2018.5.28追悼常野雄次郎⑷-3
「構造的貧困」を本気で考えるために―無力からの出発 /栗田隆子/オルタ2007年10月号|栗田隆子
エコロジカル・フェミニズム再考─「オルタナティブ」を実践するために/栗田隆子/オルタ2008年7・8月号|栗田隆子
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「構造的貧困」を本気で考えるために―無力からの出発 /栗田隆子/オルタ2007年10月号|栗田隆子
フリーターとなってどんなに働いても時給は頭打ち、働けば働くほど心身磨り減り、自分がどこに向かっているのかもよく分からず、うずくまる―。そんな状態のときに、それは「あなたのせいではない」「それは社会構造のせいだ」と言われると、一瞬、解放された気持ちになる。自分の選択の軽はずみ、先見の明のなさ、愚かさが免責された、そんな気分になる。自分で自分を責めていればいるほど。
しかし今の私は、強烈にこう思ってしまう。"So What?"―「だから、なに?」と。 フリーターや、さらに路上生活に追い込まれる若年層の存在は、ここ一年ほどで見る見るうちにマス・メディアでも取り上げられるようになった。私たちが出した雑誌『フリーターズフリー』もその流れのなかで出版されたわけで、結果論的に言えば、時流に乗ったことになるのだろう(実際は、最初のメンバーが出会った時から数えて5年かかっているのだが)。ところがその時流のなかで、「自分が免責された」という感覚だけでは、むしろ先が見えなくなってしまったのだ。いったい何が私に起きているのだろう?
貧困を「自己責任」ではなく社会の「構造」として捉えようと、「構造的貧困」という言葉も生まれている。その姿勢はとても重要だとは思う。しかし「構造」という言葉を、「免責」のためだけに使用していったとしたら、それはひどくさみしい光景だ。私は、わるくない、わるくない、わるくない……。その光景から見えるものが結果として「敵」か自分を許す「同志」だけであるならば、なんと世界の幅が狭くなってしまうことだろう。
そうして、フリーター問題は流行(のよう)になり、流行が過ぎ、マス・メディアが取り上げなくなったとき、フリーター問題も解決されたと見なされるのではないか、と半ば被害妄想気味に思ってしまうのだ。フリーター問題がただの「時流」と化した時、フリーターが、否、「仕事」からあらゆる形で馴染み得なかった(ように見える)人々が、フリーターとも、ましてやプレカリアートとも名指されず、ただの名無しに戻り、無関心という暴力に晒されていくのではないか、と。
障害者とも名指せないような漠然とした心身の不調を抱えた人、仕事先から排除されたのか、幾度かの挫折の後に自分から身を引いているのか、その境が極めてあやふやな人、生活保護を受け「生命」を維持していても、人との関わりを見出せず死の孤独と差し向かいにいる人、どのようなイベントにもノレない引きこもり者、高齢でなおかつ長期化した路上生活者……。
それこそあらゆる相のもとに不安定な人が、再びこのままでは取り残されていくのではないか? 結果的にではあれ、「時流」に乗って雑誌を出した人間の一人としての責任も感じている。仮に数年後にそのような状況になったとするならば、それこそ「構造」を変え得なかった何よりの証左となってしまう。そうして私は私自身のささやかな生活すらも結局は変え得ず、変わらず、ウツ状態の心身の絶不調のままであるとするならば、単純にもう「生きられないよ」と思ってしまう。
だからこそ、ウツ持ちの独身女が、言葉を発するだけではなく、同時進行的に、そして具体的に、誰かと関わり働き続けることにこそ、一縷の可能性を見たい。この「ウツ持ちのサエない女」の私を生きるということ、その生を受け止めることと、働くことをどう摺り合わせてゆけばよいのか。そこにこそ、「個人」と「構造」の真の関係を見てゆきたい―というか、今の私にはそれしかないのだ。
とはいえ、この「不安定労働」という問題は「流行り」の問題では決してなかった。常に常に取り残されてきた。だからこそ形を変え、気味の悪い不死鳥、あるいは鵺(ぬえ)のごとく、何度も何度も出現してくるように見える。
それこそ元来は「構造的貧困」を考える立場であろう行政機関等が、「構造的貧困」を打撃するのではなく、常に「個人」としての「貧困者」を打撃しているのだから(公園に住んでいる路上生活者に対し、有無を言わせず「代執行」という名のもとに排除していく構図は、何度も繰り返されている)、この国では「構造的貧困」などというものを「認識」すること自体が難しいことなのかもしれない。それゆえ「構造」という言葉を自己免責のために使うだけでは、実に狭く、もったいない話なのではないだろうか。
