チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「一丁入り」

2010年04月01日 00時44分01秒 | 歴史ーランド・邪図
私はモテないキモオヤジのくせに、最近の
長澤まさみ女史のようなショートカットの髪の女性好きなので、
きれいっぽいお姉さんのブログをよくブラウズしてる。当然、
男性のブログを見ることはあまりない。が、稼ぎがないために
手元に僅かに残った十円硬貨を握り締めつつ、
夜食に錦松梅をふりかけた茶漬けを頬張りながら
男性ブログも数少ないが読むことはよむ。
そのひとつの最新エントリでは、別の話題を
5代め志ん生に譬えてた。ダジャレオヤジのわりには、
私は落語にはそれほどの思い入れはないが、それでも、
名人と言われるような噺家は録音でも高座でも聞いてる。が、
志ん生の話しっぷりは私は苦手である。もっとも有名な
「火焔太鼓」のオチも、その間や口調に、
鮮やかさを感じることはない。ともあれ、
幕臣の子孫らと組んでる大江戸探検隊の副隊長である私は、
若い時分には歴史上の著名人の墓めぐりをよくした。その中に、
幕臣……3000石という大身旗本の美濃部家の菩提寺である
還国寺(ゲンコクジ)詣でもあった。現在の地図でいえば、
文京区小日向2丁目。江戸川橋から二丁ほど北東に入った所、
タクシー料金のいざこざで間に入った警官を殴った
歌舞伎役者の宅の近くである。
志ん生は本名が美濃部孝蔵であるが、上記のごとく、
菅原道真の流れを汲む近江美濃部氏で、
室町時代に「鈎の陣」で六角家に与した
「甲賀二十一家」の一である。ところで、
「本能寺の変」のとき、信玄の従兄弟穴山梅雪と
堺に滞在してた家康は、岡崎めざして
「伊賀越え」を決行した、とされる。
途中で別行動をとった梅雪は、討たれて死ぬ。いっぽう、
一般に「34人」と伝えられてる家康一行は、
まんまと伊勢に出て、海路、三河に生還する。が、
実際には家康の周りには、
酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政、大久保忠隣、
などといった錚々たる武将をはじめとする
家臣30余名、小姓10余名、警護の伊賀衆200余名、
同甲賀衆150余名、という400人を超える
大軍団だったのである。家臣の中には、例の、
永井荷風や三島由紀夫の先祖にして、
信濃町の名の由来のもとにもなった
永井直勝(長田伝八郎)もいた。ともあれ、
その甲賀衆の美濃部一族数名が志ん生の先祖である。
元をたどれば天神様菅原道真である。ちなみに、
新陰流の柳生家も同族である。一般には、、
織田→豊臣の甲賀衆に対して、徳川の伊賀衆、
という認識がなされてるが、この「行軍」からも明らかなとおり、
甲賀衆もこのときすでに徳川に与してたことが分かる。
「伊賀越え」の護衛官らの子や孫が、のちの
関ヶ原・大坂の陣などで戦功をあげて、最終的には
3000石の旗本になったのであるが、大身ゆえに、
就く役職も政争の渦中ということにもなる。
江戸時代も中期末から後期になる11代家斉の時代、
その側近だった旗本は、家斉の死で立場が危うくなった。
水野の登場、天保の改革である。志ん生の先祖、
美濃部茂育(ミノベ・モチナル)は家斉を取り巻く
権力の中枢のひとりである。甘い汁を吸って、
御政道を違えたと、御小納戸頭役を解かれ、なんと最悪の
「甲府勤番」を命ぜられる。普通なら、
二度と日の目を見れない「仕置き」である。
「ミノベ(美濃部=身の辺)から、出る錆なれば、是非もなし。
荒砥にかけて、落す越前(=水野越前守忠邦)」
「どんぶりと、寝耳へ水の(=水野)、身の(=美濃)あはれ」
などという落首が詠まれる。が、
水野の極端に偏執にすぎた改革はすぐに失敗。いずれにせよ、
美濃部家は明治になってその「身上」を潰した。
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