チャイコフスキー 交響曲第4番 解説 最良の友 メック
[Symphony in f minor/Четвёртая симфония Чайковского]
{ヨーセフ・ハイドン、レイシャ、ブルックナー、ブルッフ、チャイコフスキー、リヒャルト・シュトラウス、スタンフォード、
アルヴェーン、ショスタコーヴィチ、シマノフスキ、ヴァイグル、ヴォーン=ウィリアムズ、ミャスコーフスキー、ラフ}
という元からなる集合Tと、
{チャイコフスキー}
という単一要素の集合Fは、
[ヘ短調の交響曲を書いたことがある作曲家]
という要素たる必要十分条件のもと、F⊆Tである。まぁ、つまりは、
「ヘ短調の交響曲を書いたことがあるのはチャイコフスキーだけでない」
ということである。巷には、
「ヘ短調の交響曲なんて酔狂な調性で交響曲を書いたのは、
チャイコフスキーの前にも後にもほとんどいない」
などと豪語する猛者もいるが、それは「偽」である。
ベートーヴェンの「交響曲第7番」の全楽章がAを根音とする和音で始まる、
なんていう高度なコードのウソをつけるほど私は気が強くも図々しくもないが、
チャイコフスキーの「交響曲第4番」はすべての楽章が
[f(ヘ音)]のユニゾンで終わる、ということは堂々と言える。いずれにしても、
この交響曲はチャイコフスキーの優れた作品の中でも、
極めて重要な曲なのである。さて、
この交響曲に関するフォン=メック夫人へのチャイコフスキーの「プログラム」は、
故園部四郎大先生や森田稔大先生らの訳が広く紹介されてる。ゆえに、
それについては触れないので、そちらを参照されたい。巷には、
真摯にチャイコフスキーの音楽を味わいたいという方々の無垢な気持ちを
もぎ取り歪める耐えがたいホラを吹くプロもいるので、ここでは、
別の側面からこの曲の鑑賞への参考となることを書き記す。
……【「交響曲第4番」と「交響曲第6番」との対比】……
「交響曲第4番」=ヘ短調←[(五度圏)対極調]→ロ短調=「交響曲第6番」
ヘ短調の第3音のユニゾン←[第1楽章開始]→第3音を欠く空虚5度の和音
主調(ヘ短調)←[序奏の調性]→主調(ロ短調)の下属調(ホ短調)
全部[f(ヘ音)]のユニゾン←[各楽章終止]→すべてそれぞれ別の主和音
チャイコフスキーの「交響曲第4番」は、「1876年の冬」に書き始められ、
1877年の5月にできあがり、主にイタリアの諸都市で同年の暮れに
オーケストレイションが完成された。が、
この「1876年の冬に書き始められ」たというのは、
フォン=メック夫人へのチャイコフスキーのリップ・サーヴィスかもしれない。なぜなら、
同夫人から初めての手紙を受けたのがその時期だったからである。
チャイコフスキーにとってフォン=メック未亡人は恰好のカネヅルだった。
道楽半分の低知能な女学生の連続5度を直してやらなければならない
懲役囚のような生活をもうしなくて済むようになるかもしれず、
実際、そうなったのである。
……【ナヂェージダ・フィラレータヴナ・フォン=メック】……
Надежда Филаретовна фон Мекк
(Nadezhda Filaretovna von Meck)
1831年2月10日生、1894年1月13日没(いずれも現行暦換算)。
チャイコフスキーの死からわずか2箇月で亡くなったのである。
チャイコフスキーの師であったいわゆるニコライ・ルビンシテインは
腸結核で亡くなったが、フォン=メック夫人は肺結核で、
療養地である南仏のニースで死亡した。ちなみに、
その13年前、ニコライ・ルビンシテインはやはりニースに
向かおうとしてたがその前にパリで死んでしまった。ともあれ、
いわゆるスモレンスクの地主フィラレート・ヴァスィーリイヴィチ・フラローフスキィ
(Филарет Васильевич Фроловский)
の娘として生まれたナヂェージダ・フィラレータヴナは、
17歳のとき10歳年上のドイツ系軍人貴族の倅
カールル・フィョーダラヴィチ・フォン=メックと結婚した。が、のちに、
鉄道敷設で莫大な財をなしたのがウソのように、新婚当初夫は、
のちにチャイコフスキーに与えた6000ルーブリの4分の1である