もっと言おう。フリーター達が自己責任だと思いたいというその背景には「自分にはこの事態を改善できる力がある」と思いたい、自分の力を信じたい、そういう切ない願いがあることを、無視したくない。その願いのなかに「構造」という言葉が入り込むことは、実はとってもとっても残酷なことなのだ。「社会人」などという恐ろしい言葉があるが、「仕事をする」ことが「社会の人」になるということであれば、その「社会」に「構造」というものが存在しているのであれば、「自分」の力というものをどれだけ尽くし、足掻き、頑張っても、「お前は無力」と突きつけられることに等しい。自分がどんなに足掻いても「逃げ場はない」ということを、身をもって知らされることだ。
貧困は構造的問題だ、というその言葉をそのまま裏返すと、一人の人間の努力だけではどうにもならないということ、つまり個々人の「無力」について考えざるを得ない。だからこそ私たちはつながりを求めるわけだが、そのつながりはいわゆる「同志」という関係よりは数段複雑なものとなると直感的に思う。たとえば、「賃金を上げる」「休暇の確保」という具体的な「目的」―それはそれで重要な運動であるのはもちろんだが―に立ち向かう団結の力強さというより、一人ひとりの努力の限界を、身をもって知った上での関係に思いを馳せてしまう。
それは集団の高揚とは程遠く、革命とも距離を置いた、静かな関係だろう。その関係は、硬直した「構造」から解放され、ほんとうに人と人とが出会い直していくプロセスそのものとなるはずである。そのプロセスは、「フリーター」も、そしておそらくフリーターとは呼ばれない「一般社会人」の人々も味わったことのない経験かもしれない。それは自己責任という言葉で責められる孤独の辛さではない、人と人とが真に出会うときのいわば「苦労」の経験であり、その苦労を味わいたいなどといったら、あまりに古風で笑われるだろうか。
だからこそ、私が働ける場を創りたい。正直私が働いた方が却って他人に対して迷惑となることもある。迷惑になるから働かないのではなく、だからこそ働きたいのだ。仕事における「迷惑」や「トラブル」のなかに潜む力を認めることが「無力」であること、そして関係を持つ「苦労」の出発点だ。そしてその力が「個」と「構造」の両方を変えていくのだと、時に投げやりに、時にマジメに信じながら、少しずつ、本当の意味で多様であること、そしてその面白さを具現化してゆきたいと思っている。
くりた・りゅうこ/1973年東京生まれ。『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房)に経験者として寄稿。学生時はシモーヌ・ヴェイユについて研究。ミニコミ・評論紙等において不登校・フェミニズムについての論考を発表。現在、国立保健医療科学院非常勤職員。
(PARC)
しかし今の私は、強烈にこう思ってしまう。"So What?"―「だから、なに?」と。 フリーターや、さらに路上生活に追い込まれる若年層の存在は、ここ一年ほどで見る見るうちにマス・メディアでも取り上げられるようになった。私たちが出した雑誌『フリーターズフリー』もその流れのなかで出版されたわけで、結果論的に言えば、時流に乗ったことになるのだろう(実際は、最初のメンバーが出会った時から数えて5年かかっているのだが)。ところがその時流のなかで、「自分が免責された」という感覚だけでは、むしろ先が見えなくなってしまったのだ。いったい何が私に起きているのだろう?
貧困を「自己責任」ではなく社会の「構造」として捉えようと、「構造的貧困」という言葉も生まれている。その姿勢はとても重要だとは思う。しかし「構造」という言葉を、「免責」のためだけに使用していったとしたら、それはひどくさみしい光景だ。私は、わるくない、わるくない、わるくない……。その光景から見えるものが結果として「敵」か自分を許す「同志」だけであるならば、なんと世界の幅が狭くなってしまうことだろう。
そうして、フリーター問題は流行(のよう)になり、流行が過ぎ、マス・メディアが取り上げなくなったとき、フリーター問題も解決されたと見なされるのではないか、と半ば被害妄想気味に思ってしまうのだ。フリーター問題がただの「時流」と化した時、フリーターが、否、「仕事」からあらゆる形で馴染み得なかった(ように見える)人々が、フリーターとも、ましてやプレカリアートとも名指されず、ただの名無しに戻り、無関心という暴力に晒されていくのではないか、と。
障害者とも名指せないような漠然とした心身の不調を抱えた人、仕事先から排除されたのか、幾度かの挫折の後に自分から身を引いているのか、その境が極めてあやふやな人、生活保護を受け「生命」を維持していても、人との関わりを見出せず死の孤独と差し向かいにいる人、どのようなイベントにもノレない引きこもり者、高齢でなおかつ長期化した路上生活者……。
