チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「よう命は惜しいものにて候ひけりと今こそ思ひ知られて候へ/能『船弁慶』その2」

2010年09月13日 00時07分17秒 | 歴史ーランド・邪図
「よう命は惜しいものにて候ひけりと今こそ思ひ知られて候へ」
(拙大意)つくづく命は惜しいものだったと、今の今、思い知らされたんです。

能「船弁慶」においてなぜ義経が子方なのか、といえば、
一般的には、シテとワキのふたりの他に、
義経という大きなキャラクターを大人に演じさせては煩雑になる、
という理屈が表向きに通ってる。が、
「船弁慶」ではその幽霊が後シテである平知盛の、
以下のエピソードを考えると、
そんな些末な理由だけでは説明がつかないということが、
見えてくる。

「平家物語」巻9第17段「知章(ともあきら)の最期」
は、平知章が討たれる場面を描いてる。平知章は
平知盛の長男、つまり、清盛の孫である。このとき、
15歳。寿永3年(おおむね1184年)2月7日、
都落ちした平知盛・平知章父子は、
一ノ谷の戦いの生田口の戦線で
源頼範軍に大敗を喫した。そして、
平知盛・平知章父子は侍の監物頼方との3騎で敗走。
総大将平宗盛(知盛のすぐ上の兄)が待つ助け船まで逃げる途中、
源氏方の児玉党とおぼしき10騎ほどに追いつかれる。その
中のひとりが知盛と組もうとして馬を寄せてきた。すると、
倅の知章が父の危機とばかりにその中に割って入り、
組み合ってみごと討ち果たす。が、そこに、
相手の侍の小姓が加勢に来て、知盛は
討ち取られてしまう。監物はその小姓を討つが、なにせ、
多勢に無勢(このとき、9騎に2騎)。ついに討ち死にしてしまう。が、
倅と侍が奮戦して犠牲となってる間、知盛は這々の体で逃げ、
総大将宗盛の助け船までたどり着く。
ここで、平家物語はその馬に関するエピソードを挟み、
満を持して知盛の涙の告白の場面に繋げるのである。

<新中納言知盛の卿、大臣殿の御前におはして、涙を流いて申されけるは、
「武蔵の守にも後れ候ひぬ。監物太郎をも討たせ候ひぬ。
  今は心細うこそまかりなって候へ。
  されば、子はあって親を討たせじと敵に組む見ながら、いかなる親なれば
  子の討たるるを助けずしてこれまで逃れ参って候ふやらん。
  あはれ、人の上ならばいかばかりもどかしう候ふべきに、
  わが身の上になり候へば、よう命は惜しいものにて候ひけりに
  今こそ思ひ知られて候へ。
  人々の思し召さん御心の中どもこそ恥しう候へ」
 とて、鐙の袖を顔に押し當ててさめざめと泣かれければ、大臣殿、
 「まことに武蔵の守の父の命に代られるこそありがたけれ。
  手もきき心も剛にしてよき大将軍にておはしつる人を、
  あの清宗と同年にて今年は十六な」
 とて、御子右衛門の督のおはしける方を見給ひて涙ぐみ給へば、
 その座にいくらも並み居給へる人々、
 心あるも心なきも皆鐙の袖をぞ濡されける>
(拙大意)
新中納言知盛卿が、大臣宗盛殿の御前にいらっしゃって、涙を流して申されたことには、
「武蔵守(知章)にも先立たれました。監物太郎をも敵方に討たせてしまいました。
(平家からみて源氏からの行為は「受身」でも「上から目線」で「使役」のように表現する)
今は心細く心細く、なってしまいました。
いったい、子は助太刀にきてくれて親を討たせまいとして敵に組むのを見ながら、どんな親なら
子が討たれるのを助けないでここまで逃げてくるでしょうか、いえそんなことはしません。
ううう、他の人の身の上のことならどんなにか非難したい気持ちになるはずですけど、
我が身の上のことになりますと、つくづく命は惜しいものだったと、
他でもない今、思い知ったんです。
平家の公達の皆が(思し召すは尊敬語なので、原語の「人々」は従者や一般人は対象にしてない)
お思いになるだろう他でもないそれぞれのお心の中の私への侮蔑が、恥ずかしいのです」
と言って、鎧の袖を顔に押し当ててさめざめとお泣きになるので、大臣宗盛殿は、
「本当に武蔵守(知章)が他ならぬ父の命の身代わりになられたことは尊いことです。
技量もあり考えもしっかりしてて優れた統率官であられた方を、
あの清宗(宗盛の長男)と同年で今年は16歳であられたことよ」
と言って、お子様である右衛門督清宗がおいでになるほうをご覧になって涙ぐみなさったので、
その場に大勢並んで座しておいでになってる諸将は、
涙もろい方ももろくない方も(あるいは、事情を理解してる方もそうでない方も)皆
(心ある、心ない、を情けや思いやりのあるなしと訳すむきがあるが、そうでないことは明らか)、
鎧の袖という袖を、お濡らしになったことである。