年収たった1500ルーブリの役人にすぎなかった。それでも18人の子をなし、
そのうち11人が早世せずに成人した。が、1876年、
夫は心筋梗塞で急死する。"フォン=メック財団"の総帥となった夫人は、
子供の頃から親しんでた芸術、とくに音楽に手を差し伸べる。
ニコライ・ルビンシテインのモスクワ音楽院への寄付もその一環だった。
のちには若き日のドビュッスィーを
娘の音楽教師として雇ったこともある。ただし、
娘に手を出したのでクビにした。それはどうでも、
ナヂェージダ・フィラレータヴナの母親の結婚前の名は、
Анастасия Димитриевна Потёмкина
(アナスターシャ・ヂミートリイヴナ・パチョームキナ)である。つまり、
エカチェリーナ2世に寵愛された近衛兵グリゴーリィ・アリクサーンダラヴィチ・パチョームキン、
タヴリーチェスキィ公爵、いわゆる「ポチョムキン家」の一員なのである。また、
ナヂェージダ・フィラレータヴナ・フォン=メックは、当時としてはめずらしい
無神論者だった。なるほど、
真に優れた作曲家を支援した慧眼の持ち主は、
宗教などというまやかしには騙されない
客観的真理を見抜く能があったのである。ところで、
チャイコフスキーが1888年春から1891年初春までの約3年間借りてた貸家があった
Фроловское(いわゆるフロロフスコエ村)が、
フォン=メック夫人の実家のФроловский
(女性はФроловская)という名と繋がりがあるのか否かは、
ド素人の私には知ろうとしても判らない。
さて、このように、
決して会わなくていい、金だけくれる谷町は、
チャイコフスキーにとってこのうえもないものだった。
本心で自分の音楽の真の理解者を得たと思ったことだろう。
その心意気に応えるべく作り出したのが、
「交響曲第4番」なのである。
この交響曲が「ヘ短調」で書かれたのは、冒頭7小節めからの、
「エヴゲーニー・オネーギン」第3幕初曲のポロネーズ冒頭のファンファーレと
「ターーー・ーータタタ・ターター」という律動がおんなじながら、その
[D(ニ音)]に対する五度圏概念では正反対の
増4度上の[As(変イ音)]を
長いF管の1番トランペットに吹かせる困難さを
目論んだということもあるかもしれない。が、
新たに支援者となってくれたフォン=メック夫人に献呈することを
ハナから想定してたのである。夫人の未婚時代名は、
Фроловская(フラローフスカヤ)という頭文字Ф、
отчество(オーチストヴァ=父称)
Филаретовна(フィラレータヴナ)の頭文字Ф、
嫁ぎ先のvon Mekkというプロイセン系ユンカー(地主貴族)を
ロシア語ではфон Меккと表記し、そのф、
はすべて"Fの音"を表すのである。ちなみに、この交響曲の
少し前に書かれたバレエ「白鳥の湖」の第3幕終い、第24曲では、
「王妃は王子からの接吻を手に受けたオディールこそが婚約者と言う」場面で、
*♪【ミ・<ドー>ラ│ラー>♯ソ】・<シー>レ│<ファー>ド・<ミー>ラ│
<ドー>♯ファ・<ドー>♯ソ│<シ>ラ♪
という、モーツァルトの「レクィエム」の「ラクリモーサ(涙の日)」、
*♪【ミーー・ー<ド>ラ・・ラーー>♯ソ】●●♪
を引用した節を「ヘ短調」で吹かせ、王子が間違いに気づいて
фон Ротбальд(フォン・ロートバリト=いわゆるロットバルト)が
高笑いして舞台が真っ暗になるときに、
ヘ短調のファンファーレを鳴り響かせるのである。
"Четвёртая Симфония Чайковского
фа минор, соч. 36"
(チトヴョールタヤ「第4の」・スィンフォーニヤ「交響曲」・チィコーフスカヴァ「チャイコフスキーの」・
ファ「ヘ」・ミノール「短調」・ソーチ(=сочинениеサチニェーニエの略「作品」、
次回冬季五輪のСочиソーチのことではない))
は、予定通り、
"Моему Лучшему Другу"
(マイムー「我が」・ルーチシイムゥ「最良の」・ドルーグゥ「友に」)
献呈された。
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