それこそあらゆる相のもとに不安定な人が、再びこのままでは取り残されていくのではないか? 結果的にではあれ、「時流」に乗って雑誌を出した人間の一人としての責任も感じている。仮に数年後にそのような状況になったとするならば、それこそ「構造」を変え得なかった何よりの証左となってしまう。そうして私は私自身のささやかな生活すらも結局は変え得ず、変わらず、ウツ状態の心身の絶不調のままであるとするならば、単純にもう「生きられないよ」と思ってしまう。
だからこそ、ウツ持ちの独身女が、言葉を発するだけではなく、同時進行的に、そして具体的に、誰かと関わり働き続けることにこそ、一縷の可能性を見たい。この「ウツ持ちのサエない女」の私を生きるということ、その生を受け止めることと、働くことをどう摺り合わせてゆけばよいのか。そこにこそ、「個人」と「構造」の真の関係を見てゆきたい―というか、今の私にはそれしかないのだ。
とはいえ、この「不安定労働」という問題は「流行り」の問題では決してなかった。常に常に取り残されてきた。だからこそ形を変え、気味の悪い不死鳥、あるいは鵺(ぬえ)のごとく、何度も何度も出現してくるように見える。
それこそ元来は「構造的貧困」を考える立場であろう行政機関等が、「構造的貧困」を打撃するのではなく、常に「個人」としての「貧困者」を打撃しているのだから(公園に住んでいる路上生活者に対し、有無を言わせず「代執行」という名のもとに排除していく構図は、何度も繰り返されている)、この国では「構造的貧困」などというものを「認識」すること自体が難しいことなのかもしれない。それゆえ「構造」という言葉を自己免責のために使うだけでは、実に狭く、もったいない話なのではないだろうか。
もっと言おう。フリーター達が自己責任だと思いたいというその背景には「自分にはこの事態を改善できる力がある」と思いたい、自分の力を信じたい、そういう切ない願いがあることを、無視したくない。その願いのなかに「構造」という言葉が入り込むことは、実はとってもとっても残酷なことなのだ。「社会人」などという恐ろしい言葉があるが、「仕事をする」ことが「社会の人」になるということであれば、その「社会」に「構造」というものが存在しているのであれば、「自分」の力というものをどれだけ尽くし、足掻き、頑張っても、「お前は無力」と突きつけられることに等しい。自分がどんなに足掻いても「逃げ場はない」ということを、身をもって知らされることだ。
貧困は構造的問題だ、というその言葉をそのまま裏返すと、一人の人間の努力だけではどうにもならないということ、つまり個々人の「無力」について考えざるを得ない。だからこそ私たちはつながりを求めるわけだが、そのつながりはいわゆる「同志」という関係よりは数段複雑なものとなると直感的に思う。たとえば、「賃金を上げる」「休暇の確保」という具体的な「目的」―それはそれで重要な運動であるのはもちろんだが―に立ち向かう団結の力強さというより、一人ひとりの努力の限界を、身をもって知った上での関係に思いを馳せてしまう。
それは集団の高揚とは程遠く、革命とも距離を置いた、静かな関係だろう。その関係は、硬直した「構造」から解放され、ほんとうに人と人とが出会い直していくプロセスそのものとなるはずである。そのプロセスは、「フリーター」も、そしておそらくフリーターとは呼ばれない「一般社会人」の人々も味わったことのない経験かもしれない。それは自己責任という言葉で責められる孤独の辛さではない、人と人とが真に出会うときのいわば「苦労」の経験であり、その苦労を味わいたいなどといったら、あまりに古風で笑われるだろうか。
だからこそ、私が働ける場を創りたい。正直私が働いた方が却って他人に対して迷惑となることもある。迷惑になるから働かないのではなく、だからこそ働きたいのだ。仕事における「迷惑」や「トラブル」のなかに潜む力を認めることが「無力」であること、そして関係を持つ「苦労」の出発点だ。そしてその力が「個」と「構造」の両方を変えていくのだと、時に投げやりに、時にマジメに信じながら、少しずつ、本当の意味で多様であること、そしてその面白さを具現化してゆきたいと思っている。
くりた・りゅうこ/1973年東京生まれ。『子どもたちが語る登校拒否』(世織書房)に経験者として寄稿。学生時はシモーヌ・ヴェイユについて研究。ミニコミ・評論紙等において不登校・フェミニズムについての論考を発表。現在、国立保健医療科学院非常勤職員。
(PARC)
エコロジカル・フェミニズム再考─「オルタナティブ」を実践するために/栗田隆子/オルタ2008年7・8月号|栗田隆子
