チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「忠因(ただなお)卿行状記/尻焼猿人(しりやけのさるんど)生誕250年にあたって」

2011年08月01日 00時16分37秒 | ヘェ?ソウ?でチャオ和歌す
日本の新幹線は温州駅約10Km手前では今も停まらないが、
品川駅に停まるようになってからは、
京都競馬場や中京競馬場からの帰りなど、
新幹線を利用する場合私は同駅で降りる。そんなとき、
湯河原の自宅に帰るのだろう、平井出身の女優の五月みどり女史
(ちなみに、妹の小松みどり女史は引っ越した小松川出身からの芸名)
がキャスター附きキャリーバッグを引いて改札に入ってく姿を2度見たことがある。
私が若い頃、同女史は「熟女」という分野のハシリだった。
東映のお色気映画「五月みどりのかまきり夫人の告白」で
広く知られてた。当時35歳、現在71歳である。
「かまきり」といえば、かつてあった700円の普通切手の絵柄は、
「四季花鳥図巻」から採られてる「かまきり」だった。

ときに、
徳川4代将軍家綱の臨終の際、鎌倉幕府に倣って、
越前松平家忠直卿の娘にして秀忠の養女の亀姫が妃である
高松宮好仁親王は後西天皇の皇子という関係から、その
好仁親王が起こした有栖川宮家の3代目である
有栖川宮幸仁親王を宮将軍として擁立しようとしたとされ、
それを配されて大老の任を解かれて死んだのが酒井忠清である。
その雅楽頭酒井家は直系が途絶えるが、親類である
小浜酒井家から養子が入って存続する。その
小浜系となって三世代めが、
姫路15万石酒井忠以とその弟酒井忠因(ただなお)である。
姫路15万石酒井家は、江戸時代半ばまでは、
上州前橋に封じられてた。また、
忠世時代に封じられてた上州伊勢崎にも、幕末まで続く
酒井家の支藩があった。その伊勢崎の近隣の養蚕豪農で、
新田氏の支流金井氏の出である俳人に、
華竹庵萬戸(1770-1832)という人物がいた。
萬戸が地元に建立した芭蕉の句碑には、
[降らずとも、竹植ゆる日は、蓑と笠]
と記されてる。ともあれ、その字を書いたのは、
酒井杜綾(杜甫の号である杜陵をいただいたもの)である。
さて、
上州といえば活火山浅間山があるので、
地殻変動が活発なので温泉も多い。
その代表が草津の湯である。沼田を領した真田家が
江戸時代前期に支配してた。そこからそう遠くないところに、
尻焼温泉がある。川底から湧き出てる湯に
猿が尻をあててたのを見てひとさまの痔の湯治にしてみたのが
その名の由来かもしれない。一説に、
平家の落人が発見した、ともいわれてる。尻焼落人である。
江戸時代中後期当時は秘湯だったその温泉をもじって狂名にしたのが、
尻焼猿人である。

そういえば、
去る25日には海老麻央夫妻に女子が生まれたらしい。
海老蔵はおそらく13代目団十郎になるのだろうが、
あの「写楽」が「『恋女房染分手綱』の竹村定之進」で描いてるのが
5代目である。その5代目団十郎は俳句や狂歌も嗜んだ。
同人は当然に四方赤良(大田南畝)や尻焼猿人などと親交があった。
尻焼猿人が大名家の武士として隠居したのは33歳のときである。
部屋住み時代も捨て扶持を1000石も拝してた金持ちである。
さらに吉原で遊び耽った。
[御簾ほどに、なかば霞の、かかる時、さくらや花の、王と見ゆらん]
[ほれもせず、ほれられもせず。よし原に、酔ひてくるわの、花の下かげ]
[こはごはに、とる蜂の巣の、あなにえや。うましをとめの、みつのあぢわひ]

毎年、8月になると築地本願寺では盆踊りが開かれる。今年も、
3日乃至6日に行われる。ちなみに、
宝暦11年7月1日(現行暦換算1761年8月1日)は
尻焼猿人が生まれた日である。ともあれ、
その築地本願寺境内の新大橋通り沿いの正面入口に向かって
左の角に、杉並の和田堀に移されなかった唯一の墓が残ってる。
尻焼猿人の墓である。
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