徳川宗春は尾張藩第3代藩主徳川綱誠の二十男として生まれた。
早死がおおかった尾張家の中で、
支藩である陸奥国梁川藩の跡を継いだ。が、
本家も継ぐ者がなくなってついに
35歳にして尾張藩主となった。英明だったために、
理に合わぬことを止め、善政を敷くことに努めた。そして、
将軍吉宗が緊縮財政を採ってるのに対し、
自領内では商業振興政策を採った。
どうみても"対立"してる印象は否めない。
それとはまた別に、
家康の徳川家サヴァイヴァル戦略が根底にあった。
紀州出将軍家ではあっても、将軍家となった以上、
吉宗は自分とそのDNAをひく子孫が徳川将軍家を
継いでく重大な責務を背負った。いっぽう、
尾張徳川家はその始祖である義直が、
家康からの教えで「尊皇」思想を植えつけられた。そして、
それは"家風"として伝えられたのである。
将軍家というのはつまりは"アンチ朝廷"である。
将軍家が力を持ってる限りはいいが、
衰えたらたちまちに尊皇派あるいは反徳川に潰される。
そこで家康が思いついたのが、
将軍家とは性格の異なる徳川家をたてることだった。
家康のすごいところは、先人や自分が対峙してきた武将から
多くを学び、それらの優れたところを採り入れてきたことである。
徳川家は武田家に辛酸をなめさせられもしたが、
家康は信玄やその配下の武将たちから学んだ。
関ヶ原では世嗣の秀忠が足止めを食うことになったのは、
武田家の武将の一人だった真田昌幸によってだった。
真田家は親豊臣の昌幸と幸村が西軍に、
親徳川の信幸が東軍に、それぞれ家を分かった。そして、
生き残った。家康はそこに学んだのである。
逆から見れば、紀州殿から将軍となった吉宗にとって、
尊皇に凝りかたまった尾張徳川では
天下に将軍家の示しがつかない。そうして、
老中松平乗邑による"尾張絞め"が始まった。そもそも、
吉宗は紀州藩の藩主になっただけでも本来は
"ありえない"ことだった。それが、
将軍にまでなってしまったのは、
ただの"偶然"であるはずがない。
隠密を送りこむのはお手の物である。
そうしたエイジェントがさまざまな工作をして、
尾張領内の庶民に"宗春の失政"を"意識させる"のは
朝飯前のことだった。そうしたことは、
「安倍首相の横暴」とか「悪政」をツイッターでつぶやきリツイートさせ、
「安倍内閣閣僚の粗探し」をして通させたくない法案審議をさせない、
といった売国貶日民主党の日本人の資格を持つ議員らが踏襲してる。
もとより、
商売のあがりから税金を取ることをしなかった江戸時代にあって、
商業振興が税収に繋がらないのは当たり前で、
尾張藩の懐が潤うわけではなかった。したがって、
勤王思想ゆえにもともと幕府から厳しく監視されてたことを危惧してた
重臣らは宗春が吉宗の"改革"精神を逆撫でしてることに
大いなる不安・不満を抱いたのは至極当然のことである。
しかし、
幕府は宗春を謹慎させるだけでは済まなかった。
明和元年10月8日(現行暦換算、1764年11月1日)、
250年前の今日、宗春は(数え)69歳で死んだ。
実質先々代の吉通(宗春の兄)から嫡子が育たず産まれず、
というなんとも不思議な現象が尾張家を支配し、
宗春自身もそうだったがそのあと2代も分家の
高須藩四谷松平家からの本家入りだったが、
男系は途絶え、そのあとの4代は、
一橋家、将軍家(家斉の子)、田安家、田安家、
といった吉宗の子孫を養子に迎えるはめとなったのである。
そのあとやっと支藩の高須藩から養子を迎えたが、
実際にはその高須藩四谷松平家の慶勝も、
水戸家(紀州家と同じく養珠院を母系とする)の血筋だった。
吉宗の孫家斉の時代に、
尾張家は完全に吉宗の血に取り替えられたのである。あげく、
第15代尾張家藩主茂徳は、最後は
一橋家当主になってしまう、
という現象まで生じた。
尾張徳川家のあがりが一橋家、ということは
(御三家筆頭)尾張家より一橋家のほうが上ということが、
天下・庶民にも示されたのである。
ちなみに、
「勤王思想」のほうは水戸徳川家に受け継がれ、
水戸家出の慶喜によって徳川将軍家も
静岡移転とはいえ存続され、
家康の深慮遠謀は達成された。
早死がおおかった尾張家の中で、