私は10代に出会ったフェミニズムにいまだに恩義を感じている人間である。ほんとうに、素朴に「感謝」という言葉抜きにフェミニズムとの出会いを語ることはできない。それこそ既存の「家父長的」な社会(日本では≒会社?)制度、さらにそれを影で支えるような形で包含されていた家族制度、その「社会」や「家族」に殉じて生きていくことが少なくとも中立的な、普遍的な「生き方」ではないということ、「オルタナティブ」を試みてもよいということ、それを教えてくれた存在のひとつが、私にとってはフェミニズムだった。
それこそ70年代に「ウーマン・リブ」に出会った人々の多くが、まずはリブとの「出会い」について語っていたように、私自身もまた語ってしまう。その「出会い」と「語り」がどれだけ私のからだの緊張を解いてくれたことか。「あなたに出会えなければ、こんなところでこんなふうに語ることのできる私はいなかった、ありがとう、おっかさん」などとなんだか本末転倒な浪花節をうっかり口にしそうな勢いなのである。
*
しかし最近、果たしてどうなのだろうかと思う気持ちがぬぐえない。なぜなら「オルタナティブ」を生きていいんだと思ったものの、その「オルタナティブ」を現実にどう作り出したらいいのか、私自身手をこまねいているからだ。「オルタナティブ」を求めて生きていってもいいんだと一方で感じつつ、どうやったらその「オルタナティブ」を具現化してゆけばいいのか、実践していけばいいのか、と。それこそからだが弱くてもうつでも、また子どもを抱えていてもそれなりに生きていける社会などあるのかと。
「私はフェミニズムは終わったと思ってる(笑)。高校で家庭科が男女共修になったときにもうすべてテーブルの上に載った。あとはそれを実践していくだけ。もちろんその過程は長い長い、それこそ永遠に続くものかもしれないけど」(註1)という駒尺喜美(註2)の言葉を思い出す。これはあまりに極端だとは思うけれど(後ほど語るように「家」に対する言葉≒思想はまだ少ないと感じる)、たしかにその「実践」の過程の長さこそが思想の底力を現すはずだ。
もちろん、フェミニズムは言葉だけではなく地道な実践を積み重ねてきたのは事実だ。福祉や食の分野を開拓してきた、主婦たちを中心として結成されたワーカーズコレクティブ、セクシュアル・ハラスメント概念の確立、ドメスティック・バイオレンスの告発、男女雇用機会均等法、どれをとっても重要なものばかり。だから決して「実践」がない、などということはないのに、21世紀を生きる私はどうしてこんな気分になるのだろう。オルタナティブな生き方を志向する人は一定数存在しているのに(この雑誌の名前だってまさに『オルタ』だ)、どうしてこんなに暗い夜道を歩いているような心細さに駆られるのだろう。甘えた気分を承知で言えば、どうしてこんなに突き放された思いを味わうのかと。たとえばこんな風景を見たとき、そうした気持ちが増幅されてしまう。
*
先月(2008年5月)下旬に、普通は真夏の空から登場するはずのもくもくした入道雲を発見してしまった。あまりに不気味で大きく、思わず「きのこ雲」という不穏な言葉が口についた。奇妙な違和感を覚えながら、その日は仕事帰りに新宿に寄った。新宿東口。日本のなかで、最も人と物とが行き交う場所と言っても過言ではない。
その東口近くのブランドショップには、「エコバッグ」が飾られていた。煌々と光るディスプレイに、山のようにカラフルなエコバッグがあった。そうしてディスプレイの左隅には、これ見よがしの風船のような地球儀。「地球を救おう」というモチーフと思われるが、それよりもむしろあのエコバッグがどんなふうに作られて、新宿までたどり着いているのかと思うとため息が出る。しかもそこに「エコロジカル」という名がついてくるあたりにゾッとする。いや、このエコバッグはエコロジカル・バッグではなく「エコノミー・バッグ」なんだろうな。
ちなみにエコロジーもエコノミーも、語源をさかのぼればギリシア語のオイコノミクス、すなわち「まったき家の経済」という言葉にぶつかる。エコロジーは生物学では捉えきれない有機的な関係を捉えようと、一九世紀にドイツの動物学者ヘッケルが造った言葉だ。
エコロジーとエコノミーのぶつかるところが「家」というのもなかなか皮肉な気持ちにさせられる。今や一般的にエコノミーという言葉で表される市場経済はエコロジーを吸収し、エコロジーは企業的な活動の一端を担う形にもなっている。そこには「家」的なものもすべて、消費できるものは消費してしまおうという勢いがある。
そうだ、私のこの「突き放された感覚」というのは、まさに「消費社会」という、陳腐ながら最も勢いのある力によってもたらされているのかもしれない。しかも、ともすれば、私も生きている限りは何かを着たり、食べたり、飲んだりするのだから、消費と無縁ではいられない。だからこそ「家」的な感性、市場的ではない、公的ではないものに対する概念の深まりがなければ、どんなにそのオルタナティブを大事にしようとしても、市場や行政にからめ取られ、市場や行政の「補助」というまさに女性的な枠にはめられてしまう。オルタナティブの骨子と言うのは、まさにその「補助」という位置におかれた様々な労働や営みをどう捉えるかというところにある。
