2011年が終わる。
ウサーマ・ビン・ラーディン(5月2日)、
ムアンマル・アル=カッザーフィー(10月20日)、
キム・ジョンイル(12月17日)、
という、
ブッシュ・ジュニアをおちょくったトリオが相次いで消えた年だった。
ヨーハン・シュトラウス・ジュニアの傑作、
喜歌劇「こうもり」(作曲・初演ともに1874年)は、
モトネタではクリスマス・イヴのお話だった。が、
イエズス会の力が強いヴィーンでは、
"聖夜"では差し障りがあった。ので
大晦日での話ということになり、現在でも
スィルヴェスターに上演される風習となってる。ともあれ、
第2幕の終いにオルロフスキー公の仮面舞踏会で踊られるヴァルツァー、
♪ソ>♯ファ<ソ<ラ>ソ>Nファ│>ミ>♯レ<ミ<ファ>ミ>Nレ│
>ド<ミ<ソー<ラー│ラーーーーー│
ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ファファファーファー│
<ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ミミミーミー♪
は、シュトラウス・ジュニアのワルツの中でも、
指折りのポピュラーなものになってる。ところで、
チャイコフスキー、ベートーヴェン、シューバート、ブルックナーを私は
音楽の4大高峰と思ってる。この4人の傑作は
聞き流すことができない。
耳に入ったり思い浮かべると、惹きつけられてしまう。が、
この4人以外の音楽は感動はしても
他のことが身につかないほどにはならない。
モーツァルトやシュトラウス・ジュニアの傑作は相当に好きである。が、
それを"BGM"にすることができる。若い頃、
就寝するときには、モーツァルトの「リンツ交響曲」の終楽章か、
シュトラウス・ジュニアの「こうもり」序曲をかけながら眠った。
前者はミヒャエール・ギーレン指揮南西ドイツ・ズィンフォニーオーケスター、
後者はヴィリー・ボスコフスキー指揮ヴィーナー・フィルハーモーニカー。
それくらいに好きなヘヴィ・ロウテイションな音楽である。
ともあれ、
喜歌劇「こうもり」第2幕終いのヴァルツァー
♪ソ>♯ファ<ソ<ラ>ソ>Nファ│>ミ>♯レ<ミ<ファ>ミ>Nレ│
>ド<ミ<ソー<ラー│【ラーーーーー】│
ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ファファファーファー│
<ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ミミミーミー♪
は、序曲にも採り入れられてる。その序曲で
最初にト長調で出てくるときの【】内は、
1拍め、
【コントラバス=a、2番ファゴット=fis、1番ファゴット=c、1番オーボエ+弦楽4部=e】
2乃至3拍め、
【1番クラリネット+2番ファゴット+4番ホルン=fis、3番ホルン=a、
2番クラリネット&1番ファゴット+2番ホルン=c、1番オーボエ+1番ホルン+弦楽4部=e】
という「割り振り」である。階名で表せば、
【シ(<)レ(<)ファ(<)ラ】
である。これは「ソ(<)シ(<)レ(<)ファ(<)ラ」という
属9の和音の根音ソを省略した形、ともスキャンできる。が、これは
【トリスタン和音】の構成音間の音程関係と同じなのである。だから、
プロイセン戦の大敗と退廃、
ヴィーン証券市場での暴落とコレラの流行によるヴィーン万博の失敗、など、
"ヴィーン世紀末"なるちんけな語で表される、
ハプスブルク家支配の落日を予感させる
「ぼんやりとした不安」ここに垣間見れるのである。
巷には、この喜歌劇「こうもり」の録音で、
カルロス・クライバーが最高、唯一無二、他に聴く必要なし、
などという"音楽通"が少なくない。あんな
ぎこちない演奏をさせる"指揮者"を神の如く崇めるなんて、
懐が深いというか、寛大な心を持ってると尊敬する。
うすっぺらいハリボテで作った手抜き細工であり、
ヴァルツァーのアゴーギクのセンスも持ち合わせてない。
指揮台の上でノリのよさをアピールするためだろうか、その
作り笑顔がただただ薄気味悪いギミースマイルでしかない。
2012年年頭のノイヤースコンツェアトはまたマリス・ヤンソンスらしい。
ヤンソンスとチャック・ウィルスンの顔の判別ができない
拙脳なる私には知ったようなことは言えないかもしれないが、
始めたクレメンス・クラウスの頃のヴィーナー・フィルハーモーニカーは、
たしかに「ウィーンふう」なヴァルツァーを演奏してた。
継いだヴィリー・ボスコフスキーはクラウスの野暮ったい部分にやすりを掛け、
粋でお洒落で味のあるヴィーナー・ヴァルツァーを確立した。
それをわざわざ"壊す"必要などないはずである。が、
クライバーを好むようなレヴェルの低い聴衆を相手にしては、
クウォリティの高さより薄利多売を狙うしかないわけである。
世も末、である。
