確かに効果はあった。
今日は、過去に「約3マイクロシーベルトを浴びた」などと安易な気持ちで過ごしたことを反省
した。
現在は、毎時1・5マイクロシーベルトぐらいに放射線量が下がってきているが
本来の正常値は毎時0・04マイクロシーベルトだ。
その危険さは一目でわかりそう。
娘が帰り、東京の叔父から電話があった。
本当にそこにいて大丈夫なの?
大丈夫じゃないでしょうという電話だった。
大丈夫なはずは無い、でも我々40歳以上には、ある覚悟ができている。
しかし、子どもと若いものは話しが別。
ここの県にいてはいけない。
子どもに関わる仕事をしている大人は利害に関わらず将来のある子どもや若い人に
この県を出ることをすすめるべきだ。
台風の目の中にいるものはその大変さに気づかない。
危機意識が非常に低いということだ。
私がもし、県外にいたなら、私の姪やその子たち、孫には早く避難して来なさい
と何を置いてもいいそうである。
ところが、いつもと変わらない生活をしている周りの人々。
連日流される報道は、津波ですべてを失った人々。
その報道の陰に一番生命に関わる問題を抱えた、中通りの原発に関わる危機感
については飯舘のほかは、ただの数字のみなのである。
またその数字は安心材料であるかのようにテロップで流れている。
人々は、今だに高い数値の一部だけをみて、爆発当時より下がってきたと安心している。
中通りの原発問題の怖さは、始まったばかりである。
その悲惨さは、今のニュースにはならない。
命に関わり、同情される、切羽詰った目に見えるような今のニュースにはならない。
これは数十年と続くこれからのニュース源である。
形に現れない放射線、息苦しくもない、何か色がついていたり、肌がヒリヒリしたり、匂いでも
あれば人々はもう少し危機意識をもつ。
「混乱を避けるためデータを出さなかった」とか
「ただちに健康に影響は出ない」
「レントゲン1回分の放射量」
「飛行機で外国へ飛んだときには・・」
「風評被害」などと報道される、騙されやすい言葉を疑ってみることだ。
福島の野菜を「風評被害だ」と言って他県に売っていいのだろうか。
新聞や、TVで語られることは、地域で講演活動を盛んにしているのは、
どういう人なのか、誰が話している言葉なのだろうかということを疑って
みるべきである。
この世には「御用学者」という言葉があるという。
東京電力は、超有名な大学や研究所に多大な貢献をしている。
貢献された人間は、そこにマイナスになる発言をするだろか。
政府や東電の回し者と言ってもいい。
原子力は国策である。
利害のため、金と権力を使って情報操作をする。
国民はそれに騙されてはいけない。
「福島県は世界でもっとも馬鹿な県」と言われたくない。
福島を愛する私は、ただただ子どもを守りたい。
将来、病に苦しむ子どものニュースを提供して
世界の見世物にはしたくないと心から思う。
昔の青年には、「公憤」というものがあった。
しかし、今の青年はどうしてしまったのだろう。
「私憤」さえも忘れていやしないだろうか。
腑抜けと言っても過言でない。
そして、その今の子どもたちを作ったのが私たちの年代である。
この責任と矛盾には、とても深い哀しさが伴う。
いささか今日の未熟者の記には、問題発言が多く顰蹙を買いそうである。
福島の子どもたちを危険から遠ざけたいだけである。
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