*
消費主義、などというのは何もきのう今日に始まったものではない。だいたい私は生まれてからずっとそういう世界のなかで生きている。そして10代だった1980年代の日本はそれこそバブルの時代、今ほど捻りなく「おおらかに」消費主義を生きていたといっても過言ではあるまい。そんな時期に「家」的な営みのなかにある原理こそが、市場・行政の背骨にあると思われる家父長的な制度を撃つものであると主張したのがエコロジカル・フェミニズム(註3)だった。
ところが、その家父長制を撃つ原理を「女性原理」と名づけるも、その「女性」という概念こそは当の家父長制が作ったものだとツッコミを受け、哀れ討ち死にした(ように見える)エコロジカル・フェミニズム。略してエコフェミ、はいわゆる一般的なフェミニズムとは違うものを掴もうとし、しかし言葉が――それこそ思想が――足りずにそのまま打ち捨てられた、そんな印象を残している。
「一般的なフェミニズム」と書いたが、そのイメージとは、たとえば赤木智弘さんが著書『若者を見殺しにする国』(双風舎)で語る、「女性は男性の付属物ではなく、自立した存在である。自立した存在として社会で活躍するためには、男性と同等の権利が必要である」(傍点引用者)といったものである。
たしかに、その男性と同等の権利だって、女性は獲得していない。何せILO(国際労働機関)の公式発表によれば、「女性は世界の労働の3分の2を行っているにもかかわらず、収入は5%でしかなく、資産は1%にすぎない」(註4)のだから。
経済的な平等が真に実現されることすらなく、結局は「男」あっての「女」、「市場経済」あっての「生命維持労働」とでもいう位相は微塵も変わらぬように思える。そしてここが難しいところなのだけれど、男女間の経済的な平等を実現することが今の市場原理でほんとうに可能なのかどうかということだ。経済的な平等という一見最も基礎的な平等を実現するために、この市場経済というものをどう捉えたらいいのか。その問いを飛ばして私は次には進めない。
もっとも、そんな足踏みなどとは全く関係なく、市場はエコロジー的な何かをたくみに表層的に取り入れながら、したたかに成長を続けている。その果てのエコバッグだ。
*
だがエコロジカル・フェミニズムの最も良質な部分を蘇らせるとしたら、間違いなく経済に手をつけること、しかもその語源から手をつける、すなわち働き方も含め「家」という存在をいじる必要がある。「公」と対立する(あるいは対立させられた)「私」としての「身体」や「家」や「自然」。その概念・思想をおそらく経済概念と働き方を変える方向に向かわせ深化させること。それこそ「俺は家族のために働いている」という言葉が成立しない方向へ向かうこと。
エコロジー運動の中では、「母」「自然」という言葉が登場することがある。母になり、子どもを通じて食生活や地球環境に気を配るようになるといった話を否定する気はない。しかし一方で、私たちは反自然なものに一杯囲まれて生きている。それこそ出生前診断もできるような状況の中で、「身体的な機能(子を産むことも含めて)」=「自然」と捉えられるほど無邪気な場所に私たちはいない。例えば私は独身だ。もしかしたらこれほど反自然な状態はないのかもしれない。
しかしこの反自然な状態のままで「消費されない」営みへアプローチすること。それこそが「家」という概念を深め、多様化させ、市場的なものをいたずらに拡張させない方法かもしれないとも思う。だが、こんなセリフにもぶつかる。
結婚して
親になって
子どもの将来
どんな世界になってるのか不安になり
「とりあえず環境は守らなきゃ」
エコに目覚める人は多い
一人暮らしで
フリーターで
どこにも
属していない
自分が
不安になり
「少なくとも地球家族!」
エコに目覚める人も多い
(秋月りす「OL進化論」『モーニング』講談社、2008年6月26日号)
「母」も「独身」も消費社会/市場経済に巻き込まれたエコロジーにはまっていく。それは必ずしも一括りにはできないだろう。しかし、寄る辺ない不安から「地球」という枠に身を委ねていくような感覚も、ある意味、実に危険なものではないか。
「家」的な概念が近代的な核家族の「マイホーム」か、巨大ゆえに空疎な「地球家族」しかイメージが浮かばないというそのことこそ、まさに関係の貧弱さを物語っている。エコロジーという言葉が生物学では表現できない概念を伝えようとしたように、私たちは「家」という言葉そのものを変えていく必要があるのかもしれない。新しい関係性を作ることは、同時に新しい言葉を必要とし、そこで初めて思想と実践が分かちがたく結びつくのだろう。人間同士だけではない関係も含めて。