ウサーマ・ビン・ラーディン(5月2日)、
ムアンマル・アル=カッザーフィー(10月20日)、
キム・ジョンイル(12月17日)、
という、
ブッシュ・ジュニアをおちょくったトリオが相次いで消えた年だった。
ヨーハン・シュトラウス・ジュニアの傑作、
喜歌劇「こうもり」(作曲・初演ともに1874年)は、
モトネタではクリスマス・イヴのお話だった。が、
イエズス会の力が強いヴィーンでは、
"聖夜"では差し障りがあった。ので
大晦日での話ということになり、現在でも
スィルヴェスターに上演される風習となってる。ともあれ、
第2幕の終いにオルロフスキー公の仮面舞踏会で踊られるヴァルツァー、
♪ソ>♯ファ<ソ<ラ>ソ>Nファ│>ミ>♯レ<ミ<ファ>ミ>Nレ│
>ド<ミ<ソー<ラー│ラーーーーー│
ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ファファファーファー│
<ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ミミミーミー♪
は、シュトラウス・ジュニアのワルツの中でも、
指折りのポピュラーなものになってる。ところで、
チャイコフスキー、ベートーヴェン、シューバート、ブルックナーを私は
音楽の4大高峰と思ってる。この4人の傑作は
聞き流すことができない。
耳に入ったり思い浮かべると、惹きつけられてしまう。が、
この4人以外の音楽は感動はしても
他のことが身につかないほどにはならない。
モーツァルトやシュトラウス・ジュニアの傑作は相当に好きである。が、
それを"BGM"にすることができる。若い頃、
就寝するときには、モーツァルトの「リンツ交響曲」の終楽章か、
シュトラウス・ジュニアの「こうもり」序曲をかけながら眠った。
前者はミヒャエール・ギーレン指揮南西ドイツ・ズィンフォニーオーケスター、
後者はヴィリー・ボスコフスキー指揮ヴィーナー・フィルハーモーニカー。
それくらいに好きなヘヴィ・ロウテイションな音楽である。
ともあれ、
喜歌劇「こうもり」第2幕終いのヴァルツァー
♪ソ>♯ファ<ソ<ラ>ソ>Nファ│>ミ>♯レ<ミ<ファ>ミ>Nレ│
>ド<ミ<ソー<ラー│【ラーーーーー】│
ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ファファファーファー│
<ラ>♯ソ<ラ<ド>シ>ラ│>ミミミーミー♪
は、序曲にも採り入れられてる。その序曲で
最初にト長調で出てくるときの【】内は、
1拍め、
【コントラバス=a、2番ファゴット=fis、1番ファゴット=c、1番オーボエ+弦楽4部=e】
2乃至3拍め、
【1番クラリネット+2番ファゴット+4番ホルン=fis、3番ホルン=a、
2番クラリネット&1番ファゴット+2番ホルン=c、1番オーボエ+1番ホルン+弦楽4部=e】
という「割り振り」である。階名で表せば、
【シ(<)レ(<)ファ(<)ラ】
である。これは「ソ(<)シ(<)レ(<)ファ(<)ラ」という
属9の和音の根音ソを省略した形、ともスキャンできる。が、これは
【トリスタン和音】の構成音間の音程関係と同じなのである。だから、
プロイセン戦の大敗と退廃、
ヴィーン証券市場での暴落とコレラの流行によるヴィーン万博の失敗、など、
"ヴィーン世紀末"なるちんけな語で表される、
ハプスブルク家支配の落日を予感させる
「ぼんやりとした不安」ここに垣間見れるのである。
巷には、この喜歌劇「こうもり」の録音で、
カルロス・クライバーが最高、唯一無二、他に聴く必要なし、
などという"音楽通"が少なくない。あんな
ぎこちない演奏をさせる"指揮者"を神の如く崇めるなんて、
懐が深いというか、寛大な心を持ってると尊敬する。
うすっぺらいハリボテで作った手抜き細工であり、
ヴァルツァーのアゴーギクのセンスも持ち合わせてない。
指揮台の上でノリのよさをアピールするためだろうか、その
作り笑顔がただただ薄気味悪いギミースマイルでしかない。
2012年年頭のノイヤースコンツェアトはまたマリス・ヤンソンスらしい。
ヤンソンスとチャック・ウィルスンの顔の判別ができない
拙脳なる私には知ったようなことは言えないかもしれないが、
始めたクレメンス・クラウスの頃のヴィーナー・フィルハーモーニカーは、
たしかに「ウィーンふう」なヴァルツァーを演奏してた。
継いだヴィリー・ボスコフスキーはクラウスの野暮ったい部分にやすりを掛け、
粋でお洒落で味のあるヴィーナー・ヴァルツァーを確立した。
それをわざわざ"壊す"必要などないはずである。が、
クライバーを好むようなレヴェルの低い聴衆を相手にしては、
クウォリティの高さより薄利多売を狙うしかないわけである。
世も末、である。
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