チャイコフスキー 白鳥の湖
3幕(#15乃至#24)の終盤、すなわち#20乃至#23は、
「招待各国」の「民俗舞踊」が繰り広げられる。
「チャルダーシュ」「ボレロ」「タランテッラ」「マズルカ」
である(#20「チャルダーシュ」のあとに
「興行的事由」でつけくわえられた#20a「ロシアの踊り」は、
バレエ「白鳥の湖」の本質をさぐるうえで、価値に乏しい)。
ところが、これら「4つ」の踊りを見てみると、それぞれに
「ヴェンギェールスキィ・ターニツ(ハンガリーの踊り)」、
「イスパーンスキィ・ターニツ(スペインの踊り)」、
「ニェポリターンスキィ・ターニツ(ナーポリの踊り)」、
というコクメイな「タイトル」が附けられてるのであるが、
#23だけは単に「マズールカ」という舞曲名なのである。
チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」が作曲された
1875乃至1876年には、世の中に
「ポーランド」という独立国も領土も存在してなかった。
「いわゆるポーランド」は、帝政(皇帝といっても、かつて
中国を支配したモンゴル「元」の末裔からもらった
東洋中国の帝位であり、ローマ皇帝ではない)ロシアの
「直轄領」だったのであるからして、「ロマノフ家の臣下」である
ボリショイ劇場関係者もチャイコフスキーも、
「ポーランドの踊り」とは銘打てないのは当然である。さて、
このバレエ「白鳥の湖」のモトネタである「奪われたヴェイル」の
時代は、新旧キリスト教の対立・抗争を背にした16乃至17世紀である。
ハンガリー、スペイン、ナポリ、ポーランドの「各王国」の、
当時以降バレエ「白鳥湖」成立あたりまでを振り返ってみよう。
1)ハンガリー王国
1526年、美しく青いドーナオ川中流のモハーチの戦いで、
スレイマン1世率いるオスマン・トルコに敗れ、
国王ラヨシュ2世が戦死、トルコとハプスブルク家に分割統治された。
1699年カルロヴィッツ条約でトルコ領もハプスブルク家領に。
その後もハプスブルク家に属し、1806年、ナポレオンによって
神聖ローマ皇帝の座を失ったハプスブルク家であるが、それでも
オーストリアの支配下のまま1875年を迎えた。
2)スペイン王国
西ゴート族の王朝がイスラムによって滅ぼされて数百年。
レコンキスタ(再征服の意)活動で徐々にキリスト教国土回復。
1492年、カスティーリャ&アラゴン連合のスペイン王国が
イスラムの最後の砦ナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、
イスラム勢力完全駆逐。と同時に、
貪欲な植民地獲得に乗り出す(フィリピン、中南米)。
1504年、ナーポリ王国を統合。1616年、ハプスブルク家
から入ったカルロス1世が王に即位(3年後、兼神聖ローマ皇帝)。
その後隆盛を極めるも、スペインハプスブルク家の血が途絶え、
フランスブルボン家が継承(スペイン継承戦争に発展)。
19世紀になってナポレオンに干渉され、王権弱体、革命勢力拡大。
「白鳥湖」本格作曲開始の前年1873年、短命ながら第一共和制。
3)ナーポリ王国
南イタリアは「中世」にはさまざまな為政者が支配してた。
1194年から1266年までは、遠く「シュヴァーベン」の
ホーエンシュタオフェン家が統治してたのである。そのあとを受けたのは
フラン王家カペー朝系の家であったが、1282年、
ヴェルディの「シチリア島の夕べの祈り」にも描かれてるように、
島民の蜂起によってそれまで支配してたフランス人が皆殺しにされ、
フランスの王朝の分家の安住の地でなかったことがわかると、
ナーポリを拠点とした半島南部経営に専念した。これが
「ナーポリ王国」である。ところが、15世紀半ばに
スペインのアラゴン王国に征服され、1504年には
連合王国となってレコンキスタを完遂したスペインに完全に統合され、
その総督の支配下になってしまう。そして、スペインの
ハプスブルクの血断絶に伴うスペイン継承戦争の結果、今度は
オーストリアの支配を受けることになった。ついで、
フランス・ブルボン家の支配下になり、それが、
ナポレオンの一族にとってかわられるが、ナポレオンの廃位による
「会議はタランテッラを踊る、されど進まず」というヴィーン体制で
ナーポリ王国が復活。ただし、すぐにシチリア王国と合併。1860年、
のちに松山の中学で教頭をすることになるとかならないとかいう
ガリバルディ率いる赤シャツ隊によって、シチリア島が占領され、
「消滅」した。
4)ポーランド王国
15世紀にはリトアニアと組んで勢力を誇ってた王国も、やがて
