チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「不倫カ文化なら、グリンカは西欧カブレのロシア文化だ」

2005年06月02日 16時28分47秒 | 説くクラ音ばサラサーデまで(クラ音全般
昨6月1日は、現行暦でいえば、ミハイール・グリーンカの誕生日である。
ロシア音楽の祖、とか言われてるらしい国民的作曲家である。
ナポレオンと同様に、第2ボタンをはずして、そこに手を突っ込んでるオヤジである。
その業績は、ベートーフェン級の作曲家が交響曲にしてはないが、民謡に歌われてる。
♪グ、リィ~ンカ。グ、リィ~ンカ。グ、リィ~ンカ、マヤァ。
グ、グ、リィ~ンカ。グ、リィ~ンカ。グ、リィ~ンカ、マヤァ♪
「ベリー」・グッド! な歌である。のちに、トーマス・マンがグリンカを主人公にした
「ベルリンに死す」という小説を書いて……なかったかもしれない。が、
いずれにしても、53歳になる年に死んでる、という、
チャイコフスキーが模倣したほどの作曲家である。さて、
グリンカの生誕日にあたる昨日、私は東京を留守ランにしてたことである。
渡辺ジュンイチ大先生の小説のごとく、「不倫小旅行」に出てたのである。
ときに、歌劇「ルスラーンとリュドミーラ」は、その昔、
その上演を観劇することが「私刑」であったほど退屈だったそうである。
ロシアがまだ蒙古にやられる前、キーイフ大公国というのがあったそうな。
そのときのナポレオン的存在がルスラーンであった。その武功で、
ルスは大公の婿に選ばれる。が、その婚礼の日にキエフの北西150kmの
チェルノブィリでものすごい爆発が起こり、そのどさくさに、花嫁である
公女リュドミーラを何者かにかどわかされてしまうのである。なんたる恥辱!
それはさておき、その「序曲」は実にステキである。構造はソナータである。
♪「ダーディディ」|「ダーディディ」♪という、チャイ「悲愴」にも影響を与えた
モース信号の「D」にあたる律動で開始される、D durの曲である。
シテ主題は、5幕でのふたりの婚礼前の場面の音楽、だそうである。たしかに、
この「序曲」がモツ雰囲気は、モーツァートの「フィガロの結婚」序曲に、
相通じるものがある。女房はもっぱら間男と不倫カ、と伝えられてるように、
寝取られ野郎グリンカの自身の結婚生活はうまくいってなかったそうである。
いずれにしても、このシテ主題、
♪【ドーーー<ミーー<ファ|<ソーーーーー<ラ>ソ|>ファミ】
>レ>ド<レ<ミ<ファ<ソ|<ラ<シ<ド<レ<ミー○○♪
は、ベートーフェンも「16番弦四/2楽章」で用い、
サッチモも「聖者がマーチしにマチにやってくるとき」でその断片を歌った、
「アノン(ハノン)教則本」の「主題」♪【ド<ミ<ファ<ソ<ラ>ソ>ファ>ミ】♪
からの引用もののひとつである。一歩リード歩=イヴァノーフも、
「コーカサスの風景」の「酋長が町にやってっくるとき」で使ってる。
さて、48小節めの後半から主として1番オーボエで吹かれる、
♪♭シーーー|>ラーーー>ソーーー|>ファーーー>ミーーー|>レー♪
(Nドーーー|>シーーー>ラーーー|>ソーーー>♯ファーーー|>ミー)
は、「チャイ5/終章」における「循環主題」の「長化物」、
♪ドー|>シー>ラー>ソーソン>♯ファ|>ミーーーーー♪
の姿に形を借りてる。そこで、チャイコフスキーは
ありったけの虚勢で極力幸福そうに振る舞おうとして引用してるのである。
つぎに、「ルスラーンとリュドミーラ」序曲のワキ主題は、
2幕のルスラーンのアーリアから採られてるそうである。
♪【【ドーーーーーーー|ーー>シー<ドー>ラー|>ソーーーーーーー|ーー】】
>ミー>ドー<ラー|>ソー○○ソーーー|>>レー○○レーー<ファ|
>ミーーーーーーー|>ドーーーーーーー♪
この主題の「最初の4音」は「怒りソースの非(ディエス・イレ)」である。
ルスラーンは婚礼の日に花嫁をかっさらわれてしまったのである。神ではないが、
呆然と屈辱感が交差するショックから、やがて怒り心頭へとなるのである。
そんなことがこの節に込められてるのかもしれない。ところで、
展部が終わり、再部を導く弦のパッセージは、のちに
チャイコフスキーが自分の1パターンとして採り入れた芸風である。また、
この「序曲」は、ティンパニの♪ド<ファ>ド♪、♪ド>ソ<ド♪
という「水分子の結合角度のような4度のブーメラン」が要所を締めてるのである。
いずれにしても、この「序曲」は、一般にはほとんど、石田純一が
「トレンディ・ドラマ(ものすごい英語だ)」のスターだったころの、
ジュリアナのお立ち台ほどの、パンチの効いたノリノリ(死語)、
な音楽に聞こえるようである。ちなみに、あのころの
ボディコン(ピタコンなんて言葉もあったことである)よりも、
近頃のレゲエ・ダンスの野暮ったいファッションでの大股開きパンツ見せ、
のほうがはるかにエゲツない。が、エロオヤジの私には、
ボルシチ、否、ヴォルテージが跳びはねるウレしい「文化」である。
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