私の言いたいことはシンプルだ。消費中心の考え方、それを形づくる市場主義に距離を置ける関係を作ること。身体や命を利用するべきものではなく、あるものとして経済を捉えること。またそこには、ジェンダーの視点が不可欠ということも。
あの入道雲とエコバッグは、私に何度もその実践を突きつけてゆく。
(註1)小坂裕子『山代巴―中国山地に女の沈黙を破って』(家族社)、2004年
(註2)近代日本文学研究者、女性学者、ライフアーチスト(1925~2007)
(註3)主に60年代後半のウーマン・リブ、そして反公害住民運動や反核運動を通じて発展した思想。エコ・フェミニズムとも呼ばれる。哲学者のカレン・ウォレンは「エコ・フェミニズムの倫理は、女と自然の両方に対する男性支配に対する批判であるとともに、女と自然についての男性―役割的偏見から自由な倫理の枠組みを与えようとする試みである」と定義する。
(註4)川崎賢子・中村陽一編『アンペイド・ワークとは何か』(藤原書店)、2000年より。8年経った今も事態の劇的な変化は見られない。
参考文献
秋月りす「OL進化論」『モーニング』(講談社)、2008年6月26日号
生田武志「フリーター≒ニート≒ホームレス」『フリーターズフリーvol.1』(有限責任事業組合フリーターズフリー)、2007年
上野千鶴子『女は世界を救えるか』(勁草書房)、1986年
江原由美子編『フェミニズム論争―七〇年代から九〇年代へ』(勁草書房)、1990年
青木やよひ『フェミニズムとエコロジー』(新評論)、1986年
キャロリン・マーチャント、川本隆史他訳『ラディカルエコロジー―住みよい世界を求めて』(産業図書)、1994年
玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』(みすず書房)、1978年
くりた・りゅうこ/1973年生まれ。有限責任事業組合フリーターズフリー組合員。主な雑誌掲載に「『強くもなく美しくもない』者たちのつながりへ」『女も男も』No.110、「『構造的貧困』を本気で考えるために―無力からの出発」『オルタ』2007年10月号、「いいかげんであろう、と思った―修道院と『フリーターズフリー』」『くらしと教育をつなぐWe』2008年6・7月号(インタビュー)、その他、人民新聞「『運動入門』一歩前」、ふぇみん「フェミニズムの瞬く場所」で連載中。
(PARC)
それこそ70年代に「ウーマン・リブ」に出会った人々の多くが、まずはリブとの「出会い」について語っていたように、私自身もまた語ってしまう。その「出会い」と「語り」がどれだけ私のからだの緊張を解いてくれたことか。「あなたに出会えなければ、こんなところでこんなふうに語ることのできる私はいなかった、ありがとう、おっかさん」などとなんだか本末転倒な浪花節をうっかり口にしそうな勢いなのである。
*
しかし最近、果たしてどうなのだろうかと思う気持ちがぬぐえない。なぜなら「オルタナティブ」を生きていいんだと思ったものの、その「オルタナティブ」を現実にどう作り出したらいいのか、私自身手をこまねいているからだ。「オルタナティブ」を求めて生きていってもいいんだと一方で感じつつ、どうやったらその「オルタナティブ」を具現化してゆけばいいのか、実践していけばいいのか、と。それこそからだが弱くてもうつでも、また子どもを抱えていてもそれなりに生きていける社会などあるのかと。
「私はフェミニズムは終わったと思ってる(笑)。高校で家庭科が男女共修になったときにもうすべてテーブルの上に載った。あとはそれを実践していくだけ。もちろんその過程は長い長い、それこそ永遠に続くものかもしれないけど」(註1)という駒尺喜美(註2)の言葉を思い出す。これはあまりに極端だとは思うけれど(後ほど語るように「家」に対する言葉≒思想はまだ少ないと感じる)、たしかにその「実践」の過程の長さこそが思想の底力を現すはずだ。
もちろん、フェミニズムは言葉だけではなく地道な実践を積み重ねてきたのは事実だ。福祉や食の分野を開拓してきた、主婦たちを中心として結成されたワーカーズコレクティブ、セクシュアル・ハラスメント概念の確立、ドメスティック・バイオレンスの告発、男女雇用機会均等法、どれをとっても重要なものばかり。だから決して「実践」がない、などということはないのに、21世紀を生きる私はどうしてこんな気分になるのだろう。オルタナティブな生き方を志向する人は一定数存在しているのに(この雑誌の名前だってまさに『オルタ』だ)、どうしてこんなに暗い夜道を歩いているような心細さに駆られるのだろう。甘えた気分を承知で言えば、どうしてこんなに突き放された思いを味わうのかと。たとえばこんな風景を見たとき、そうした気持ちが増幅されてしまう。
