Yちゃんと前日にコンサートに行き、その時に話題にした「かぐや姫の物語」
「ふつうのアニメと違う・・かぐや姫は絵本みたい・・赤ちゃんがヨチヨチ歩いてるの可愛い~」きっと10歳違いの妹を重ねての母親的な可愛らしさだと感じる。
「絵本のようだ」というところに気を留めた私、なるほど、絵本がそのまま動いている感じがする。
絵本作家の感性で植物の種類や動物や虫たち人間や子供が表現されている、まるでその感覚である。
懐かしい自然、この懐かしさは日本の昔からずっと続いている、無くしてはいけない崇高なもの・・。
あの歌のように、この世の自然謳歌である。
何度この世に生まれ変わって来ようとも変わらずに懐かしいという郷愁で熱くなる・・そういう日本であってほしいという作者の気持ちが伝わってくる。
アーチストと呼ばれる人は、事の真髄を知っている、というかホンモノを知らなくて、いいものは作れないのだ。
人にとり、一番大事なこと、なくしてはいけないもの、そういうところからのスタートである、それがアーチストと言って良い人種ではないかと思っている。
ニセモノと激しく自分自身を罵り、自然を模して作った箱庭をメチャメチャにするかぐや姫の場面に、人としてのプライドが表現されている。
数回となく問われる、「幸せとは」、「人を愛するとは」、「月に帰るとは」、「生きるとは」・・。
この映画はかぐや姫を通し、人の一生を扱った映画であると思う。
未熟ゆえに言えなかった大事な言葉を、月に帰る〈一つの死〉前の一瞬の夢に凝縮されて空を舞う・・。
この部分は、誰でもが人生で一度は出会う切ない部分であろう。
「地球は穢れている」という月の使者に、心底反撃したかぐや姫の言葉は、作者の希望であると感じた。
月に帰るとき、現生のことはすっかり忘れるという厳しい掟には、無常を感じる。
再び、この世に降り立つとき、人に残されているのは「懐かしさ」だけだとすると・・。
その「懐かしさ」を大事にしないことには、生きることそのものの価値は無い。
さて、私は泣かないと思っていたが、ラストシーンには、泣いてしまった。
MもTも泣いている。Sさんは凝視している風がなく、横向きである。
そして今朝方、目が覚めると「かぐや姫」のまるで残照のような思いである。
5:00にすっかり目が覚めてしまい、Tに早朝失礼とは思いながら映画の感想をメールした。
なんということだ、返信が早すぎる。
それも1時間かけての長い感動のストーリーである。
映画を見たあとにも涙が流れたのは初めてだという。
ぼーっとして、信号のない交差点で停止し、後続車のクラクションで姫から自分に戻ったという面白いTである。
いつもおちゃらけているTにしては純粋すぎていた。
私と同じように、何かに急かされるかのようにして目覚めたのだ。
映画ばかりではなく、公園でのランチの感動もついていた。
断捨離といい、人間も断捨離中というTである。
まだ捨てられていない我が身である。
※私が誘ったSさん、感想は聞かなかったが翌週の英語で「いや~あの映画は見てるときはさほどでないのに・・あとを引き、残る映画だ。あの映画を見たということが記憶に残るようになる、それと公園での弁当」と感動を表していた。
60歳になったばかりで、映画割引の証明書を持たないと・・と躊躇していた。
Tが大丈夫よ、そのままでと変な慰め方をしていた。
私も調子に乗り、出してくださいと言われたらラッキーでいいのではと。
夫婦割というのもあるし・・。
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