支藩である陸奥国梁川藩の跡を継いだ。が、
本家も継ぐ者がなくなってついに
35歳にして尾張藩主となった。英明だったために、
理に合わぬことを止め、善政を敷くことに努めた。そして、
将軍吉宗が緊縮財政を採ってるのに対し、
自領内では商業振興政策を採った。
どうみても"対立"してる印象は否めない。
それとはまた別に、
家康の徳川家サヴァイヴァル戦略が根底にあった。
紀州出将軍家ではあっても、将軍家となった以上、
吉宗は自分とそのDNAをひく子孫が徳川将軍家を
継いでく重大な責務を背負った。いっぽう、
尾張徳川家はその始祖である義直が、
家康からの教えで「尊皇」思想を植えつけられた。そして、
それは"家風"として伝えられたのである。
将軍家というのはつまりは"アンチ朝廷"である。
将軍家が力を持ってる限りはいいが、
衰えたらたちまちに尊皇派あるいは反徳川に潰される。
そこで家康が思いついたのが、
将軍家とは性格の異なる徳川家をたてることだった。
家康のすごいところは、先人や自分が対峙してきた武将から
多くを学び、それらの優れたところを採り入れてきたことである。
徳川家は武田家に辛酸をなめさせられもしたが、
家康は信玄やその配下の武将たちから学んだ。
関ヶ原では世嗣の秀忠が足止めを食うことになったのは、
武田家の武将の一人だった真田昌幸によってだった。
真田家は親豊臣の昌幸と幸村が西軍に、
親徳川の信幸が東軍に、それぞれ家を分かった。そして、
生き残った。家康はそこに学んだのである。
逆から見れば、紀州殿から将軍となった吉宗にとって、
尊皇に凝りかたまった尾張徳川では
天下に将軍家の示しがつかない。そうして、
老中松平乗邑による"尾張絞め"が始まった。そもそも、
吉宗は紀州藩の藩主になっただけでも本来は
"ありえない"ことだった。それが、
将軍にまでなってしまったのは、
ただの"偶然"であるはずがない。
隠密を送りこむのはお手の物である。
そうしたエイジェントがさまざまな工作をして、
尾張領内の庶民に"宗春の失政"を"意識させる"のは
朝飯前のことだった。そうしたことは、
「安倍首相の横暴」とか「悪政」をツイッターでつぶやきリツイートさせ、
「安倍内閣閣僚の粗探し」をして通させたくない法案審議をさせない、
といった売国貶日民主党の日本人の資格を持つ議員らが踏襲してる。
もとより、
商売のあがりから税金を取ることをしなかった江戸時代にあって、
商業振興が税収に繋がらないのは当たり前で、
尾張藩の懐が潤うわけではなかった。したがって、
勤王思想ゆえにもともと幕府から厳しく監視されてたことを危惧してた
重臣らは宗春が吉宗の"改革"精神を逆撫でしてることに
大いなる不安・不満を抱いたのは至極当然のことである。
しかし、
幕府は宗春を謹慎させるだけでは済まなかった。
明和元年10月8日(現行暦換算、1764年11月1日)、
250年前の今日、宗春は(数え)69歳で死んだ。
実質先々代の吉通(宗春の兄)から嫡子が育たず産まれず、
というなんとも不思議な現象が尾張家を支配し、
宗春自身もそうだったがそのあと2代も分家の
高須藩四谷松平家からの本家入りだったが、
男系は途絶え、そのあとの4代は、
一橋家、将軍家(家斉の子)、田安家、田安家、
といった吉宗の子孫を養子に迎えるはめとなったのである。
そのあとやっと支藩の高須藩から養子を迎えたが、
実際にはその高須藩四谷松平家の慶勝も、
水戸家(紀州家と同じく養珠院を母系とする)の血筋だった。
吉宗の孫家斉の時代に、
尾張家は完全に吉宗の血に取り替えられたのである。あげく、
第15代尾張家藩主茂徳は、最後は
一橋家当主になってしまう、
という現象まで生じた。
尾張徳川家のあがりが一橋家、ということは
(御三家筆頭)尾張家より一橋家のほうが上ということが、
天下・庶民にも示されたのである。
ちなみに、
「勤王思想」のほうは水戸徳川家に受け継がれ、
水戸家出の慶喜によって徳川将軍家も
静岡移転とはいえ存続され、
家康の深慮遠謀は達成された。
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