*
先月(2008年5月)下旬に、普通は真夏の空から登場するはずのもくもくした入道雲を発見してしまった。あまりに不気味で大きく、思わず「きのこ雲」という不穏な言葉が口についた。奇妙な違和感を覚えながら、その日は仕事帰りに新宿に寄った。新宿東口。日本のなかで、最も人と物とが行き交う場所と言っても過言ではない。
その東口近くのブランドショップには、「エコバッグ」が飾られていた。煌々と光るディスプレイに、山のようにカラフルなエコバッグがあった。そうしてディスプレイの左隅には、これ見よがしの風船のような地球儀。「地球を救おう」というモチーフと思われるが、それよりもむしろあのエコバッグがどんなふうに作られて、新宿までたどり着いているのかと思うとため息が出る。しかもそこに「エコロジカル」という名がついてくるあたりにゾッとする。いや、このエコバッグはエコロジカル・バッグではなく「エコノミー・バッグ」なんだろうな。
ちなみにエコロジーもエコノミーも、語源をさかのぼればギリシア語のオイコノミクス、すなわち「まったき家の経済」という言葉にぶつかる。エコロジーは生物学では捉えきれない有機的な関係を捉えようと、一九世紀にドイツの動物学者ヘッケルが造った言葉だ。
エコロジーとエコノミーのぶつかるところが「家」というのもなかなか皮肉な気持ちにさせられる。今や一般的にエコノミーという言葉で表される市場経済はエコロジーを吸収し、エコロジーは企業的な活動の一端を担う形にもなっている。そこには「家」的なものもすべて、消費できるものは消費してしまおうという勢いがある。
そうだ、私のこの「突き放された感覚」というのは、まさに「消費社会」という、陳腐ながら最も勢いのある力によってもたらされているのかもしれない。しかも、ともすれば、私も生きている限りは何かを着たり、食べたり、飲んだりするのだから、消費と無縁ではいられない。だからこそ「家」的な感性、市場的ではない、公的ではないものに対する概念の深まりがなければ、どんなにそのオルタナティブを大事にしようとしても、市場や行政にからめ取られ、市場や行政の「補助」というまさに女性的な枠にはめられてしまう。オルタナティブの骨子と言うのは、まさにその「補助」という位置におかれた様々な労働や営みをどう捉えるかというところにある。
*
消費主義、などというのは何もきのう今日に始まったものではない。だいたい私は生まれてからずっとそういう世界のなかで生きている。そして10代だった1980年代の日本はそれこそバブルの時代、今ほど捻りなく「おおらかに」消費主義を生きていたといっても過言ではあるまい。そんな時期に「家」的な営みのなかにある原理こそが、市場・行政の背骨にあると思われる家父長的な制度を撃つものであると主張したのがエコロジカル・フェミニズム(註3)だった。
ところが、その家父長制を撃つ原理を「女性原理」と名づけるも、その「女性」という概念こそは当の家父長制が作ったものだとツッコミを受け、哀れ討ち死にした(ように見える)エコロジカル・フェミニズム。略してエコフェミ、はいわゆる一般的なフェミニズムとは違うものを掴もうとし、しかし言葉が――それこそ思想が――足りずにそのまま打ち捨てられた、そんな印象を残している。
「一般的なフェミニズム」と書いたが、そのイメージとは、たとえば赤木智弘さんが著書『若者を見殺しにする国』(双風舎)で語る、「女性は男性の付属物ではなく、自立した存在である。自立した存在として社会で活躍するためには、男性と同等の権利が必要である」(傍点引用者)といったものである。
たしかに、その男性と同等の権利だって、女性は獲得していない。何せILO(国際労働機関)の公式発表によれば、「女性は世界の労働の3分の2を行っているにもかかわらず、収入は5%でしかなく、資産は1%にすぎない」(註4)のだから。
経済的な平等が真に実現されることすらなく、結局は「男」あっての「女」、「市場経済」あっての「生命維持労働」とでもいう位相は微塵も変わらぬように思える。そしてここが難しいところなのだけれど、男女間の経済的な平等を実現することが今の市場原理でほんとうに可能なのかどうかということだ。経済的な平等という一見最も基礎的な平等を実現するために、この市場経済というものをどう捉えたらいいのか。その問いを飛ばして私は次には進めない。
もっとも、そんな足踏みなどとは全く関係なく、市場はエコロジー的な何かをたくみに表層的に取り入れながら、したたかに成長を続けている。その果てのエコバッグだ。
