性もしてないと私には読めた。だから、業界にとっては、これは良いチャンスだと考えたい。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
学生と話し合ってこよう。
いまから、出来ることを。いまから、誠実に対応を。そのためには、良い機会だったと。今日の授業は、このことを学生たちと話しあってこよう。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
なにしろ授業タイトルは「写真の論点」ですからな。。。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
でっ、でっ、でもね、ちゃぶ台返しするとね、女をいじめなきゃ、私小説なんか書けないってことは、歴代の方々が言ってる話であってですね。ええ。井上ひさしも島尾敏雄も正宗白鳥も同じで。それはまた別の話ね。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
荒木経惟の件。学生が意外なほど冷静に分析していた。1.モデルをつとめる以上、契約書や支払いはちゃんとされるべきだ。2.契約なんかしたら写真のリアリティもなくなるし私写真は成り立たない。 3. こういう写真のできる時代は終わった。という矛盾した観点を理解できる写真学生たちでよかった。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
私写真の背景に私小説を置いてみれば、その裏側に潰される弱者がいることも、その弱者が実に抑圧者との共犯関係であることもすぐわかる。そのことを学生たちは見事に捉えていた。荒木の写真は凄い。けどもやもやする。好きじゃない。でも凄い。好きかもしれない。どうしたらいいかわからない、云々
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
再び、笠原美知子。
それが笠原美智子の言う荒木の「逆説」なのか。身をもって終わりつつある私写真を演じたこと。ついに告発されたこと。それは終わりの見えていた荒木の逆説的な上演だというのは、きっと穿ちすぎだ。けれどこの数年、私を覆っていた予感もまた、荒木の私写真はどのように終わるのかということだった。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
荒木の「私写真」は終わる。
荒木の「私写真」は終わる。この20年は、荒木が世界的にスターダムにのし上がる20年だった。私は1999年の現美内覧会で荒木経惟を初めて見てから、彼がアンダーグラウンドからオーバーグラウンドを駆け上っていくのを遠くから見てきた。その間、間近でそれを見ていた人の告発は1つの時代を終わらせた。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
女たち、女たち、女たち。
「私写真」があらかじめ含んでいた、弱者を共犯者にして成り立つ、見る者の権力性があらわになったからこそ、「私写真」は終わらなければならない。特に家庭やプライベートな領域の撮るものと撮られるものとの非対称性があらわになり、それが告発されている以上、その方法論はいつか終わる。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
荒木経惟がひどい人どうかは、告発した当人にとってしか大事なことではない。人は矛盾する存在。アーティストならなおのことだろう。しかし重要なのは、荒木の表現の質こそが、彼女が荒木を告発する最大の理由だというそのことを、私たちはちゃんと捉えなけらばならないはずだ。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
荒木の「私写真」という領域は、家庭の中で囲われたり、社会の中で「女」を演じたり、それを売り物にし、させられている女たちがあって成り立ってきた。それは人生の痛ましい真実であって私たちの心を打つ。けれども、もう、その痛みは充分なんだよ。それが彼女の告発だろうと思う。それに応えたい。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
少なくとも荒木は凄まじい熱量で、彼女らを踏みにじりながら彼女たちの真実に向き合ってきた。その彼が無謬であるはずはなく、芸術が言い訳になるとも彼は思ってないだろう。多くの彼女たち。私はその多くの彼女たちの写真を見てきたよ。そこに立ち会わせてくれたことには、感謝さえ、している。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
女たち、女たち、女たち。金子光晴の詩に出てくる、吉行淳之介の小説に出てくる、女たち。島尾敏雄の、井上ひさしの、妻たち。愛の名の元に行われる抑圧を、甘受することの中にある陶酔も自己破壊も、表裏一体。私に言えることは、女はもうそんなふうに生きてはいけないんだよ、ということ。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
それは今から始まることだ。大丈夫、始められる。それは、あの文章に書かれた、彼女の決心だったと、私はそう読んだ。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
私写真が含む男と女の非対称性の問題で、人間の善し悪しを言ったらアーティストなんか悪人ばかりだよ。
人を斬ることが好きな人は、荒木経惟を酷いやつだと言えばいい。事実、そんな証拠はいくらでもある。素晴らしい人だという証拠もいくらでもある。これはこの業界が抱える問題であるとともに、私写真が含む男と女の非対称性の問題で、人間の善し悪しを言ったらアーティストなんか悪人ばかりだよ。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
人を叩いて満足したい奴が、お祭り騒ぎをするのは好きじゃない。私は長年、荒木の写真と付き合ってきた。私はフェミニストだ。だからこの件について、自分の意見を述べた。以上、この項おわり。
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
荒木経惟氏の一件について「意見」を言うのはおしまい。
「私写真」についての資料です。
荒木経惟氏の一件について「意見」を言うのはおしまい。「私写真」についての資料です。陽子さんの写真がカメラ毎日1972.10に掲載されたときの論考。神格化のない眼差しでで、どこの山のものとも知れぬ若者の写真を、アマチュアイズムと位置付けた論考です。写真家の妻は、なぜ撮られたのか。 pic.twitter.com/yHbkaCHd01
— masako toda (@kumamuta) 2018年4月9日
大体の仕業に対する猫の弁明 pic.twitter.com/qDT8LmQFy4
— シギサワカヤ@お前は俺を殺す気か全5巻発売中 (@ktos_tw) 2017年6月26日
2018年4月10日 初稿 (訂正をしているうちに、ツイートの順が乱れてしまったようだ。落ち着いてやり直す前のラフです)
ブログへツイートを貼り直すのは、下から上に時系列が進むツイッター(ほかでもこれは多い)は眩暈がするのです
追加。この高橋源一郎のツイートか。
ぼくが読み得た、この問題について書かれた論考の中で、もっとも「長い射程」を持つものだと思った。さらにその先を考えることで、得るものは大きいと思う。 https://t.co/3xXy9f3OGD
— 高橋源一郎 (@takagengen) 2018年4月9日
https://twitter.com/kumamuta/status/983198977397964800
https://twitter.com/sasuke_inoue28
修羅の棲む家/西館好子/はまの出版1998 /長浜・浅井(閉架・虎姫・湖北/滋賀ほか
才能の森_現代演劇の創り手たち/扇田昭彦/朝日選書2005 近江/長浜/滋賀ほか
~井上ひさし-複雑な喜劇的多面体~
2018年4月14日 追加
2018年05月27日 09時59分15秒
2018年5月27日 追加
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