我々が育つ頃にピアノは、どこにでもあるというものでは無かった。
クラシックバレエとかピアノとかいうものは少女雑誌の中の憧れの世代である。
その世代が、一生懸命、様々なものを犠牲にして働いた結果、日本は大変豊かになった。
その世代の我々はピアノも、水泳も、バイオリンも他の習い物も嫌というほど我が子にさせてあげられる豊かな時代を迎えた。
才能や血筋や資質に関係なく欲すればピアノもバレーも何でも習えて、ピアノ発表会なるお金のかかる
お稽古事も経験し、飽きれば簡単に辞めることもできた。
子どもは望まなくても一昔前のお嬢様体験をさせてあげることだってできるのである。
可哀想なのはピアノ。
同じピアノでも様々な運命がある。
ほとんどのピアノは、長くて数年だけ、それも持ち主のピアノに見合った曲が弾かれることもなく
親にも子どもにも飽きられてただの物が置かれた状態になっている・・。
人の事は言えない我が家であるが、ちょっと違うのは家にあるピアノは私のもの。
仕事で使わせてもらったが、幼稚園程度の曲ばかり・・。
大声を張り上げて歌う、ただそのためだけの伴奏であり、曲想も何もあったものではない。
高校あたりから、入試のために始めたピアノの力で仕事をするのは大分苦労が伴った。
ピアノも私も可哀想う・・・。
それでも高校の同級生が調律師というお付き合いがスタートで、調律だけは続けた。
もう耐用年数も切れたような年月が流れているピアノである。
誰も弾くことのない、父がなけなしのお金で私に残してくれたピアノに対する申し訳なさも手伝って
のピアノ調律である。
ピアノ好きな姪が家に来たときには、弾いてもらった。
父の見たこともない孫である。
相当長く続けている趣味のピアノであるから、さぞ父のピアノも満足であろう。
それと今年は、高校の時のピアノ好きな友達も家に来て、伴奏をして楽しんだ。
おもしろいことにピアノ調律師もピアノ教師も高校の同級生であり、私の父と会ったことがある。
それも数十年も前にである。
なぜ出直し?
子どもにピアノを買ってあげた世代は自分の憧れでもあったはず、弾かれなくなったピアノに時間も
十分できた今、弾いてみようかなという気が起きたのではないかと勝手に想像してみた。
先日、そのような流れで始めた出直しピアノ仲間を訪れる機会があった。
ピアニストを目指すわけではない、音を楽しんでいる、その様を見てこれなら私もと思えた。
誘われても全然気乗りしなかった私だったが、弾いてみてと言われて弾いたところ、
音符と音に集中できることを実感した。
他のことを考える余裕がないというのか、邪魔する面倒なものがないというのか、脳内で何か
若い時とは違う働きをしている・・単に老化だと解釈しよう。
音に集中することが楽しい。
ピアノを習ったことのない人でも順を追っていけばいつの間にか弾けるようになる。
良い教則本がたくさん出版されているからうれしい。
年を重ねて思うこと、お稽古ごとに「こんな年で・・・」と考える必要はない。
60歳の人が今、バレエの教室にいたとしよう。
この人は、年齢を気にしないで数十年来、やってみたかったバレエを数年前に始めたとする。
同じ60歳の人が、40歳の時に、バレエを踊りたいなと思い、でもこの年令ではと諦めた。
同じ60歳になり、今を見た時に、40歳は全然遅い年齢では無かったことになる。
やってみたいことにドンドン挑戦できる世の中に生きているのだから、何歳でも遅くはない。
悔いの残らないように生きて、あの世で一生懸命楽しんだ現世を自慢できたらいいのでは?
と思えるようになった。
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