武家出身でない者には理解できないことかもしれないが、
事情・場合によっては子や親でも犠牲にしなければならない。
その是非を論じても意味はないのである。
首を刎ねるから野蛮だ、鼻や耳を削ぐから酷い、
というのは、戦闘に関係しなくていい門外漢の理屈なのである。
関ヶ原で態勢が決して四面楚歌になってしまった島津が、
当主の弟義弘の命だけを守るために、俗に言う
「中央突破」をして、捨て奸(すてがまり)戦法で
義弘の甥の豊久も討ち死にしながら目的を果たした。

ただし、
人間だから感情はある。本音では
野蛮だとか酷いとかは思うのである。
平家一門のことを考えると、
倅を犠牲にしてでも自分が生き延びたほうがためになる、
という表向きの事情のみで繕うのではなく、
本音を告げた知盛は、じつに人間くさい、心の優しい人物だったのだろう。が、
そのことでかえって倅を見殺しにして自分だけ生き延びたことの悲惨さが
浮き彫りになる。そして、知盛はたとえそう思っても、
それを人に告げてはならなかったのである、武士ならば。
この意味でも武家としての平家の滅亡は目に見えてた。
平治の乱のとき、敗者源義朝の御曹司頼朝を宗盛や知盛の父清盛は
継母池禅尼の嘆願で助命してしまった。それが、
平家が打倒される一因になったのである。もっとも、
そもそも、(詳細は省くが)
「平氏」より「源氏」のほうが「格上」なのである。ともあれ、
頼朝(やその嫁の実家の平氏北条)は容赦ない。ちなみに、
この知盛の幽霊が現れたとき、
「その時義経少しも騒がず」
と、能「船弁慶」でその作者は
子方の義経(牛若丸ではない)に宣言させ、なまっちょろい
平家の公達とは大違いであることを示した。

そういえば、
むかし、叔父によく連れてってもらった府中にある東京競馬場で、
パドック前でがっくりうなだれてる父親の横で、
その息子らしき私と同年代男の子が慰めるように言った。
「父ちゃん、今度はおいらが稼いでやるからよぉ」
小金持ちの家に生まれてご苦労無しで育ってた私には、
ものすごく衝撃のある言葉だった。が、
そんな言葉は昭和40年代にはそういう場所では
ごく当たり前に聞こえてきたのである。
倅が父親、ひいては家族のために働く、稼ぐ、命を捨てる、
のである。

さて、
平知盛・平知章父子を追って、その倅を仕留めた児玉党は、
後世、その家系をある人物によって名乗られることになる。
児玉党の始祖は有道惟能である。この人物は、
「藤原北家流」藤原伊周の家司だった。
伊周が叔父道長との政争に敗れ去ったため、有道惟能は
武蔵国児玉郡に下ってそこに勢力を張った。その後裔に、
本庄氏がある。この系統だと詐称したのが、
徳川第5代将軍綱吉の母の生家である。
第3代将軍家光の側室お万の方に仕えたが、その
お万の方は、尼だったのを
春日局によって還俗させられて家光の側室となった。
村上源氏流六条家出身である。じつは、
春日局は明智一族だというだけのタダモノではない。
「藤原北家流」三条西家の血も引いてるのである。同様に、
おそらくのちの桂昌院も、春日局が"連れて"きたのだから、
タダモノではなかったはずである。だからこそ、
西陣織職人の娘とか八百屋の娘とか大根売りの娘とか、
わざと身分卑しい(つまり素性がわからない→本当の素性を隠す)
者として見られるようにしたのである。家光の三男の母、
お夏の方も、町人の娘、ということになってる。しかも、
またなぜか「京都」の。そして、大奥でも卑しき身分から、
男色であったはずの家光の「お手つき」になってるのである。
すべては春日局の差し金だったのだろうと推測する。ともあれ、
児玉党の本庄氏を名乗った桂昌院の一族は引き立てられ、やがて、
弟は大名にまで出世する。常陸国真壁に知行地を与えられた。が、
そこは佐竹氏が秋田に転封になった跡地である。
佐竹氏は三条西家とは縁戚関係である。いずれにせよ、
桂昌院の町娘としての"源氏名"玉は児「玉」から取って付けて、
もともとあった「玉の輿」という言葉に故事つけた名である。
八百屋とかなんとか、わざと身分を怪しくしてみせてるだけである。
春日局の「引き」というだけでピンとこなくては、
歴史に対するセンスは欠如してると思ったほうがいい。

桂昌院の墓は増上寺だが、京都の現在の西京区にある
善峯寺にも桂昌院廟が設けられてる。生前、
桂昌院がこの寺を援助してたのであるが、
この寺は「西山門跡」と言われ、現在の東山区にある
門跡寺院青蓮院から多くの法親王(ほっしんのう)が出向してきた。
青連院も善峯寺も当然に「天台宗」である。ちなみに、
青連院は知恩院の隣である。そこは、
「粟田口」。明智光秀の首が晒されたとされ、
家光の乳母募集の高札が立てられ、それを
偶然見てお福(春日局)が夫と別れ子と別れてわざわざ応募した、
とされる場所である。
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