ぱんどらのへや

ちょっとした子育てに役立つ話を紹介していこうと思います。

死にたい、傷つけたいという気持ちは、心のSOS。

2024年09月17日 | 職業
自殺と言う言い方に変えて、自死と言う言い方があります。ここでも、自殺ではなく、自死という表現を使います。

自死する方が増えて、ネットニュースでもトピックとして取り上げられることが多くなりました。
 様々な予防の取り組みが行われています。自治体によっては、保健所や保健センターで、ゲートキーパー(悩んでいる方に寄り添う方)の養成講座を開いたり、パンフレットや講座で、啓発活動を行っていることもあります。一度、受けてみると、様々な気づきが得られると思います。

自死のサインを出している方もいらっしゃれば、まったくサインを出さずに、ある日突然、決行する方もいらっしゃいます。本当に難しい…。
 その、”サインを出していない”とされる方の中に、「ニコニコ笑っていたのに」という方もいらっしゃいます。ニコニコ仮面を被っていたのかもしれません。動物は弱みを見せると攻撃されるので、弱ってくると、かえって体を大きく見せる習性があることもあり、そんな本能が働いていたのかもしれません。そして、感情が動かなくなっている方もニコニコ仮面になりやすいです。喜怒哀楽。感情が動かなくなったなと思ったり、表情が動かなくなったなと思ったら、声をかけていただけたら嬉しいです。

自死。様々なケースがあります。児童・生徒が自死する場合。保護者の方をはじめ、ご親族が、そのような手段を取られる場合。お友達や近しい方がそのような方法を選んでしまった場合。
 特に、保護者やご兄弟など、同居されていたことがあり、日常を共にされていた方、思い出が多い方が亡くなった場合、残された方の人生・生活に大きな影響を与えます。また、心を分かち合うような友や人生に影響を与えてくれた方を亡くした場合も、影響が大きいです。良い関係だけでなく、嬉しくない思い出が多かった方が亡くなっても、影響が大きいです。
 そういう交流がなくても、元々死にたい・消えたいという思いを抱えていた方も、誰かの自死のニュースを聞いて引っ張られてしまうことがありますので、注意が必要です。
 なので、「自分がいなくなった方が、家族が(仲間が)助かる」なんて思いは、打ち消していただきたいです。貴方がいなくなれば、影響はあります。尤も、自死をされようとする時点で、視野狭窄に陥り、「死ぬしかないんだ」と思い込んでいることが多いので、なかなか、他の視点に立つという切り替えができない。そのような柔軟性のない思考状態になったら、要注意です。

 上記のような、大切な方が亡くなれば、感情が揺さぶられ、眠れなくなったり、食欲がなくなったり、ふさぎ込んだり、泣いたりするのは当然の反応です。落ち着かなくなることもあります。他にもいろいろな、いつもと違う反応が起こってくるでしょう。
 たっぷりと喪の作業(哀しみの作業)を行ってしまった方が、立ち直りが早いとも言います。通夜や告別式はそのためにあるという方もいます。亡くなった方の思い出を語りあい、皆で悲しむ。それが供養であり、残された方の明日以降の礎になると。
 でも、ショックすぎて、感情がわかないこともあります。悲しいはずなのに、泣けない。泣けないどころか、笑ってしまう。それも、ショックすぎることがあった時の、よくある反応です。ある程度の年齢で通常な心情なら、本当に心で感じていることはさておいて、その場にふさわしい表情を作ることができます。そういうコントロールもできなくなっているほどのショックを受けているのです。周りの方はギョッとしますが、そういうこともあるのだと、その方が悲しめるようになるまで見守っていただけたらと願います。
 ”死”と言うものが判っていない年齢の子どもも、その場にふさわしくない言動・表情をすることもあります。いつもではない、特別な雰囲気に巻き込まれて、怯えていることもあります。また、”死”を重く受け止めて、親から離れられなくなる等の言動がでることもあります。「死」についてその子なりの理解をゆっくりと聴いてあげるとともに「大丈夫だよ」と受け止めてあげて下さい。

そのような一時的な反応を経て、日常生活に戻っていくことが多いのですが、いつまでも日常生活に戻れなくなっている場合は、ぜひとも、精神科受診か、心理職に相談していただけると嬉しいです。スクールカウンセラーや、自治体によっては、大切な方を亡くした方のグループがある場合もあります。匿名で利用できる電話相談もあります。
 日常生活に戻るというのは、亡くなった方を忘れることではありません。宗教によって、輪廻をはじめとする死生観や死後の在り方は異なるので、ここではそのことには触れませんが、少なくとも、思い出とともに、貴方の心の中には生き続けるはずです。
 良い思い出を思い出せば、寂しさが募るかもしれません。自分に何かできたのではないかと繰り返し考える人もいます。そして、自分が「死ね」と願ったから、死んでしまったのだと思い込んでいる方も少なからずいます。そういう思いを抱えて生きること。それが、例えば、人を助ける職業に就くような昇華をされている場合は、そのままでよいかもしれません。ですが、「幸せになる価値がない」などと思っているのなら、ぜひ、心理職に声をかけて欲しいです。そんなの、私の勝手と思っている方が多いのですが、実は貴方ご自身だけの問題ではないのです。配偶者やご両親やお子様、お友達・恋人等周りにも影響します。周りなんて関係ないという方でも、できれば、貴方ご自身納得のいく人生を送っていただきたいと願います。

 自死するのはどうして?それは、人ぞれぞれ違い、一つのきっかけで自死に踏み切ってしまうこともありますが、踏み切ってしまうまでの要因は様々なことのかけ合わせが複雑に絡み合っているので、このブログで簡単に述べることは差し控えたいと思います。

 自傷。リストカットが有名ですね。頭等体を打ち付ける。危険な行為をする。様々な方法があります。
 これも、そういうことをしたいと思ったことのない人からは、「そんなささいなことで」というきっかけで行うことが多いのですが、そこに至るまでの道は、やはり複雑です。
 「死にたいと思ってやっているわけではない」と言っても、はずみで死ぬ場合もあります。自死するための予行練習の時もあります。当人は無自覚な行為もあります。死ぬことがなくとも、体を傷つけること=心を傷つけることであり、できれば、そんなことがない方が良いのは、やっている本人も含めての願いではないでしょうか。

 このような、自死、自死企図(実際に決行しようとする)、自死念慮(実行まではいかないけれど、そういう思いにとらわれる)、自傷、自傷企図(自傷するための用意とか)、自傷念慮は、心のSOSです。

 そのSOSをキャッチして、専門家に相談する等対応して下さるご家族の方が多いのですが、中には「気がひきたくてやっているのだから、ほっとけ」と言う保護者の方もいらっしゃいます。
 確かに、そういう面もあることはあります。否定はしませんが、それだけではないのです。
 でも、万歩譲って、「気をひくための行為」だとして、気をひくための行為が、自死・自傷というのは、どういうことでしょうか。
 「気をひくための行為」とおっしゃる方には、そこを考えて欲しいのです。命を懸けなければ、自分の体を痛めつけなければ、気をひけない。どのような関係・状況でしょうか?
 一緒に考えさせていただけたら、ありがたいです。
 




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