チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「いまさらながらの清正井(桜の井)/加藤清正没後400年にあたって」

2011年08月02日 18時55分21秒 | 歴史ーランド・邪図
昨年年初あたりから明治神宮の「清正井」が
"パワー・スポット"として庶民にもてはやされて
そこに"参拝"する人々の行列が絶えないというブームがあった。
待ち時間5時間とか6時間とか、暇人なことである。が、
せっかく待っても時間が来て今日はこれでお終い、
なんてシャットアウトされてしまった人もいたらしい。そんなときは、
"Oh, well"と言って肩をすくめてみせるしかない。ともあれ、
現代でもこういう"霊的な(スピリチュアル)"ものを信じ込む層が薄くないことは、
国家反逆・国家転覆を謀るのと同等なことをしても、諸外国のようには
死刑にならない国会議員・大臣・総理を生み出す土壌となってるのである。
井戸に魂など宿らないし、力も蓄積されない。

慶長16年6月24日(現行暦換算1611年8月2日)は、
戦国武将加藤清正(1562-1611)が死んだとされてる日である。
この慶長16年という年はちなみに、
"何かのパワー"によって、戦国大名がバタバタと死んでる。その中でも、
真田昌幸と加藤清正は、徳川幕府にとって好ましからざる二人だった。
明治神宮の井戸は加藤家の屋敷がかつてあったところで、
清正が掘るように命じたとされてる。が、屋敷は
加藤家改易のあと彦根井伊家に与えられた。いっぽう、
現在の千代田区永田町にある国会前交差点のすぐ近くにも、
井戸がある。
「桜の井」と呼ばれてるものである。現在は、
その井戸の石垣が交差点を避けるために少しずらされたところに
移設されてる。その井戸は、
「桜田門外の変」で広く知られる井伊家の上屋敷の門にあったものである。
こちらの屋敷もまた、井伊家に与えられる前は加藤家の上屋敷だった。
清正の子忠広(1601-1653)は寛永9年(およそ西暦1632年)熊本を改易になって
庄内酒井家にお預けとなり、出羽丸岡に1代限りの1万石を与えられて
余生を送った。この加藤家取り潰しは、同年はじめに死んだ
2代将軍秀忠が遺言したものだったのだろう。ともあれ、
こちらの井戸もやはり清正が掘らせたものだといわれる。
猛将だっただけでなく築城・土木事業の才もあった清正の屋敷が
現在の国土交通省の前にあるのも、"霊力"のなせるわざである。

さて、
上屋敷・下屋敷ともども加藤家から井伊家になったわけであるが、
「井」戸に関係深い「井」伊家のものになったということである。いっぽう、
清正の中屋敷があったとされてる現在の港区白金台の
「清正公(せいしょうこう)」覚林寺は、朝鮮の役の際に、
李氏朝鮮王家を継げなかった長男王子の子女を清正が国許に連れ帰り、
庇護して養育したが、その男子が出家して日延となり、
この寺を隠居所として清正公像を祀ったことに始まるという。で、
ここにも"霊力"が働いてるらしい。
清正公像は日米戦争のときに防空壕に避難させようとしたら、
壕から湧き出る水のために納めすることができなかった。そして、
戦争末期に清正公堂の屋根に焼夷弾を落とされたときには、
弾は自然消失してしまった。
のだという。だとしたら、井戸なんかよりも
ここのほうがよほど"パワー・スポット"である。
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