チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「フィレンツェの思い出/終章」

2005年05月31日 16時39分53秒 | 弦六大地震(花のお江戸の中心グラ
この章の形式は、「チャイ流ソナータ形式」の一典型である。
「(芸のないガチガチの)ソナータ形式」であれば、展開部のあとに
きっちりとシテ主題・ワキ主題が順番どおり再現される。ところが、これは、
展開部のあとに再現されるばずの正規のシテ主題(いわゆる第1主題)が、
「省略される」という「再現不良性ソナータ形式」なのである。が、
それは別段ほかの作曲家にも数々あることである(ドヴォ(大提琴)コン)。
いっぽう、この章のように、
「ワキ主題(いわゆる第2主題)群」を呈示時より「2度上の調」で再現する、
というのは、「チャイコフスキー式実用新案ソナータ」である。たとえば、
幻想序曲「ロメーオとジュリエッタ」、
「1番pf協奏曲(ソナータ章=主章)」、
「5番交響曲(ソナータ章=主章)」
をあたってみるがいい。
アッレーグロ・ヴィヴァーチェ、2/4、1♭。
2番vnの「主音」と1番ヴィオーラの「属音」による「3連符」と、
2番ヴィオーラによる「主音*属音」ダブルストップの「2連符」が、
「ズレ」を醸しだす。そのズレと第3音を欠く「空虚さ」が、
郷愁を喚起させる。まさに、ルネサンス期の音楽に特徴的な音調である。
レオナルド・ダ・ヴィンチが、チャーリー・チャップリンもしくは
ポール・マカートニーばりのリュートを爪弾きながら、
弟子らと自作曲の試奏に興じてる場面が想像できる。
♪ラ<シ<ド<レ<ミー>ラー|<レー<ファー>ミーーー♪
グウィネス・パルトロミウ=キャメロン・ディアスが美貌峰に到達し、
3歳時にできた腫瘍のために独眼流なセリフまわしの芸風なピーター・フォークが
プライム・サスペクト相手に、「うちのおおカミさんがねぇ、
『ダルマさんがコロンボだ! 遊び』しようってウルサくてねぇ」とボヤキながら、
サン・サルバドール・ダリ髭島を「発見」し、大航海時代が幕を開け、
やがて、ハゲタカ男フランシスコ・ピサロが外為法などヘでもなく
母国スペインに送銀し、騙し討ちでインカ帝国を滅ぼす、ころのお話である。
それらはともかく、チャイコフスキーは、
当時フィレンツェで隆盛を極めてたメーディチ家が芸術を支援したことと、
我が身の前に流星のように現れたフォン=メック未亡人が自分を経済援助してくれたこと、
とを重ね合わせて、懐古趣味にひたってるのである。
そこが理解できないむきに、チャイコフスキーは無理である。が、
そういうむきにかぎって、「フィレンツェの思い出」を
「ロシア的」「ロシア舞曲ふう」「ロシアの農民の歌のような」
などというデマカセのオオブロシキを広げてしまうのである。どこをどう聴けば、
「ロシアふう」なのであろう。そんな臭いはピロシキほどもしない。まぁ、
「ロシアものの研究者」というのには、「左翼偽善カルト思想」から
その道に進んだむきも「あった」らしいから、ものごとの分別、真偽の判断、
がつかなくても無理からぬ。本質というものがマルキシわからないのである。
それはそておき、「ロシア」はまだ、キプチャク蒙古ハン国屋の「番頭」だった
イヴァーン3世がそこからやっと「のれんわけ」したころである。
主従の関係から、「ホーミー」を唱えあう「友だち」という対等な立場に
やっとなれたかどうか、というころである。
♪ラー<シー<ドー<レー|<ミーミ>レ<ミーーー|
>レー<ミー>レー<ミー|<ミーミ>レ<ミーーー♪
