ピアノも弾いた。
本も読んだ。
そしてブログもup気分・・
窓から入る気持ちの良い風を受けてベッドで寝転んで本を読む。
私はこの姿勢が一番長続きする怠け者である。
またもや岡潔だ。
読みながら、私はなんてこの人が好きなんだろうといちいちうれしくなる。
私より半世紀も前に生まれた人だ。
それなのに何故かあたらしい。
今日も気づいたことがある。
岡潔、32ヶ月という人間の最も大事な時期のこと。
その時期を「童心」という。
数学の研究に、「数学は数え年三つまでのところで研究し、四つのところで表現するのだ。五つ以後は決して入れてはならない」と岡潔が研究員に口癖のように教えていたという。
果たして、研究員は理解できたのだろうかと不思議に思う。
数え年三つまでのところというのは、自分を意識できていない時期である。
自我が出てくるのは5歳。
それを入れてはいけないということは、我を抑えよということである。
一つの例であるが、数年前に、娘からある女の子の写真集をもらった。
「未来ちゃん」
被写体としての女の子は実によく撮れていて感動を覚える。
一緒に撮った5歳ぐらいだろうか、その子の写真となると「未来ちゃん」とはちょっと趣が異なる。
違いは人を意識しているかしていないかの違いかなとずっと思っていたが、これはきっと童心の時代かそうでないかによるのではと思える。
「未来ちゃん」には、何事にも没頭、集中、どこにも我というものがない仕草が見て取れる。
モデルとしていいのではない、この子もその時代をすぎると違う被写体となってしまうのだ。
それと写真でいえば職人が仕事に熱中している顔や姿・・その表情には我を忘れて、まさに三つのところで研究し四つのところで表現していると思える。
三つ子の魂とか6歳ですっかりお利口とか共通した表現は外国でも日本でも同じなのでそれは頷ける。
しかし、その頃に戻って、身に付いた余計なものを抑えて集中して事をなすというのは誰でもが言っていることではない。
だから岡潔が好きでたまらないのだと思う。
目的を達成しようとするなら我〈小我〉を抑えないといけないということである。
小我を自分だと思ってはいけないと繰り返し訴えている。
私も教育に当たった時にぶつかったのが「自我」ということだった。
意味が分からなかったのである。
童心の頃にあったものが実はその人の「真我」であると岡潔は言っている。
環境が人を作るというが岡潔はもっと大きなところのものを取りながら子どもは成長していくと・・。
もっと大きなものって何だろうか?
仏教の教えに請わないと漠然と以上にはわからないのだ。
それが岡潔であると思う。
童心の時代を間違いなく成長させるのは、親に十分愛されることである。
親が未熟な時代に子供の一番大事なところが成長するのは恐ろしい事実であるが仕方がない。
岡潔は著書の中に二人の孫についてたくさん書き記している。
実名で書き記してあるところがいい。
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