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だがエコロジカル・フェミニズムの最も良質な部分を蘇らせるとしたら、間違いなく経済に手をつけること、しかもその語源から手をつける、すなわち働き方も含め「家」という存在をいじる必要がある。「公」と対立する(あるいは対立させられた)「私」としての「身体」や「家」や「自然」。その概念・思想をおそらく経済概念と働き方を変える方向に向かわせ深化させること。それこそ「俺は家族のために働いている」という言葉が成立しない方向へ向かうこと。
エコロジー運動の中では、「母」「自然」という言葉が登場することがある。母になり、子どもを通じて食生活や地球環境に気を配るようになるといった話を否定する気はない。しかし一方で、私たちは反自然なものに一杯囲まれて生きている。それこそ出生前診断もできるような状況の中で、「身体的な機能(子を産むことも含めて)」=「自然」と捉えられるほど無邪気な場所に私たちはいない。例えば私は独身だ。もしかしたらこれほど反自然な状態はないのかもしれない。
しかしこの反自然な状態のままで「消費されない」営みへアプローチすること。それこそが「家」という概念を深め、多様化させ、市場的なものをいたずらに拡張させない方法かもしれないとも思う。だが、こんなセリフにもぶつかる。
結婚して
親になって
子どもの将来
どんな世界になってるのか不安になり
「とりあえず環境は守らなきゃ」
エコに目覚める人は多い
一人暮らしで
フリーターで
どこにも
属していない
自分が
不安になり
「少なくとも地球家族!」
エコに目覚める人も多い
(秋月りす「OL進化論」『モーニング』講談社、2008年6月26日号)
「母」も「独身」も消費社会/市場経済に巻き込まれたエコロジーにはまっていく。それは必ずしも一括りにはできないだろう。しかし、寄る辺ない不安から「地球」という枠に身を委ねていくような感覚も、ある意味、実に危険なものではないか。
「家」的な概念が近代的な核家族の「マイホーム」か、巨大ゆえに空疎な「地球家族」しかイメージが浮かばないというそのことこそ、まさに関係の貧弱さを物語っている。エコロジーという言葉が生物学では表現できない概念を伝えようとしたように、私たちは「家」という言葉そのものを変えていく必要があるのかもしれない。新しい関係性を作ることは、同時に新しい言葉を必要とし、そこで初めて思想と実践が分かちがたく結びつくのだろう。人間同士だけではない関係も含めて。
私の言いたいことはシンプルだ。消費中心の考え方、それを形づくる市場主義に距離を置ける関係を作ること。身体や命を利用するべきものではなく、あるものとして経済を捉えること。またそこには、ジェンダーの視点が不可欠ということも。
あの入道雲とエコバッグは、私に何度もその実践を突きつけてゆく。
(註1)小坂裕子『山代巴―中国山地に女の沈黙を破って』(家族社)、2004年
(註2)近代日本文学研究者、女性学者、ライフアーチスト(1925~2007)
(註3)主に60年代後半のウーマン・リブ、そして反公害住民運動や反核運動を通じて発展した思想。エコ・フェミニズムとも呼ばれる。哲学者のカレン・ウォレンは「エコ・フェミニズムの倫理は、女と自然の両方に対する男性支配に対する批判であるとともに、女と自然についての男性―役割的偏見から自由な倫理の枠組みを与えようとする試みである」と定義する。
(註4)川崎賢子・中村陽一編『アンペイド・ワークとは何か』(藤原書店)、2000年より。8年経った今も事態の劇的な変化は見られない。
参考文献
秋月りす「OL進化論」『モーニング』(講談社)、2008年6月26日号
生田武志「フリーター≒ニート≒ホームレス」『フリーターズフリーvol.1』(有限責任事業組合フリーターズフリー)、2007年
上野千鶴子『女は世界を救えるか』(勁草書房)、1986年
江原由美子編『フェミニズム論争―七〇年代から九〇年代へ』(勁草書房)、1990年
青木やよひ『フェミニズムとエコロジー』(新評論)、1986年
キャロリン・マーチャント、川本隆史他訳『ラディカルエコロジー―住みよい世界を求めて』(産業図書)、1994年
玉野井芳郎『エコノミーとエコロジー』(みすず書房)、1978年
くりた・りゅうこ/1973年生まれ。有限責任事業組合フリーターズフリー組合員。主な雑誌掲載に「『強くもなく美しくもない』者たちのつながりへ」『女も男も』No.110、「『構造的貧困』を本気で考えるために―無力からの出発」『オルタ』2007年10月号、「いいかげんであろう、と思った―修道院と『フリーターズフリー』」『くらしと教育をつなぐWe』2008年6・7月号(インタビュー)、その他、人民新聞「『運動入門』一歩前」、ふぇみん「フェミニズムの瞬く場所」で連載中。
(PARC)
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