貴族が王よりも「強く」なると、実質「貴族共和制」となり、
内政(勢力争い)に目が向き外交がおろそかになっていった。ちなみに、
この「有力貴族のほうが王家より」という図式は
大英王国も類似してたのであり、実際、女系を入れてきた英国王室は、
ウィンザー家のほうがダイアナの実家スペンサー家より
「王家」としての血も「薄い」わけで、王室の地位も低い。が、
英国の場合は対外有事における「挙国一致」、
「ノウブレス・オブリージュ」の自覚
(それと、アングロ・サクスンの狡賢さ)がポーランドとは違ってた。
ロシア、プロイセン、オーストリア「3国」による「3度」にわたる
「3分割」により、ポーランド王国は1795年に「消滅」。ときに、
アメリカ合衆国への移民うち、ポウランド人の割合はきわめて大きい。
以上のように、チャイコフスキーが「白鳥湖」を作曲した当時、
スペインを除いて、3つの王国はすでに「存在してなかった」のである。
しかも、スペインも作曲年には王政復古されてたが、
前年には短命ながら「共和制」が樹立されてたのである。さて、
4国に共通するのは、「ハプスブルク家による支配」である。
「お隣り」である「ハンガリー」はもちろん、離れた大国である
「スペイン」も「婚姻による領土拡大戦略」で支配されてたのである。
「ナーポリ」も支配を受け、「ポーランド」にいたっては、
世界地図から消し去られてたのである。また、いっぽうで、
これらの国に共通なのは(当然ながら)19世紀初頭に
「ナポレオンの侵略」を受けてる点である。なんだかんだいっても、
西欧諸国中、英国はナポレオンに屈しなかった。やはり、
「産業革命」の威力は……
バレエ「白鳥の湖」第2幕の#10及び#14による
「囲い込み」までをも起こさせてしまうほど
……大きかったのである。冗談はともかく、
「選ばれた4王国は、「ズィークフリートの王国」における
「婚姻」「子宝」「家継承」という問題を考えるうえで、
「だめな例」である。それはまた、ロシアのロマノフ家の問題への
「警鐘」でもある。チャイコフスキーはヴァーグナーのような
左翼思想・民族社会主義思想・横柄な性格の持ち主ではなかったが、
ロマーノフ家のあこぎな蓄財と圧政への民の怒り・ルサンチマンに、
1789年に始まったフランス革命の二の舞を危惧してたのである。
ときに、1789年といえば、我が国では
寛政元年にあたる年である。いっぽう、一昨日、防衛施設庁が閉庁した。
官製談合が発覚したことが閉庁のきっかけとなったらしい。それはともかく、
松平定信の改革は庶民だけでなく直参にも評判が悪かった。
「世の中に、か(蚊)ほどうるさき、ものはなし。
ぶんぶ(文武)ぶんぶと、夜も寝られず」
という落首が当時庶民にまでオオウケしたそうである。
内需拡大政策をとって庶民の殖産に勤めなかったのがいけなかった、
のかもしれない。そういえば、昨今、
美人スピードスケイト選手の岡崎朋美女史が婚約したそうであるが、
カタヤマた、美人といえば、岡山選挙区で
「なんとかの虎退治」とやらで名をはせた
「美人」民主党参議の姫井由美子女史に捨てられた
元教諭の不倫愛の思い出記事で騒がしいようである。ちなみに、この元教諭、
剣道の教士七段というスゴい「腕」なんだそうであるが、
カフェの共同経営の技には熟達してなかったようである。それはともかく、
この元教諭は民主党参議院議員姫井由美子先生から、
<妻になってあげる>
<ヤスユキの子どもを作りたい>
<子どもを産むなら東京で産む>
などと言われてたとか。生まれてこのかた女性からそんなことを
言われたことなどないキモオヤジの私には夢のような言葉であるが、もっとも、
「ある種のマニアに典型的」な、あのようなバサバサ頭の清潔感の希薄な女性には
私でも「ドンだけぇ~!」とドン引きである。が、
そんなふうにドビュッシーの愛人みたいに強烈な愛情の持ち主ならば、
見合い結婚した亭主との間の一男一女のほかに、
四方庶子だらけだったりするのだろうか。また、
<彼女はかなりのMで、「ぶって、ぶって」と、よくせがまれました。
彼女には他の性癖もありましたが、これ以上は控えましょう>
だとか。まさか、とある箇所に団子を詰め込むだけつめこむプレイが大好きで、
嬌声をあげてよろこんだのだとしたら、我々似非SMマニアの間では、
それを「歓声だんご」というのである。
姫井というよりは、ホーソーンの「A」文字の「緋名」こそが相応しい
ステキな女性である。
「世の中に、Mほど臭き、悲鳴なし。ぶってぶってと、夜も寝かせず」
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