この「フィレンツェの思い出/終章」シテ主題も「ロシアふう」なんだそうである。
どうやっても、リナシメント期のイターリア音楽にしか聴こえない。むしろ、
♪ミー<|ラーーー<シーーー|<ドー<ミー>♯ソーーー♪
という経過句がジョニー・マンデル大先生の「『いそしぎ』みたい」とか
肥後の「『五木の子守唄』ふう」というのなら、まだ話はわかる。
ときに、リズ主演の映画のタイトル「いそしぎ」とは、
「磯鴫」というトリのことである。原題の「サンドパイパー」は
「砂浜の笛吹き屋さん」という意味である。砂ハーメルンの笛吹男ではない。
ちなみに、私は、テイラー媼よりも、笛吹ならうすい雅子女史アナ、
パイパーならペラーボ嬢の顔のほうが、ベラーボーに好きである。
それらはともかく、その「経過句」からワキ主題になだれ込ませる、というのが
チャイコフスキーのプランである。
→無調号。
ここが、終楽章で改訂した箇所である。ワキ主題を書き換えた、
のである。「改訂前のワキ主題」は、
♪【ミーーー・ーーーー|>レーーー・ーーーー|>ドーーー・ーーーー|
ーーーー・<レェ<ミィ|<ファーーー・ーーーー】|>ミーーー・ーーーー|
>レーーー・ーーーー|ーーーー……♪
である。ショボい。というより、
ドゥヴォジャークの「ト長交(いわゆる8番交)」主章ツレ主題、
♪【ミーーー>レーーー|>ドーーー・ーー<レ<ミ|<ファァ・ファァ・ファァ】♪
に「似てしまってる」ことに気づいたから書き換えた、
のであろうと推察できる。そして、書き換えて大正解である。
この「書き換えられたあとのワキ主題」
♪ミーーー・ーー<ラー|>ソーーー・ーー、>シー|<ドーーー・ーーーー|
ーーーー、>シー>♭シー|>ラーーー<ファーーー|>レーーー>ドーーー|
>シーーー・ーーーー|ーーーー……♪(ハ長)は、
「白鳥湖」(2幕)#13-5や、
「エヴ・オネ」の各所で鏤められた主要動機である
♪ミ<ラ>ソ>ド♪の一ヴァリアションである。
それだけ、この「フフィレンツェの思い出」という作品が
重要である、ということである。さて、
ワキ主題が結ばれると、シテ主題断片を調理した展開部に入る。
ヘ短→嬰ヘ短→ホ短→ニ短。
→1♭。
ここでfffのシテ主題が「再現」される、として、
ここからを「再現部」という「専門家」がいる。
たしかに、「そう捉えるのが人情」である。が、
ここから「シテ主題」を用いたフガートが展開される、のである。
それが「再現」であろうか。さて、シテ主題がかなりカノられてから、
ニ長を用意してなだれこむように、
→2♯。
ワキ主題の「再現」に入るのである。
型どおりの再現のあと、チャイコフスキーはそれに
「輪をかける」のである。2丁のヴィオーラが
16分音符のレガートなトレモロを弾くのに乗せて、
変ロ長のワキ主題を2丁のvnが「8度間隔ユニ」で強奏する。
ここは圧巻「バス」コムなみの手に汗握る場面である。
→ピウ・ヴィヴァーチェ。
6丁が「ffff」でベルリオーズ「幻想」終章終い突入ばりに、
♪ド<♭ラ>ソ>ファ|>ミ>レ>ド>シ♪
を繰り返し、クロマティック上昇ゼクヴェンツ。シテ主題の長化物、
♪ドー<レー<ミー<ファー|<ソーソ>ファ<ソッ>ッソ♪を最強奏して、
♪ソッ>>ソッ|<<ソッ>>ソッ|<<ソッ>>>ドッドッ|ドッ♪
激しく心を揺さぶられる音楽である。
チャイコフスキーの豪速パッションを芯で捉えることなど到底できないが、
その先端にでも触れンツェできるのは幸運としかいいようがない。
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